狂うほどに夢中
ふと、鼻腔を掠める香ばしい匂いに意識が浮上する。どうやらあの後、そのままリビングで眠っていたらしい。シャツはボタンを外されたままだったが、あの時は確かに床に落ちていたタオルケットがかけられていて…僅かにぼんやりとした意識でアイツがかけてくれたのか、と理解した。
side:赤井
―――秀一
意識が覚醒するのと同時に、夜中の記憶が一気に蘇る。そうだ…あの時、確かにアイツは俺の名前を呼んだ。ずっと名字で呼んでいたのに、あの時は聞き慣れた呼び方で…視線を上げればキッチンでパタパタと動き回っている円香の姿が見える。
いつもより動きが鈍い気はするが、それでももう情事の痕跡は一切感じることがない。ホッとした反面、少しだけ残念な気持ちになるのは何故だろうな。
(一緒に微睡んでいたかった…ということなんだろうか)
そっと溜息を吐いて、ソファから立ち上がった。一歩、また一歩とキッチンへ、円香の傍へ近づく度に心臓がうるさくなっていく。こんなにも緊張するのは、いつ以来だろうか。すぐには思い出せないくらいに昔、ということなんだろうな。
俺の気配に気がついたらしい彼女が、マグカップを持ったまま振り向いた。何かを口にされる前に名前を呼べば―――
「目が覚めたんですね、おはようございます。秀一」
「……ッ」
「コーヒーが出来れば朝ご飯の完成なので、もう少しだけ待っていてくださいね。あ、先にシャワー浴びてきたらどうですか?」
ちゃんと掃除してありますから、綺麗ですよ〜。
にこにこ笑って話す様は、口調は、表情は…俺がずっと、傍で見てきたもの・聞いてきたものと全く一緒だった。記憶が戻ったのか、と安堵する。感情のままに抱きしめれば、マグカップが割れると見当違いなことを言うものだから思わず笑ってしまった。ああ…戻ってきた。この腕の中に、変わることのない彼女を。
記憶がなくとも愛せる、愛したいと思っていたことに嘘はない。円香は円香だとも思っている。けれど、それでもやはり心のどこかで思い出してほしいと願っていたんだ。俺が全ての思い出を覚えていれば、何も失くなることはないと思っていたんだが、それらを共有できないのは―――淋しいと思ってしまう。
いや、思ってしまったんだ。楽しかったことも、悲しかったことも、辛かったことも、…どうしたって1人では抱えきれない。今までであれば抱えきれる、と思っていたんだろうが、ダメだな。どうにもこの女が傍にいないと、色んなことがままならなくなるらしい。
「…円香」
「はい、ここにいますよ?秀一」
「ああ…」
「心配かけてしまいましたね、全部…思い出せました。貴方のおかげで」
「俺は何もしていない」
更にぎゅっと抱きしめると、いい加減離せとマグカップで小突かれた。陶器で小突かれるのは地味に痛いんだがな…。
「もう、今日は甘えたの気分ですか?」
「…そうだと言ったら、甘やかしてくれるのか?」
「構いませんけど、シャワーと朝ご飯を終えてからですよ。お腹空いたんです、私」
「ク、相変わらずだなぁお前は」
「あ、あれだけ運動すればお腹も空きますってば…!」
真っ赤な顔でそんなことを言われてしまったら、ベッドルームに連れ込みたくなるから正直勘弁してほしい所だな。
素直に口に出せばきっと、真っ赤な顔のまま烈火の如く怒り始めるだろうから言わないでおくが。ここは彼女の言うことを聞いてシャワーを浴びてから朝食にするとしようか…話はそれからでもできるだろう。
さっとシャワーを浴びてダイニングへ戻れば、もう食事の準備ができていた。トーストにベーコンエッグにサラダ、そしてスープとコーヒー。
よくもまぁ、朝からしっかりと作ったものだな。それとも俺が思っていた以上に眠っていたのだろうか?完全に彼女の方がダメージが大きいと思っているんだが。
「早くに目を覚ましたのか?」
「え?」
「しっかりとした朝食が用意されているから」
「ああ…でもそんなに時間かからないものばかりです。サラダは手でちぎっただけですし、ベーコンエッグとトーストも焼くだけだもの」
「スープは?」
「材料を切って鍋に放り込むだけ。あとは煮込まれるのを待つだけです」
話を聞いてみると、彼女も目を覚ましたのは今から1時間ほど前だったらしい。俺がまだ寝ているのを見てこれ幸い、と朝食の準備を始めたということだ。…何がこれ幸いなのかはじっくり聞き出したい所ではあるな。まるで俺が起きていては都合が悪いように聞こえる。
それからの時間は比較的穏やかだった。2人で朝食を取り、片付けと洗濯を済ませた頃にはもう昼近くになっていて。とはいえ、朝食を取ったのが遅めだったからな…まだ昼食にしなくともいいだろう。
(この旅行の間に記憶を取り戻してくれたら、とは思っていたが…予想外の早さだったな)
ソファに座り、隣で本を読んでいる円香に視線を移す。ここアメリカは俺達の出会った場所で、一緒に時間を過ごした場所だった。そこに行けばもしかしたら、という思いがあった。何かのはずみで思い出してくれるかもしれないと、本気で思うくらいに。その反面、戻らないかもしれないという思いももちろんあって。
…だから、アメリカに着いたその夜に記憶が戻るというのは本当に予想外だったんだ。こんなことがあるのか、と思ったよ。まぁ、都合のいい夢を見ているのかもしれないと思ったがな。
「朝、貴方のおかげで思い出しましたって言ったじゃないですか」
「ああ、言われたな。なんだ、話してくれるのか?」
「逆にどうして話さないって思ったんです…」
「お前は案外、秘密主義だからな。あまり弱みを見せたがらないだろう」
コーヒーを飲みながら言えば、グッと眉間にシワを寄せて押し黙ってしまった。くくっ図星で悔しい思いをしているんだろうが、そんな顔も可愛いと思えてしまう。コイツのこういう素直な所に、昔から惹かれているのだろう。俺にはないものだから、余計に眩しく感じるのだと思う。
俺が素直になったら、円香は大笑いしそうだな…さすがにそれは勘弁願いたい。
「それで?俺のおかげというのはどういうことだ?」
「あ、はい。あの、昨日…その…シ、たじゃないですか」
「何故照れる。今更じゃないか?」
「照れますよ慣れませんよ!何で秀一は平気なんですかぁ…」
「お前が照れ過ぎなんだよ」
…気がついたら話が脱線しているな。だが、この会話のテンポは少し久しぶりのように思う。退院してからは大分、会話もスムーズだったがここまでではなかったな。
やはり、記憶があるのとないのとでは違うものなのか…記憶のない彼女との会話もなかなかに楽しかったが。新鮮でもあったしな、砕けた口調で話されるのは。
(いずれは敬語を外してもらいたい、と思うが…難しいのだろうか)
円香の声を聞きながらぼんやりと考えていると、下から覗き込まれて驚いた。恐らく顔には出ていないだろうが、僅かに心臓が跳ねたな…二重の意味で。
覗き込んできた本人は眠いんですか?と聞いてきた。ああ、そうか。俺がぼんやりとしていたから気になって、下から覗き込んできたのか。…しかし、そうなると自動的に上目遣いになるものだから、これはマズイな。
「話、しても大丈夫ですか?」
「構わんよ。すまなかった」
「ええっとですね、…シてる時に秀一の目が、私のことを好きだって言っているように思えて…それで思い出せたと言いますか」
「目は口程に物を言う、とは聞くが―――的を得ているんだな」
素直に納得した。確かに彼女の言う通りだと思う、俺がコイツを見つめる時は…そう思っている時が大半だから。
それを感じ取られたことはあまりなかったんだが、成程、今回は通じていたようだな。フ、と自然と口角が上がる。
「1つ、聞いてもいいか」
「え?はい、何でしょう」
「お前は…何か悩んでいるのか?」
肩を抱き寄せて問いかける。意外だったのか、目を瞬かせてきょとんとした表情を浮かべている円香は可愛らしいが…何も心当たりはないのだろうか?それとも何故、そんな質問をされているのかわからない、ということなのだろうか?
それも併せて聞いてみれば、やはり何故、そんな質問をされているのかがわからなかったらしい。…そうか、記憶を忘れていることはわかっているが、それについて詳しくは知らないのか。
そういえば医者も俺には話をしてきたが、円香本人には直接話をしていなかったような気がするな。恐らく、混乱を招いたりするからだろう。まず、その話をした方が良さそうだ。
「秀一?」
「系統的健忘。ある出来事・人物のことを忘れてしまうことを言うそうだ」
「…私のって、それだったんですか?」
「ああ。俺以外のことはしっかり覚えていたしな。失っていた間の記憶はあるのか?」
「今更、それを聞きます?ありますよ、ちゃーんと覚えてます!」
「はは。そう、そうだったな。昨日のこともしっかり覚えているくらいだ」
「ッ!」
ニヤリ、と笑みを浮かべて言えば、カッと顔が赤くなっていく。くく、本当にコロコロと表情が変わる奴だな。
「そう怒らないでくれ。…それで?」
「あ…悩みがあるのか、でしたっけ。うーん、あるというかないというか…」
「過度のストレスによって引き起こされることが多い、と聞いた。だが、悩みによって引き起こされることもあると聞いてな」
その悩みが俺に関係することならば、話を聞きたいと思う。そして不安に思っていること、悩んでいること…それらを少しでも軽くすることができれば…ずっと、円香が記憶を失くした日からずっと考えていたんだ。
これ以上、俺は口を開かない方がいいと感じ、彼女が何か言い出すまで黙っていることにした。その方が言い出しやすい時だってあるだろう?まぁ、待っている間は心臓がうるさそうだがな。
「…怖かった、の」
「ん?」
「プロポーズされて幸せだったはずなのに、その幸せが怖くて…いつかなくなるんじゃないかって、思ってた」
「……」
「いつか秀一と離れてしまう日が来るくらいなら、忘れてしまいたいってそう…思っちゃったのね?多分、それが原因かなぁって」
苦笑を浮かべ、けれど目尻には薄らと涙も滲んでいて、何とも言えない顔になっている円香を見て…思わず溜息が零れた。別に呆れたわけではないんだが、何というか大馬鹿だろうと思ってしまったことは否めない。そして少しだけ、ショックを受けているのも本当だ。
俺なりに愛していたつもりだったし、不安になんてさせてたまるかと思っていた。だがそれは、円香の奥深くまで届いていなかったらしい。それを思うとショックだと感じるし、僅かな怒りさえ沸々と湧いてくるようだった。
けれど、ここで怒鳴っても仕方のないことだ。彼女の顔を見ればそれは間違いだった、と思っているのは明白だったし、素直に口に出してくれるようになったことも進歩だろう。きっと大学時代の円香だったならば、全てを飲み込んで俺の前から去って行ったはずだ。
でも今の円香はそうすることを選ばず、話してくれた。それはつまり、俺と共にいることを望んでくれていると…そう思っていいんだよな?
円香の頬、目尻にキスを1つ。ただそれだけで体を震わす仕草に笑みを零しつつ、ローテーブルの上に置きっぱなしにしていた指輪を手に取った。
チェーンを外し、円香の左手を持ち上げる。これを贈った時と同じように薬指にはめてやれば、じわりと目に水の膜が張っていった。数秒もしないうちにそれは溢れ出し、頬にいくつもの筋を作り上げていく。
泣くより笑ってくれた方が俺としては嬉しいんだが、嬉し涙―――ということにしておいてやろうか。
「泣くなよ。一度、はめてやったものだろう?」
「だ、だって…いいの?この指輪、はめたままでいてもっ…」
「お前以外に贈りたい奴なんざいないんだ。もらってくれなければ困る」
「ふ…もうほんと、に男前過ぎますよ貴方……!」
涙を流しながらも笑みを浮かべている。それの何と美しいことか。
「秀一、私もはめたい。いい?」
「嫌だと言うと思うか?」
「ふふっううん、思わないです」
チェーンを外した指輪を、僅かに震えた手で薬指にはめてゆく。はめ終われば、途端に嬉しそうな顔をして「はめてあげたかったんだ」なんて言われてみろ…困るだろう?
本当に愛しくて、愛しくて…手離してやれそうにない。泣いて離せと言われてもきっと、俺は生涯コイツの手を離すことはできないだろうな。
「…I'm crazy about you.(俺はお前に夢中だ)」
「ひゃっ…!そっそれはズルイってば!!」
「本心なんだ、問題ないだろう?」
「その声で英語は反則なんだってば…!」
「ク、何を今更…こっちにいた時は常に聞いていただろうに」
赤くなった顔を隠すように抱きついてくる姿さえも愛おしいと思うのは、仕方がないことだと思う。耳まで真っ赤にしている彼女を見下ろし、そっと笑みを浮かべた。
そのまま抱きしめ髪を梳いていると、微動だにしなかった円香がもぞもぞと動き始めた。どうしたのかと思い抱きしめる力を緩めれば、耳元に唇を寄せ一言呟いた。
思いも寄らぬ言葉に笑みが零れ、顔が熱くなっていく。けれど―――それ以上に幸せだと、心の底から思った。
―――I Can't live without you!…Loving you.(貴方がいなくちゃ生きていけないの!…愛してるわ)