疲れた君に、愛の手を

―――バタンッ

リビングで本を読んでいたら、玄関の方からけたたましい音が聞こえた。恐らくはドアを閉めた音なのだろう、その音を発した人物もわかってはいるが…ずいぶんと珍しいことがあるものだ。
読んでいたページに栞を挟み、ソファから立ち上がった。


 side:赤井


玄関へと向かえば、予想通りの人物がドアに寄り掛かって蹲っていた。一瞬、具合が悪いのかと思ったが、彼女がここ最近帰ってきていなかったことを思い出し、こうなっている理由に思い当たる。確実に、寝不足なのだろう。+疲労。
勘でしかないが、ドアを開けた瞬間に力尽きたのだろうな。全く…いつまで経っても調整が上手くできない奴なのだな、コイツは。


「なまえ、そんな所で力尽きるな」
「うー…秀一ぃ……」
「ここまで帰ってきたのならもう少し頑張れよ」
「いやぁ…さすがにもう動けない…」


…だから、そうなる前に休息をとれといつも言っているだろうが。馬鹿者。
溜息交じりにそう言っても、聞いているのかいないのかわからない返事しか返ってこなかった。これは半分夢の中だな…さっさとベッドに投げてくるとしよう。


「はぁ…久しぶりの秀一の匂いだ」
「そのセリフだけ聞くと変態っぽいぞ、お前」
「もー何でもいいです。考えて言葉紡ぐのめんどい」
「だろうな」


時折、敬語が外れているのがその証拠だ。何度言おうと頑なに敬語を外そうとしないなまえは、極限まで疲れている時・眠い時・寝惚けている時・怒っている時にはほぼ確実に敬語が外れている。本人は気がついていないようだから、無自覚なんだろうがな。一度、それを指摘した時に驚いた顔をされたから。
だが、それでも無意識に行っているものは直しようがない。だから今でも、さっきのように敬語が外れてしまう。

(俺としてはそっちの方が有難いのだが)

ただ2年、コイツより早く生まれただけに過ぎない。学生時代のクセが抜けないのもわかるし、職場での互いの立場を考えれば敬語で話すのが一番手っ取り早いし間違いもないのだろう。上司と部下、という関係が長く続いていたしな。
…だが、今は恋人であり婚約者だ。職場での関係もただの上司と部下から、相棒へと形を変えた。ならば、いい加減もう少しフランクになってくれてもいいものなんだが…今までのことを思い返すと、かなり難しそうだな。


「なまえ、部屋に着いたぞ。せめてスーツは脱げ」
「ふぁい…」


そっとベッドに下ろし声を掛ければ、なまえは緩慢な動作でスーツを脱ぎ始めた。いや、確かに脱げと言ったのは俺の方だが…何故、俺が部屋を出て行く前に脱ぐんだお前は!
思わず出かけた溜息を、そっと飲み込んだ。今のコイツは疲労と寝不足で判断能力が鈍っている、致し方ない。

…が、如何せんこれは目の毒だ。

あっという間にワイシャツ一枚になったなまえから視線を外し、部屋を出ようとしたのだが―――その前にグッと後ろへ引っ張られてしまった。


「…おい、何をする」
「寒いから一緒に寝よう」
「はぁ…寒いのはお前がワイシャツ一枚だからだろう。まず下を履け」
「動くの嫌。このままでいいの」

―――グイッ
―――ぎゅう、

「こら、なまえっ…!」
「んー…秀一、あったかい、」


これはもう何を言っても無駄なようだ。完全に寝入ってしまっているし、離してくれそうもない。リビングの電気をつけたままにしていた気がするのだが…それも諦めるしかないか。
ぎゅうぎゅうと抱きついてくる華奢な体を抱きしめ返し、そっと額にキスを落とす。

(しかし、…この格好だけはどうにかならんのか)

寝てしまっている相手に言っても仕方がないし、起こした所でぐずるだけなのは目に見えている。しっかり布団をかけていれば腹を冷やすことも、ましてや風邪をひくこともないだろうが…俺の理性をどうしたいんだ、この女は。無意識に煽るのは、勘弁してくれ。


「ひどい隈だな…」


肌が白いから余計に目立つ。本人に言えば、俺の隈の方がひどいと笑いそうだが。
朝になったら風呂に押し込んで、それから朝食を作ろう。これだけの隈ができているということは、食事もろくに摂っていないだろうしな。
少しボリュームのあるもので、尚且つ胃に優しいものがいい。だとすれば、野菜スープとサンドイッチ辺りが最適かもしれない。材料は少し前に買い込んだものがあるから、困りはしないはずだ。…さて、俺もこのまま寝るとしようか。


「今はゆっくり休むといい」


この腕の中にいる時だけは、全てを忘れていられればいい。そう思った。



(……秀一、何でワイシャツ一枚なんですか)
(覚えていないのか?自分で脱いだ結果だぞ。俺は忠告した)
(うっそ…!というか、どうやって帰ってきたのかも覚えてないんですけど…)
((帰巣本能が働くとか、動物か。コイツは))
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