悪夢は獏に食べさせてしまいましょう
珍しく切羽詰った声でボウヤが電話をかけてきたのは、夜も更けた頃。
彼の子供が告げた言葉は、俺から『冷静』という言葉をいとも簡単に奪い去った。ただ一言わかった、とだけ返事をし、すぐさま車に乗り込み教えてもらった場所へと急ぐ。スピード違反?そんなもの知ったことか、こちらはそれどころではない…きっと彼女が隣にいれば、落ち着きなさいと笑われるのだろうな。
side:赤井
―――ガラッ
「なまえ!」
「あ、昴さん…!」
聞いていた病室に飛び込めば、中にいたのはボウヤ1人。そして―――ベッドに横たわっている、愛しい恋人。
血色がいいはずの顔は血が足りていないのか青白く、そこら中に鬱血痕が散らばり、ガーゼが貼りつけられている箇所もある。頭にも包帯が巻かれており、…きっと見えていない腕や足にも痛々しい痕が刻まれているのだろう。呼吸は、している。だが、自発呼吸が難しいのか酸素吸入器を取りつけられていた。
何故、彼女はこんな状態になっているのか。傷だらけでベッドに横たわっているのか。赤井秀一を殺し、沖矢昴という仮の人格で生きている俺には、今日FBIがどんな動きをしていたのか知る術がない。必要な時はジェイムズから連絡が来るし、なまえを通して通達される時もある。けれど、それはよっぽどの事態の時だ。だからこそ、彼女が傷だらけになった理由がわからない。
俺の相棒であるコイツは、女でありながら体術も運動神経もずば抜けて優れていた。怪我を負うことだってもちろんないわけではない、だがここまでひどい怪我を負っているのを見たのは新人時代以来だ。
「…なまえさんね、人質を助けようとして犯人から暴行を受けたんだって」
「なに…?」
ボウヤの口から語られたのは、なまえが怪我を負うことになった事件―――彼女は仕事を終えた帰り道、たまたま寄ったコンビニで強盗騒ぎに巻き込まれてしまったらしい。それだけならきっと、どうにか隙を見つけて制圧することだってできただろう。実際、本国でそのような事件をいくつも解決してきたのだから。
だが、犯人達はあろうことか客を人質にとったそうだ。首筋にナイフを突きつけ、騒げば殺すと脅して。そこまで聞いてようやくボウヤが言っていたことが理解できた。アイツは、…なまえは人質の交換を申し出たんだな。ああ見えて内に熱いモノを秘めている女だ、怖がっている一般人を放っておけなかったのだろう。
「その結果、ボロボロにされたのか」
「そうみたい。人質にされていた人が、教えてくれたんだ」
グッと唇を噛む。そうでもしないと、何を言葉にしてしまうかわかったものではなかった。
なまえが病院に運ばれていること、そしてボウヤが人質だった一般人から話を聞けていることを考えれば、もう犯人は逮捕されているということになる。すでに日本の警察が取り調べをし、然るべき罰を下されることになるのだろう…だが、と奥歯をギリリ、と噛みしめた。
どうせならば―――俺自身の手で、愚かな奴らに制裁を下してやりたい。
「ダメだよ、赤井さん。変なこと考えたら」
ボウヤが静かに諭す。沖矢にではなく、赤井秀一に向けて。
見上げてくる蒼の瞳は僅かながらに怒りの炎を燃やしていた、何かを許さないとでも言うかのように。
「いくら許せなくても、殺したくても、それを現実にしたら―――同じだよ、殺人者と」
子供のものとは思えない瞳。それが真っ直ぐに俺を見上げ、射抜く。
何かを言わなければ、と口を開こうとした瞬間だった。ぐらりと意識が揺れて何も見えなくなる。気でも失ったのだろうか、けれど俺はただボウヤと話をしていただけで何もしていなかったはずだ。気を失う要素は1つもないのに、何故…?
―――…いち、
何か、声が聞こえた。聞き覚えがあるような、懐かしい声。その声が俺の名前を呼んでいるような気がする、偽りの名前ではなく本来の名を。
―――秀一ってば、
ああ、そうだ…聞き覚えがあって当たり前じゃないか。この声は今、俺が一番望んでいたもの。俺が一番、会いたいと思っていた奴の声なのだから。その声で俺の名を呼んでほしい、安心させてくれと…そう願ったじゃないか。
「んもう、秀一!」
「ッ」
「やっと起きた…ダメですよ、こんな所で寝たら。風邪ひくし、体だって休まりませんよ?」
「なまえ……?」
「何です、幽霊でも見たような目をして…変な夢でも見ましたか?」
何度か目を瞬かせると、ぼんやりとしていた視界が鮮明になっていくのがわかった。ベッドに横たわっていたはずのなまえは目の前にいて、怪我をしている様子などない。共にいたはずのボウヤの姿もなければ、辺りの雰囲気がまるで違った。
俺がいるのは病院の一室ではなく、居候している工藤邸のリビング。更に細かく言えば、どうやらソファでうたた寝をしてしまったようだ。それを彼女は起こしてくれたのか。
(ああそうか。あれは、夢だったのか)
その言葉がすとん、と落ちてきた。切羽詰った声で電話してきたボウヤも、怪我をしていた彼女も何もかも…俺が見ていた夢だったのだな。
そっと息を吐いて、ローテーブルの上を片づけているなまえの腕を引っ張り、勢いのまま抱きしめた。当然、驚きの声が上がったがすまん、聞いている余裕などない。
「なまえ…」
「本当にどうしたんです?子供みたいですよ」
早々に抵抗するのを諦めたらしい彼女は、クスクスと笑みを零し、腹に巻き付いている俺の腕をぽんぽん、と叩いた。まるで泣きじゃくる幼子をあやすかのように。
「だーいじょうぶ。夢は夢です、私は此処にいるでしょう?生きてるでしょう?」
「…ああ」
「だからそんなに泣きそうな顔をしないで、ほら秀一」
その声に応えるかのように腕の力を緩めれば、振り向いたなまえの唇が俺のに重なる。触れ合った箇所からじんわりと伝わる熱に、心底ホッとした。彼女は確かに此処にいて、生きているのだと教えてくれた。
「頼む、俺の傍から離れてくれるなよ―――なまえ」
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