どっちかなんて、決められない

「あっ危ない!!」
「え?」


突然聞こえた声。その直後にバシャーンッと水が跳ねるような音。何事だ、と振り返ってみれば、そこにはびしょ濡れになった八戒くんがいました。本人も何が起きたのかわからない、という顔をしていて、私達も多分同じような顔をしてると思います、うん。ええっと、…本当に何事ですか?
呆然とした状態が数秒続いた所で、私はようやく我に返って八戒くんに大丈夫ですか?と駆け寄った。


「濡れただけなので、別に怪我とかはしてないんですが…」
「つーか何事よ?」
「それが僕にもよく…」
「全身びしょ濡れですね、早く着替えないと風邪をひいてしまうんですが、」


如何せん、今は買い出し中だったのだ。ジープは悟空と一緒にお昼寝中だったから連れて来ていないし、何より今日取った宿は少し奥まった所にあるので、ここからではそれなりに距離があるんです。このままの状態で歩いて帰ったら、完全に体が冷えてしまうのが目に見えているわけですよ。かと言って、このままにしておくわけにもいかないのが現状。さて、どうしたものか…と考えていると、「ごめんなさい!大丈夫ですか?!」と女性の声が聞こえた。
誰だろう?と視線を動かすと、顔面蒼白に近い顔色をした女性が息を切らせて立っていたんです。事情を聞いてみると、さっき「危ない!」と声を上げた方みたいですね。手元が狂って、水をぶちまけてしまったらしく…その水が見事に八戒くんにかかってしまった、ということみたい。


「本当にごめんなさい!体も冷えてしまいますし、良ければ家に来てください。シャワーと着替え、お貸ししますから」
「え、いや、でも…」
「…八戒、ここは甘えとけば?なまえちゃんも心配そーに見てっしさ」


悟浄くんの言葉に力強く頷けば、わかりました、と困ったような笑みで了承してくれました。私達もお邪魔していい、とのことだったので、一緒に行くことに。


「すみません、妻がご迷惑をおかけしたみたいで…」
「あ、いえ、むしろお邪魔しちゃってすみません」
「いいえ、悪いのは私ですから。お風呂と着替えは脱衣所に用意してありますので、ゆっくり温まってくださいね」


旦那さんと思われる方に案内されて、八戒くんは奥へと消えて行った。残ったのは悟浄くんと私と、さっきの奥さん。奥さんはキッチンでお茶やお菓子の準備をしてくださってるみたいです。慌てて手伝います、と声をかけたのだけれど、お客様なんですから座っててください、と笑顔で言われてしまって…それ以上、何も言うことができずに大人しく悟浄くんの隣に座ることにしました。
コトリ、と置かれた可愛らしいティーカップからは紅茶のいい香り。それと一緒に置かれたクッキーもとても美味しそうだ(奥さんの手作りらしい、です)。八戒くんが戻ってくるまでの間、悟浄くんと奥さんと3人で世間話をしてそれなりに寛いじゃいました。今日会ったばかりの人の家で、とちょっと脳裏をよぎったけれど、でも奥さんのお話がとても楽しくてつい。
そのまま談笑していると、お風呂から上がったらしい八戒くんがリビングに顔を出した。


「お湯加減は大丈夫でした?」
「ええ、ちょうど良かったです。服までお借りしてしまってすみません」
「とんでもない。サイズが合って良かったです」


八戒くんの姿を目に止めて、私はそのままビシッと固まってしまった。何と言うかその、…彼が普段とは違う服を着ているから何か、ドキッとしてしまったと言いますか。あれだ、前にスーツを着た姿を見た時と似ているんだ、今の感情。

(こういうのをギャップ萌えって言うのかしら…)

いや、自分で考えておいて何だけど、それは違う気がしますね。多分。
紅茶を一口飲んで、再び八戒くんへと視線を戻す。彼が着ている服は、きっと旦那さんのものなんだろう。見慣れた服とはやっぱり雰囲気が違うけど、でもそれも八戒くんに似合っているような気がします。白いシャツに黒のカーディガン、それからジーンズ。すごく、スマートな格好ですよね。白シャツは長安にいた頃にも見た気がしますけど、でも今とは多分、雰囲気がまた違っていたと思う。うん。


「なまえ?ボーッとしてどうしました?」
「えっ?!あ、いえ、…大丈夫、何でもないです」


おかしくなかっただろうか。ちゃんと言葉を発せていただろうか。ドキドキしながら応対したけれど、八戒くんはそうですか?と首を傾げるだけ。どうやら私のどきまぎしたこの感情には気がつかなかったみたい…そのことにホッと息を吐くけれど、隣に座っていた悟浄くんがニヤリと笑みを浮かべていてすっごく嫌な予感。
こういう予感は嫌って言う程に当たるのよね、と内心溜息を吐く。


「見惚れてたろ、なまえちゃん」
「…君も、よく見ていますよね」
「そりゃあな。…いいじゃん、恋する乙女って感じで」
「それ。八戒くんの前で言わないでくださいね?」


言われてしまったら、私が誰かに恋をしてることがバレてしまうんですから。


「そうだ。その服ね、もう夫はほとんど着ていないんです。お古で悪いんだけれど、良かったらもらって頂けません?」
「え、でも…」
「貴方が着ていた服はまだ乾きそうにないですし、宿まで帰れないと困るでしょう?」


確かに奥さんの言う通りですよね。今、お庭に干して頂いているそうなんですが、もう夕方に近い時間帯だ。いい天気で、陽も出ているけれど完全に乾かすのはきっと無理でしょう。かと言って、彼の服をそのまま置いていくことはできないから、生乾きのまま持って帰らざるを得ないと思うんです。
…けど、生乾きの服を着るのは気持ちが悪いですし、何よりも陽が沈んでからそんな服を着て外に出たら、せっかく温まった身体がまた冷えてしまうだろうから出来れば、止めて頂きたいのが本音だったりする。きっと奥さんもそう思って言ってくれたんだと思う。

八戒くんもそれは考えていたことだったらしく、多少渋りながらも最後にはでは有難く、と笑みを浮かべていらっしゃいました。2人の会話に耳を傾けながらも、私の思考は別の所にあった―――彼が今着ている服をもらうということは、いつかまたこのドキドキを経験する時が来るということなのです。

(普段と違う姿が見れるのは嬉しいけれど、その度にドキドキしちゃってたら…私の心臓はもたないんじゃないかなぁ)

チラッと移した視線に映し出されるのは、八戒くん。やっぱりカッコイイ、でも胸がドキドキして苦しい。見たら苦しいけど、でも見たい。矛盾めいた気持ちを抱えながら、私は最後の一口を飲み干したのです。



(八戒くん、服、乾きましたよ)
(あ、ありがとうございます。なまえ)
(……あの服、脱いじゃったんですね)
(え?ああ…さすがにあれで寝るわけにもいきませんから。…なまえは、いつもの僕よりああいう格好の方が好きですか?)
(へっ?!え、えと、それは、その、)
(あはは。ごめんね、ちょっと聞いてみたくなっただけですよ)
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