隣の家の八戒さん

このマンションに引っ越してからすぐの時のことだ。初めての一人暮らしでわからないことだらけだった私は、ゴミ出しの日ですらあたふた慌ててしまっていました。だって出す場所がわかんなくて…!

『ゴミ捨て場はあっちですよ』

出勤前で半泣き状態。そして手にはゴミ袋とカバン。声を掛けてくれた人は私のことを、挙動不審な人だなぁ…と思ったことでしょう。本来ならきちんとお礼をすべき所なのに、急いで行かないと予定の電車に乗り遅れる!とパニックになりかけていたので早口でありがとうございます、とだけ言って、その場を立ち去った。
優しく教えてくれた人の顔を、ちゃんと見ることもなく。声から察するに男性なのは間違いないんだけど…そして同じマンションに住んでいるのも間違いないんだけど、顔すら見ることなく出勤してしまったので誰なのかサッパリだ。

だけど、その日の夜。偶然にもお隣さんと帰ってきた時間が一緒だったらしく、顔を合わせた。そしたらその人が「無事にゴミ出せました?」って声を掛けてきたものだから、思いっきり指を指して今朝の親切さん!と大声を出したのであります。…朝からとことん醜態を晒していないか?私。
そんなひょんなことから知り合ったお隣さんは、翠の目と優し気な表情が印象的な八戒さん。なんだかんだで半年が経った今でも、仲良く交流させて頂いていたりする。


「ああ、おかえりなさい。なまえさん」
「ただいまです、八戒さん」


そう、こんな風にベランダで話をするのが日課。


「今日は早かったんですね」
「僕が勤めている会社、週に一度ノー残業デーというのがありまして…その日だけは早く帰れるんですよ」
「そうなんですか。いいなぁ、羨ましい…」
「でもなまえさんはあまり残業せずに帰ってこれているじゃないですか。そちらの方が羨ましい、ですけどね?」


うーん、確かに今はまだ大きな仕事を任されているわけではないから帰りは早いけど、これから勤める年数が増えれば増える程、比例するかのように帰りが遅くなっていくような気がするんだよなぁ…それはとても喜ばしいことなのかもしれないけれど。


「…あ、なまえさん」
「何でしょう」
「ちょっと多く作り過ぎちゃって…良かったら食べませんか?」


肉じゃがなんですけど、と紡がれた八戒さんの言葉に、私の目は無意識にキラキラと輝いていたと思う。だって八戒さんの作る料理って、本当にどれも美味しいんだよ!煮物なんて特に絶品で、こんなお嫁さんがいたらいいのに…と失礼なことを考える始末。
料理があまり得意でない私は、今日のように八戒さんが作ったご飯を頂くことも少なくないのだ。だけど、今日は少しだけ様子が違う。彼が作ったご飯を頂く、と言っても、タッパーに詰められたものをもらうだけでお互いの家に上がり込んだりはしてこなかった。
でも珍しく「だったら、今から来ませんか?」とお誘いされたのです。普通なら警戒するべきなんだろうけど、そういう疚しい気持ちがないことは何となくわかっているし、何より断ってお手製の肉じゃがが食べられなくなってしまうのは嫌なので。


「ん〜〜〜っ相変わらず美味しい…!」
「なまえさんは美味しそうに食べてくれるので、作り甲斐があります」
「だって本当に美味しいですもん。どうやったらこんな風に作れるのか…」
「基本的なレシピはありますけど、ほぼ目分量ですよ。良ければ今度レクチャーしましょうか?」
「えっいいんですか?!」
「そのくらいお安い御用ですよ」


じゃあ、お願いします!と勢い良く手を上げて返事をすれば、一瞬きょとんとした八戒さんが破顔した。
その笑顔が何だか幼く見えて、何だか可愛らしく感じて、心臓がドクンと大きく躍動したような気がしたのは…私の気のせいだろうか?


「料理、覚えたら僕にもごちそうしてくださいね」
「それはもちろん!絶対、一番にごちそうしますから」
「あはは、楽しみにしています」


ベランダ越しに会話することも、こうやって時々一緒にご飯食べることも、…何気ないことなのかもしれないけれど、それがどんどん当たり前になっていったら嬉しいなぁと思うのは―――何でだろう。
ただの『お隣さん』としての付き合いが、この先もずっと続けばいいのになぁと思ってしまったのは私だけの秘密だ。…ずっと、もっと先まで。
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