甘く優しい翡翠の貴方

「あ、…」


キャンパス内であの人の姿を見かけると、自然と足が止まってしまう。辺りの喧騒も、友達が私の名前を呼ぶ声も、何もかもが聞こえなくなって自分の鼓動と呼吸音だけが響く中、ただひたすらにあの人の姿だけを視線で追っていく。
気づいて、と念じてみるものの、あの人―――赤井先輩はエスパーじゃない。とんでもなく気配に聡い人だけど、さっき言ったようにエスパーじゃないから念じただけでは私の気持ちなんて届かないのだ。それでも懲りずに繰り返してしまうのは、…少しでも先輩の心に居座りたいから。バカみたいだけれど本当の話。

(つき合っているものの、相変わらず先輩の心が掴めないなぁ)

好きです、と告げたのは私だった。その言葉にそうか、と頷いてくれたのは先輩で。ただ、それだけ。今思えば本当につき合っているのかどうかも疑わしいくらいなんだけど、でも…キャンパス内で会えば話をするし、一緒に帰ることだってあるし。……あれ?これ、友達と何ら変わらなくないか?
一瞬にして血の気が引いていく。もしかして、私が勝手につき合っていると思っているだけで、先輩はそんなこと微塵も思っていないとか…有り得ない事実では、ないのです。そうか、とは返してくれたけど、つき合おうとかそういう言葉は一切なかったもの。


「みょうじ?」
「ひっ?!」
「…すまん、驚かせたか」
「せ、先輩…!ごめんなさい、ちょっと考え事していて」


突然声を掛けられて、飛び上がるほどに驚いた。口をついて出た悲鳴は可愛くも何ともないもので、引いていた血の気が逆流していくようです…いくら何でもあの悲鳴はないでしょう、自分よ。


「それでどうしたんですか?」
「いや、特に用事があったわけではないのだが…お前の姿が見えたのでな」
「!」


どくん、と心臓が跳ねた。私から先輩に寄っていくことはあったけど、先輩から私の方へ来てくれたことは今までで一度もなかったと思う。それだけなのにこんなに嬉しくなって舞い上がりそう、なんてどれだけ私は単純なのだろうと苦笑したくなる。でも本当のことなのだから仕方がない、好きな人に話しかけられて嬉しくない人なんていないんじゃないかなぁ?


「おーい、秀一!早く食堂行かねぇと席埋まっちまう…って、なんだ?お前の友達か?この子」
「あ、いえ私…」
「―――彼女だ。俺の」
「は?!お前のガールフレンド?!聞いてねぇぞ!!」
「言ってないんだから当然だろう」


先輩と(恐らく)先輩の友達の会話を聞いて、私の思考回路はもうショート寸前まできていた。え?だって今、先輩私のこと…か、彼女って、言った?友達とか、ただの後輩とか、そういうのではなくハッキリと彼女だって紹介してくれたの?
そ、それって所謂、恋人だってことでいいんだよね?先輩も私のこと…そう思ってくれてるんだ、って自惚れて構わないってことなんだよね?!
脳の処理が追いつかず、ぽけっとしていると先輩の友達は先に食堂へ行ってしまったようだ。あ、しまった、完全にボーっとしていてさっき以上に周りの音が耳に入ってきていないみたい。失礼な態度を取っていないことを祈りたい所だけど、どうなんだろうか。
そんな私を訝し気に見て、先輩が「みょうじ」と名前を呼ぶ。慌てて返事を返すと、珍しく先輩が優しい笑みを浮かべていてもう心臓が破裂寸前なんですけど…っ?!


「ク、今日のお前はボーっとし過ぎだな」
「だ、だって先輩が…!」
「俺?」
「私の、こと、彼女だって…さっきの人に、」
「おや、違ったのか?」
「違わない、けど」


今まで好きって言われたこともないし、つき合おうって言われたこともない。だから、…わからなかったの。赤井先輩の気持ちが。
ボソッと零してしまった本音は先輩の耳にも届いていたようで、ふむ、と顎に手を当てて何事かを思案中。


「先輩…?」
「アメリカ暮らしが長いからすっかり忘れていたが、そうか…お前は日本で育ったんだったな」
「?……あ、そっか。アメリカって日本みたいに交際を申し込むってことしないんでしたっけ」


こっちの大学に通うようになって、アメリカの友達ができて、その際に互いに恋愛事情を話していた時に驚かれたような記憶がある。日本人って丁寧なのね、とか何とか…アメリカではそういうのは主流じゃなくて、気がついたらつき合っているような感じらしい。
もちろん、全員が全員そういうわけではないらしいけれど。そのことをすっかり忘れていた……ん?だとすれば、私はちゃんと先輩の恋人だったってこと?


「まぁ、日本人のようなことはしないな…すまん、気が利かなかったな」
「いっいいえ!私も、そのことすっかり忘れていましたし…」
「わかりにくいとは思うが、これでもお前のことは気に入っている。自信を持ってくれて構わない」


ぽん、と頭を撫でられ、面食らってしまった。だって先輩に触れられたの、これが初めて…!


「今日はあと一コマで講義も終わる。待っているから、一緒に帰るか」
「!はっ…はい!帰ります!!」
「くくっでは、また後でな」


ひらり、と片手を振って先輩は食堂へ行ってしまったけれど、私はしばらく幸福感でその場所から動けなくて。ようやく我に返ったのは、友達からかかってきた「何してるの!」というお怒りの電話だった。
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