時を超えた吸血鬼

吸血鬼とか、そんなのは絵空事。本の中だけの世界で、ファンタジーだと思っていた。だけど、人の予想を大きく裏切る出来事というものは、この広い世界にはいくつも散らばっているのだと―――そう教えられたような気がした。


「…君、美味そうな匂いがするな」


ゾクリ、とする声音で呟いたあの人に出会ったのは、今からもう1年以上も前のことになる。





「あ、起きました?おそようございます、吸血鬼さん」
「…その挨拶と呼び名、どうにかならんのか。なまえ」
「どうにか、と言われても…吸血鬼さんはいつまで経っても名前を教えてくれないじゃないですか」


私が『吸血鬼さん』と呼ぶこの人と出会ったのは、とある深い森の木の下。前述した通り、1年以上も前のこと。普段だったらあまり森の奥までは行かないのだけれど、あの時は何故か足が向いて…なーんにも考えずに歩いていたら、木の下でぐったりと座り込んでいるこの人―――吸血鬼さんと出会ったの。
最初はね、ただの行き倒れの人間だと思ったの。私と同じ人種だと、そう思っていた。だって見た目は普通だったし…まさか人ならざるものだとは思わないじゃない?存在しているとも思っていなかったし。

…あ、話が逸れちゃった。それでね、見かけてしまった以上は放っておくのも嫌だし、このまま事切れられたら後味が悪いでしょう?だから声を掛けたのだけれど、ピクリとも動かなくて。もしかしてもう事切れていて、これは死体?!なんてビクビクしながら触れてみると、それはもう氷なんじゃないかってくらいに冷たくて。
ああこれは本当に亡くなっていらっしゃるのね、と眉を顰めた所で、ふるりと震えた瞳が薄らと開いた。見えた瞳は吸い込まれそうな程の翡翠色。宝石のように、美しかった。
思わず何も言葉を紡げないでいると、腰が砕けるような低温で「美味そうな匂いがするな」とこの人が言った瞬間に首筋に感じたことのない痛みと快感が走った。
―――それからずっと、私は吸血鬼さんと暮らしている。何でか懐かれたのです。


「名前はあったように思うが、…もう永らく呼ばれていない。忘れてしまったよ。何度もそう言っただろう?」
「でも呼ぶ名前がないと不便です!それに貴方は私の名前を知っておりますし…」
「ふむ、確かに一理ある」


一緒に暮らしているのに、私はきちんと名乗ったのに、吸血鬼さんは「名前は忘れてしまった」の一点張り。それが本当なのか、それとも名乗ってはいけない決まりがあるからそう言っているのか…私には見当もつかない。だけどやっぱり、呼べる名前がないのはひどく不便なのですよ。
起き抜けの吸血鬼さんの為に淹れたコーヒーを、彼専用のマグカップに注ぎ、何か考え込んでいる彼の前にコトリ、と置いた。


「何か食べますかー?」


本によれば吸血鬼の主食は、人間の血液。血。それ以外には口にしないだろう、と思っていたのだけれど…吸血鬼さん曰く、人間の血液が一番栄養が摂れるだけで、普通の食事でも生きていけるらしいです。
聞いた時にはビックリし過ぎて叫んだよね、吸血鬼さんがしかめっ面でうるさい、と言っていたけど、気にせず2回目の「ええぇえええ?!」って声を上げたよね。あ、さすがに太陽の光には弱いらしいですけど。そこは本で読んだ通りだ、とホッとした記憶がある。
それを聞いてからは、ずっと「何か食べますか?」と聞くようにしてるのだ。食べる時もあるし、食べない時もあるからね。だから今日も問いかけたのだけれど、考え込んで自分の世界に入り込んでしまっている吸血鬼さんからの返事は一向にありません。うん、聞いてないだろうなぁとは思ったけどね!


「なまえ」
「はい?食べたいものありました?」
「食事は君と同じものでいい。それよりさっきの呼び名なのだが…」
「なんでしょう」
「君がつけてくれないか?」


ズズ、とコーヒーを啜りながら、何でもないようなことのようにその人は言った。
え?ちょっと待って、この人、今、私に名前をつけろと言ったの?んなペットに名前をつけるような軽さでいいのかい。


「私、貴方をペットにした覚えはないのだけれど…」
「それはそうだろう。俺とて、君のペットになった覚えはないよ」
「だったら、名前をつけてくれなんて軽々しく言うんじゃねーですよ」
「だが、それが一番いい案だ。君が呼びたい名を、好きな名を、俺につけてくれればいい」


そんなこと言われてもなぁ…けれど、吸血鬼さんの提案は確かにいい案だと思う。思うのだけれど、…いいのだろうか。1年やそこらしか一緒にいない私が、人ならざるものとはいえ、生きている彼の名前を勝手に決めてしまっても(いや、許可はもらってるけど)。それでも不便さには敵わないので、何と呼ぼうか、とどうにも単純な頭は考え始めてしまっているけれど。
名前、名前なぁ…私には亡くした恋人や家族がいない。気がつけば1人で、孤児院で育ち、今に至る。だから、大切に思う名前なんて1つも持ち合わせていなかった。それこそペットも飼ったことがないから、かつてのペットの名前を!なーんてこともできないわけで。
要するに、一から考えなければいけないということなのですよ。うーむ、子供の名前を考える親というのは、総じてこんな気持ちになるのかもしれない。私の場合、子供ではなく成人して恐らく何百年経っているであろう男性ですけど。ついでに言えば吸血鬼ですけど。


「なまえ、買い溜めした砂糖はどこだったかな?」
「え?ああ、砂糖は上の棚ですよ。貴方が入れてくれたでしょう」
「…そう言われてみればそうだったかもしれん。君も飲むかい?カフェオレ」
「頂きますけど、珍しいですね…いつもブラックなのに」
「なに。君がいつも美味しそうに飲んでいるのでね、気になっただけだ」


―――お前、疲れきった時は必ずミルクと砂糖を大量に入れて飲んでいるだろう。

ふと脳内に流れた声は、目の前でカフェオレを淹れている彼の人によく似ていた。けれど、この人にそんなことを言われた覚えはないし、何より私のことを『お前』とは呼ばない。
意外と綺麗な言葉遣いをしている吸血鬼さんは、どんなに機嫌が悪くとも『君』と呼んでくれる。だから、似ているのは声だけなのだけれど…どうしてだろう。ようやく見つけた、と見知らぬ誰かが叫んだような気がしたの。


「しゅう、…」
「ん?」
「あ、ええっと、吸血鬼さんの名前…シュウって、如何です?」


カツン、とカフェオレを混ぜていたスプーンが床に落ちた。吸血鬼さんは驚いた表情で私の顔をじっと見つめているもんだから、思わず後退って―――ファイティングポーズを取った。
そしたら吸血鬼さんはふはっと吹き出したけど、さっきまで化け物でも見るような目でこっちを見ていたクセに。なんだ、この野郎。


「ク、ふふっす、すまん…!」
「いいですけど。別にいいですけど!…んで?シュウと呼んでもいいんですか?」
「ああ、構わんよ。というより、君が考えてくれた名なら何でもいい」


マグカップを渡しながら細められた瞳の奥に、甘い色が混じっていたような気がするのは…私の気のせいではないのだろう。

吸血鬼赤井さん×人間夢主のお話。
実は名探偵長編「Lycoris」の2人が転生した、遠い未来のお話です。作中に出てくる似ている声のセリフは、かつての赤井さんのセリフ。
裏設定として、吸血鬼さんは『赤井秀一』としての記憶を取り戻しているけれど、夢主は全く覚えていません。でも魂には刻まれているから、吸血鬼さんにつけた名前は『シュウ』だったりする。

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