願えば、
夢も、願いも。願えば叶うなんて、一体誰が言ったんだろう。
―――カラ…
「黒鋼さん、お茶が入りましたけど……あら」
side:紅
いつものようにお茶を淹れ、甘くないお茶請けを用意して、黒鋼さんの部屋を訪ねれば…珍しく彼は眠っているようだった。
…とは言っても、私ではない人が来れば倒れていると思いそうだけれど。居眠りをしている、と言うには、些か不審な点が多いから。
それでも私がそう思わないのには、理由がある。
黒鋼さんがこんな状態になることを、私は最初から全て知っているから。きっと今頃、彼は思い出そうと焦る自分と、思い出せない自分との狭間で揺れ動いているのだろう。
「貴方は…思い出したいのでしょうね、ご自身を焦らす"何か"を」
"何か"を思い出せば、きっと貴方は幸せになれるのでしょう。欲しかったものが、手離したくないと願ったものが…手に入るかもしれない。
だけど、"この世界の貴方"が…それを無意識に引き止めてしまっているんだと思うの。自分の生きる世界は、此処だけだと。
"あの世界の貴方"と"この世界の貴方"では、幸せだと思う環境が違うから。
だけどきっと、心の奥底で望んでいた世界は…愛する人全てが、生きている世界。
その世界で生き続けて行く為には、捨てなければいけなかったの。今までの記憶を、全て。
その記憶を忘れ続けることで、この世界の均衡は保たれるから。
「私は…どっちを望むんだろう」
この世界を創っているのは黒鋼さんだから、生かすも殺すも彼の手の内。
彼が全てを思い出せば、この世界はなくなる。逆に思い出さなければ、この世界は今のまま…何も変わらない。
眉間にシワを寄せたまま眠っている黒鋼さんの頭を撫でていると、不意に声が聞こえてきた。
声がした方に視線を向けてみれば、あの老人が立っていた。
「おや。その坊やは眠ってしまっているのかい」
「…ええ。恐らくは、記憶を取り戻そうと足掻いているんだと思うわ」
「ヒヒッ果たしてそやつは、全てを思い出し…全てを取り戻すことが出来るのかのう?今のままでは、到底無理な話だがな」
老人は目尻にシワを寄せ、声を上げて笑う。
「さあ?それはどうかしら…この人は諦めが悪い人だもの。簡単に諦めたりはしないわ」
「ほう…お前はずいぶんとそやつに期待を持っておるんじゃなぁ。思い出さん方が、お前自身にとっては嬉しいことなんじゃないのかい?」
「…思い出さない方が幸せだとは、今でも思っているけど…この人はきっと、それを是としないから」
そうでなきゃ、思い出せない自分を責めたりなんてしない。
喧嘩っ早くて、短気で、言葉も態度も良くなくて、そして愛想もない人。だけど、妙な所で責任感が強くて…何だかんだ言いつつ、面倒見が良い人。
きっと自分自身では気がついていないだろうけど、無意識に自分を責めてる。早く思い出さなきゃ、って…焦ってる。
それなのに何も思い出せなくて、ただ時間だけが過ぎていっているから…余計に焦ってしまっているんだと思う。
もう時間がなくなってきていること…もしかしたら、気が付いているのかもしれないわね。
「まぁ、どちらでも良いわ。どちらに転べど、我には良いことしか舞い込まぬ」
「ふふ、そうね。彼が思い出しても、思い出さなくても…貴方にとって、不利益になることはないんだものね」
元々、そういう"契約"だから。
「う……」
「おっと、そやつに我の姿を見られては堪らん。またの、若き少女よ」
老人が姿を消して、ほんの数秒。それまで堅く閉じられていた紅い双眸の瞳が開いた。
まだ寝ぼけていらっしゃるのか、焦点が合っていないようだけれど…具合が悪いとか、そういうのはなさそうでホッとしたわね。
黒鋼さん、と声を掛けてみれば、一瞬だけ驚いた表情になって「緋月…?」と零した。すぐに我に返って、口元を押さえていたけれど…あぁ…もうすぐ、なのかしらね?
「悪い…寝ぼけてたみてぇだ」
「いいえ、大丈夫ですよ。喉、渇いてませんか?お茶をお持ちしましたので、どうぞ」
「…おう」
お茶を飲んでいる時ですら、眉間に寄ったシワはそのままだ。今考え込んでいるのは、きっと起きがけに呟いた言葉のことだろう。
確かに黒鋼さんは私を見て、『緋月』と呟いた。
だけど、その名前を持つ人物のことまでは思い出せていないようで。呟いた直後、彼は驚きの表情をしていたんだ。俺は一体何を言っているんだ、という。
微かに思い出し始めているのは明白だけど、先に進んでいるようには見えなくて。
思い出しかけては忘れて、また思い出しかけて…その繰り返しの中、黒鋼さんは生きている。
彼に思い出してほしい、と思う自分と…忘れたままでいてほしい、と思う自分。
果たして、私の本音はどちらにあるんだろう?長いことこのままでいるから、自分自身ですら…どうしたいのか、わからなくなってきてしまった。
…いや、わからないフリをしているだけか。変わらず逃げてばかり、ね。私はずっと、貴方から。