灰色と闇


生まれながらに許婚を持つことが多い英国貴族。例外でなく、ファントムハイヴ伯爵こと我が主にも許婚が存在するのでありました。貴族の妻は貴族でなくてはならない。エリザベス嬢もれっきとした侯爵令嬢なのでございます。
…と、まあこんなわけで。まだ幼い主とエリザベスではあるんだけど、立派な未来の夫婦なんだよね。ってか、内緒で来たって…まーた心配っていうか、怒られるんじゃないか?エリザベス様は。


「坊ちゃんに許婚…でもまだ12歳だろ?」
「そのはずですだ…びっくりしたですだよー」
「主も"伯爵"だから。許婚がいても全くおかしくない身分なんだよ」
「そうなんですかー…何だかすごいですねぇ」
「んじゃ、彼女も…」
「ええ、立派な侯爵令嬢ですよ。…ちょっと暴走しやすいけど」
「クロードさんも…なかなか腹黒い方ですだ…」


何気に失礼だぞ、メイリンさん。別に腹黒くねーやい。それはセバスの方だと思うけどね、僕は。
主とエリザベス様は、何やら話をしてるみたいだ。フィニ達の傍から離れて、そっちに近づいて会話を聞いてみると…どうやらエリザベス様はダンスパーティーを希望してるらしい。せっかく広間を可愛くしたから、ってことみたいだけど。


「ダンス…ねぇ」


チラッと主の顔を覗き見てみると、予想通り。口元が引きつってます。あーあ…いつになく、すごい顔してるなぁ。必死になってエリザベス様の意見を却下させようとしてるけど、まぁ当然ながらエリザベス様の耳には届かず…。むしろ、もうやる気満々になってるからね。
今も止めようと躍起になってる主をよそに、どんな服を着ようか悩んでいる様子。その姿はとっても生き生きしてるし、キラキラして可愛らしいと思う。


「ねえ、クロードッどんなのがいいかしら?!」
「エリザベス様の可愛さなら、どんな服でもお似合いだと思いますよ?」
「人の話を…おい?!エリザベス?!クロードも話にノッていないで止めろっ!!!」


無理。この状態のエリザベス様を止めるのは、至難の技ですよ?主。
いまだに必死の形相で止めようとしている主の後ろで、あの帽子をかぶったままのセバスが、何とも言えない生気の抜けた顔で止めている。


「何だかとっても元気な方ですね!エリザベス様って♪」
「いや、まあ…確かに元気だとは思うけどよ?」
「フィニってちょっとずれてる気がするですだよ」
「そんな格好させられたのにな…」
「…クロード、助けに行かなくていいのか?」
「だから無理だーって。止められるのは、きっとエリザベス様のご母堂だけだと思うぞ?」


何か面白いって言うか、何て言うんだっけな?こういうの……ああ、滑稽だ。滑稽


「人の話を聞けえぇえッ!!!」


結局、最後の最後まで主の叫びは、虚しくもエリザベス様には届きませんでした。
ま、仕方ないよね?だって誰の言うことも聞かないから、きっと。
そして場所は変わって、此処は主の書斎。さっきの会話で疲れきったのか、机の上にぐったりと伏せている。ま、疲れるよね。振り回されっ放しだったし。


「エリザベス様は、前当主の妹君であるフランシス様が嫁がれたミッドフォード侯爵家のご令嬢…」
「婚約者を無下に追い返すこともできないしな」
「別になりたくてなった訳じゃない。されたんだ」
「そういう言い方は、あまり良くないですよ。どーぞ」


セバスが淹れた紅茶のカップを机の上に置いた。


「―――ですが、今日の処は彼女に従ってお引取り願った方が得策でしょう」
「ま、それが一番いいだろうね。まだこの間のゲームも終わってないんだし?」
「まったくだ。さっさと夕食でも何でも口に詰めて追い返せ。少女趣味に付き合ってる時間はない」
「ですが、エリザベス様はダンスをご所望のようですが…」
「……坊ちゃん」
「なんだ」
「私は拝見した事はございませんが…ダンスの教養はおありで?」


ピクッと反応したかと思うと、だんまりを決め込みやがりました。この人。紅茶のカップをソーサーに戻すと、書類を持ったまま…イスごとくるりと後ろを向いた。今は書類に目を通すことに、忙しいとでも主張するかのように。
…うん、わっかりやすい反応するなー。そんな誤魔化しは、多分セバスには効かないと思うけど。


「クロード?」
「うん?…勘の良いセバスなら、もうわかってるんじゃない?」
「…そういえばパーティーにお呼ばれしても、壁の花を決め込んでいましたね」
「僕は仕事が忙しい。そんなお遊戯にかまけている暇など…」
「それはわかってるけど…"社交"(ソーシャル)ダンスとはよく言ったもの。夜会や晩餐会などでは、当然必要になってくる嗜みですよ?」
「クロードの言う通りです。上流階級の紳士ともなれば、ダンスは出来て当然の事。もし取引先のご令嬢のダンスのお誘いを断りでもすれば、社交界での坊ちゃんの株はガタ落ちに…」


アフタヌーンティーのお茶菓子として用意された、オーチャードフルーツケーキ。1人分に切り分けて、主の前へ置く。いつも思うけど、セバスが作るスイーツはすごい。見た目からしてすげー美味そうなんだ。実際に味も最高に美味いんだけど。


「―――〜わかった!やればいいんだろう。誰か家庭教師を呼べ!」
「残念だけど、主。今から家庭教師を呼ぶ時間はないよ」
「今日の処は付け焼刃で結構ですから、一曲だけ基礎と言われるワルツをマスター致しましょう」
「じゃあ、僕は一体誰に教わるんだ?この家の連中はどう見ても…」


ダンスなんて知らないだろうなー…フィニも、メイリンさんも、バルドさんも。タナカさんは……何か出来そうな気もしないでもないけど。あの3人に関しては、ワルツって美味しいの?って言うタイプだな…。
そんなことを考えてたら、じーっと見られる熱い視線を感じました。しかも…主の方から。


「…何ですか、主」
「お前ならワルツくらい踊れるんじゃないか?確か昔、夜会に出席してただろう?」
「まあ…少し、なら。けど、教えられる程じゃないよ」


それ以前に、僕は男なんだけど?セバスよりは背が小さいから、まだ踊りやすいとは思うけど…。


「意外ですね、貴方にダンスの教養があったとは…」
「無理矢理に教え込まれたんですよ、ワルツだけ」
「ならば、坊ちゃんに指導してあげてください。リズムなどは私が取りますから。ウインナワルツでも?」


はー…これはもう諦めて付き合うしかない、か。踊れるっていっても、知ってるレベルだから…人に教えられる程の技術はないんだけどな。さっきも主に言ったはずだけど。…絶対に聞いてないよな、あの人。
にっこりと笑顔で僕の言葉を待つセバスに、1つ頷く。それを確認し、練習の為にレコードの準備に取り掛かったみたいです。まずは形から、ってか?


「僕がお相手で不服でしょうが…一曲お相手願えますか?ご主人様(マイロード)」





「―――いいですか?一歩目はまず踵から」
「あ、主。女性の背はしっかりとホールドして下さい」
「わ、わかった…」


半ば無理矢理に始めたダンスの練習。教えるとは言っても、リズムやステップの指示はセバスがしてくれるらしい。そこはちょっと安心なんだけど…。だけど僕だって踊るのは、かなり久しぶりでステップとか忘れてそう。

「曲が始まったら、まず左足から…」


―――むぎゅっ
あ、足踏まれた…


「次はナチュラルターン」


―――ブルブル…
や、ターン出来てない…っ!


「足を前へ滑らせるように」


―――ガスッ!
仕舞いには、踝を蹴られました。


「「……」」
「ダンスの才能が皆無というか、壊滅的ですね。坊ちゃん」
「あれー…ここまでひどかったか?」


さすがに冷や汗だらだらの主と、はーぁと大袈裟に溜息をつくセバス。主のあまりの才能のなさに呆れてるみたいだ。僕も正直、ここまでひどいとは思っていなかったけど。これじゃあエリザベス様と踊るどころじゃないわ。本当に。
"ダンスはワルツに始まり、ワルツに終わる"と言われる程。つまり、格式高く優雅に踊らなければいけない。本当に基礎中の基礎、みたいなんだよね?ワルツって。僕もダンスなんか踊るような身分じゃなかったし、前当主に付いて夜会や晩餐会に行ったことはあるけど…。だから、ダンスに詳しいわけじゃない。それでも主のダンスがまずいことは、よーくわかる。うん。
それもあるけど―――――


「―――ともかく、まずその仏頂面を何とかなさい」
「そうだね、今は僕が相手だから問題ないけど…これはレディに失礼ですよ?嘘でも楽しそうにして下さいね」
「はい、楽しそうに笑って!」


主の柔らかそうな頬を、ムギューッとつねっているセバス。そうやって笑顔にさせようとしてるんだろうなぁ。僕から見れば、明らかに遊んでるというか、嫌がらせにしか見えないけども。てか、好きなのか?主の頬をつねるの。そのままむにむにと、されるがままだった主だけど…


「ッ離せ!大体僕は…っ」
「……」
「―――――…楽しそうに…楽しそうに笑う方法など…忘れた」
「坊ちゃん…」


親指にはめているエンブレムリングを見つめて、苦しそうな表情を浮かべている彼。
彼の凄惨な事件。主の身に降りかかった、屈辱。あの事件後、主が何をされていたのか…どんな生活を送っていたのかは知らない。これから先、知ることもないだろう。知る術もないし。だけど、これだけはわかる。主(かれ)の笑顔が、昔のモノとは違うということ―――




時は進み、陽が沈み始めた頃。ファントムハイヴ邸内は、昼間とはまた違った飾りつけとなっていた。


「シエルにはね、絶対青が似合うと思うの!今日シエルに持ってきた服は、ロンドンでお買い物してた時に一目ぼれしたのよ」
「エリザベス様がお選びになったものなら、きっと素敵なんでしょうね?」
「とっても素敵よ♪きっとシエルにしか似合わないわ!」
「あ、エリザベス様?後ろのリボンが曲がっています、今直しますので動かないでくださいね」


主と踊れるのが余程嬉しいのか、メイリンさんと共に着替えている時からずっと機嫌がよろしいそうです。こんなに嬉しそうな顔をされると、こっちまで嬉しくなる。尚更、楽しいダンスパーティーにしてあげたいとさえ思うんだ。
曲がっていたリボンを綺麗に結び直すと、エリザベス様はメイリンさんの方を向いた。どうかしたんだろうか。


「貴方もパーティーに出席したら?あたしが可愛くしてあげるわ!まずメガネを外しましょうよ」
「でっですだが!ワタシ、すんげぇ遠視で眼鏡(コレ)ないと何も見えないですだよ!」
「遠くが見えてればいいじゃない!」
「あー…エリザベス様、そのくら「そのくらいにしてやれ」」
「シエルッ」


あ…ようやく当主のご登場ですね。
ふむ。確かにエリザベス様が持ってきた服は、主によく似合っている。いつも着ている物とは、また雰囲気ががらっと変わる。大満足したのか、「かわいーっ」と叫びながら、主をぐるんぐるん振り回してますよ。エリザベス様。まだ幼い少女だというのに、すごいパワーをお持ちのようで…それとも、ウチの主がか弱すぎるのか?これは。
ま、そんなことはいいか。思い直してフィニ達の傍に寄ると、まーたすごい格好をさせられていました。


「ぅわお」
「皆も可愛くなったでしょっパーティーに出席してもらうの!」


バルドさんのセーラー服。
(ご丁寧にカツラまで…キッツイなぁ)

フィニの猫耳メイド。
(これはちょっと可愛い。似合ってる)

極めつけは、タナカさんの日本の着物。それも女物ね。
(確か、十二単…とか言ったっけ)

主やエリザベス様が着ているような服なら、まだいい。どこで買ったのかとか、疑うようなものではないとわかりきっているから。だけど、この3人の着ている服は、どんな所で買ってるんだ?!
彼女は良いとこの出の、れっきとしたお嬢様だ。絶対に1人では買い物には行かないはず。必ず、従者が最低1人はついていっているだろう。それなのに、こんな服を買うことが出来る…てか、ご母堂に怒られないのだろうか。


「返せッ」


突然、広間に響いた主の鋭い声。……?僕が考え事をしてる間に、何か起こったのか?エリザベス様とフィニ、バルドさん、メイリンさんは顔が青ざめてて。セバスとタナカさんは、表情が変わっていない。あの2人のことだ。あまり動揺してないんだろう、この状況でも。
はてさて、一体何が起こっているのやら?


「それを返せ…エリザベス!」
「なっ…何でそんな怒るの?あたし…せっかく」


ふと視線をエリザベス様の手に向けると。その手に握られていたのは、我が主のエンブレムリング。いつも肌身離さず、つけているもの。例え、サイズが合っていなくとも…ね。
そうか…主が怒っているのは、これが理由か。大人しく指輪を返してさえくれれば、きっと主の怒りは納まる。


「…っ何よ…あたし、可愛くしてあげようとしただけじゃない!なのに何でそんなに怒るの?!ひどいっ!こんな指輪なんかっ」


彼女は、指輪を持っている手を感情のままに振り上げた。
ダメだ、このままじゃあの指輪が―――――


「いけないっエリザベス様―――」
「キライ!!!」


―――カシャーンッ

床に叩きつけられた指輪は、脆くも粉々に砕け散った。僕達の間に、しんとした冷たくて思い空気が走る。誰も口を開かない。でもそれも一瞬だけ。指輪を壊され、彼もまた感情のままに手を振り上げたんだ。振り下ろされる先にいるのは、エリザベス様。
それを見た僕とセバスは、それぞれ動いた。


「坊ちゃん、せっかく新調した杖をお忘れですよ」
「…立てますか?エリザベス様」
「うっうん…っ!」


主の振り上げた手は、エリザベス様に当たることなくセバスが止めてくれた。乱れていた呼吸も少しずつ、納まっていっているようだな…良かった。
怖かったんだろう、怒った主が。僕にくっついたまま、エリザベス様はずっと泣きじゃくっている。無理もないけど…きっとまだ、何故彼が怒っていたのか理解はしていないだろう。


「申し訳ありません、ミス・エリザベス。あの指輪は我が主にとって、とても大切なもの。ファントムハイヴ家当主が、代々受け継いでいる世界でたった一つの指輪だったのです」
「え…?!そう、なの?」
「セバスチャンの言う通りです。…どうか、主の無礼をお許し下さい」
「そんな…大事な指輪…あたし…」


事の重大さに気づいたのか、体が震えている。少しでも和らげようと、小さな体をギュッと抱きしめてみた。僅かに震えは落ち着いたかに思えたが、また声を押し殺して泣き始めてしまいました。
靴音が、静かな空間に響き渡る。静かに開け放たれている窓に近づいた主は、何を思ったのか指輪の破片を全て…外に投げ捨ててしまった。これには僕も含め、全員が驚く始末。あのセバスでさえね。


「シエル?!何てこと…っ」
「…主…?」
「構わん。あんなもの…ただの古い指輪だ。指輪(あんなもの)がなくともファントムハイヴ家当主は、"シエル・ファントムハイヴ"(この僕)だ」


ああ…本当にこの方は、立派になられた。迷いのない、澄んだ瞳。何もかもを射抜くような、強い意思の表れ。確かに、あの指輪はファントムハイヴ家当主の揺るぎない…偽りのない証。
…けれど、今の言葉と表情。それを見て、少し安心したよ。指輪を失おうとも、この家の主となるのは…シエル坊ちゃんだけだと。何より…少し落ち着きを取り戻したことに、安心する。


「何だ、その顔は」
「だっ…だっで〜」
「酷い顔だ、レディが聞いて呆れるな。そんな顔の女を、ダンスに誘いたくないんだが?」
「さ、エリザベス様…」


いまだに僕の服を掴んだままだったエリザベス様の手を、やんわりと外して立ち上がるように促す。思ってもいなかった主の言葉に、止まることのなかった涙が一瞬にして止まったみたいだね。


「嫌なことを忘れ、踊り明かすのが夜会の礼儀だろう。レディ?」
「…はい。本当…夢みたい!」


瞳はまだ涙で濡れてはいるが、それでも嬉しそうに笑うエリザベス様を見てホッと胸を撫で下ろした。一時はどうなるかと思ったけど、何とか収拾がついた…かな。
さーってと!この場はセバス達に任せて、僕は僕の仕事をしようかね。このパーティーが終わってからでもいいだろうけど、そうすると片付けとか色々と仕事が増えてしまうし。今のうちに出来ることはしておかないと、やる暇がなくなってしまう。主の練習の成果を見たい気もするけどね。
ダンスパーティーの雰囲気を壊さぬように、出来るだけそーっと広間を後にした。恐らく、誰にも気づかれてはいないだろう(セバスはわかんねーけど)。そのまま、1人外へと足を向けた。


「えーっと…確か、この辺だったよな?」


外の明かりと、頭に入れている屋敷の構図と、窓から漏れる光を頼りに指輪の破片を探す。
主はああ言ってたけど、それでもあの方にとって大切なもので。それは僕にとっても変わらないくらい、大切だから。あの指輪は…主の魂をファントムハイヴ家(ここ)に縛り付ける。


「本当なら…このままなくなってしまった方が、あの方にとってはいいのかもね」


エンブレムリングの破片は思ってた以上に細かくて、全部拾い集めるのにかなりの時間がかかってしまった。さすがに疲れたな…。ずっと下を向いていたから、首が痛い。
屋敷に戻ると、いつの間にかパーティーは終わっていたようで…中は暗く、しんとしていた。まるで…さっきのパーティーは幻であったかのように。誰も存在していないかのように。…ふふっそんなわけは、ないというのに。ああ…片づけを手伝わなかったから、あとでセバスに説教されるかな?


「おや、戻っていたのですか?クロード」
「セバス…主と、エリザベス様は?」
「エリザベス様は客室で、すでにお休みになられました。坊ちゃんも寝室にいらっしゃいます」
「そっか…」


思わず、布に包んでいた破片をギュッと握っていた。すると、セバスの手がそっと僕の手に触れた。


「その布の中にあるのは、指輪でしょう?手を切ってしまいますよ、そんなに握っていては」
「あー…そうだな」
「急に姿を消したと思っていたら…これを拾いに行っていたのですね」
「まあね。…大切なものだからさ」
「では、この先は私にお任せを」
「…へ?」


するりと僕の手から布に包まれた破片を抜き取ると、あっという間に元の形に戻してしまった。すっげー…ここまでくると、まるで手品だ。粉々になってしまっていた部分も、完璧に修復されていた。真ん中にはまっていた綺麗な宝石さえも。


「では、坊ちゃんの所へ向かいましょうか。貴方からその指輪は渡してあげて下さい」
「あぁ」


もう月がかなり高くなっていたが、主はまだ寝ていないようだったし…何より、セバスが直してくれたこのエンブレムリング。早いうちに彼の指にはめてやりたいと思う。…忘れてしまいそうな気もするし。


―――コンコン…

「坊ちゃん、失礼致します」
「…あぁ、入れ」
「失礼します、主。ちょっとだけいいか?」
「クロードも一緒だったのか」
「忘れ物を、届けに来ました」
「忘れ物…?」


そっと主の左手を取り、エンブレムリングを元々あった親指へ静かにはめた。主の顔を見上げ、何も言わずににっこりと笑うと、余程驚いたのだろう。珍しく目を見開いていた。
ま、それもそうか。壊れて、外に投げ捨ててしまった物が…元通りになって、自分の元に戻ってきたんだから。


「エンブレムリング(これ)は、貴方の指に在る為のもの。大事にして下さいよ」
「…そうだな。この指輪は、何度も主の死を見届けてきた。祖父…父…そして…」


一度、言葉を切る主。その表情は、いつになく悲しそうで。


「きっと僕も、この指輪に看取られて逝くのだろう。指輪は幾度となく、当主の断末魔を聞いてきた。目を閉じると聞こえるんだ…あの叫びが。指輪を棄てて、もしかしたら聞こえなくなるかもしれない…そう思ってた」
「……」
「馬鹿げているな」
「…そろそろ休んでください。体に障るぞ?」


ベッドに寝かせ、冷えないように肩までしっかりと掛けてやる。風邪でもひかれたら大変だからな…。


「ねえ、主?1つだけ言っておくよ」
「何だ?」
「貴方の最期を看取るのは、指輪(それ)じゃない。…僕達だ。忘れないで」


いつでも僕達は傍にいる。執事として、"目的"を果たすための駒として…いつでもどこまでも、貴方の傍に―――それこそ…その身が朽ちる、最期の時までね?
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