手折られぬ華は何処へ
『すおう、』
『蘇芳!』
『―――ねぇ蘇芳、聞いてる?』
こんなにも、…こんなにもまだ鮮明に覚えているのに。貴方の顔も、声も、温もりも―――何もかもが鮮明なのにどうして、いないのですか?どこを捜しても、捜しても、捜しても、貴方の姿が見えないのです。声が聞こえないのです。温もりを感じることができないのです。
隠れていらっしゃるのですか?貴方は昔からかくれんぼが好きでしたから…でもいけませんよ、あまり私をからかっては。さあ早く―――…私に元気な姿を、綺麗な声を、陽だまりのような笑顔を見せてください。聞かせてください。
「紅英様…どうか私めの傍にいてください。―――今度こそ、お守り致しますから」
―――天界。いつものように下界の『彼ら』の旅路を見守っていた観世音菩薩の元に、側近でもある二郎神がひどく焦った様子で走り寄ってきた。
菩薩は内心、まーた面倒事か…と溜息をつきたくなったが、彼がここまで焦る様子を見せるのは珍しいと思い直す。いつだって菩薩の言動や行動に焦った表情を見せる二郎神ではあるが、今日の焦り具合は何かが違う―――そう本能で感じ取ったのだ。
「どーした、んなに焦った顔で」
「焦りも致します!…下界にて封印したはずのあの者が、忽然と消えたとの報告を受けました」
「…なに?」
誰のことだ、と菩薩は聞き返しはしなかった。何故ならば、二郎神の言った『あの者』というのが誰なのかすぐに見当がついたからである。そして脳内にあの時の光景が、つい先程の出来事のように再生される…1人の男が大切な者を失い、絶望し、そして―――天界も、下界も、全てを壊そうとした瞬間が。
―――紅英様がいなくなった世界などっ…彼女を見捨てた世界など、消え去ってしまえばいい!!
あの目は本気だ、と今でも思う。本当にこの世の全てを憎み、全てをいらないと叫んだあの男は、天界を半壊させ下界にて封印された。最後の最後まで憎しみの目を天界人に向けていた男を、どうして忘れることができようか。
「封印した場所は荒らされていたということですが、…」
「みなまで言うな。…外から掘り起こしたっつーより、中から抉られたようになってたって言いてぇんだろ?二郎神」
「その通りです。自らの意志で、封印を解いたのかもしれませぬ」
「アイツの力は厄介だったからな―――とすりゃあ、狙いはただひとつ…」
「ええ。…確実にあの者は、」
菩薩と二郎神の視線が、下界を映す水面へと向けられた。そこに映っていたのは、三蔵一行―――その中の紅一点である香鈴の姿。
かつて菩薩の姪として天界で暮らしていた、『紅英童子』の魂を受け継ぐ人物だ。前世のことは一切覚えていないが、魂は同じ。似ていないようでやはり似ている、見れば見る程に菩薩はそう感じていたのだ。恋焦がれる相手も、大切だと思う仲間も、危険を顧みない肝の据わりっぷりもどこか彼女に似ていると―――口元が綻ぶ。
だが、それはすぐにキュッと引き結ばれ、真剣な表情に戻った。
「こうなったのも運命か―――さて、どうなることやら…」
「呑気に見物している暇はありませぬぞ、観世音菩薩!早くあの者を捕らえないと…!」
「そう焦りなさんな。まだアイツは動いちゃいねぇ、少し様子見しねぇと策が練れねぇだろ」
「ですが、何かが起こってからでは…」
「こいつらはそう簡単にやられやしねぇだろうさ。…動くにはまだ早い」
運命の歯車が、止まっていたはずの時間が動き出す。どちらに転ぶかは、―――神もまだ、知ることはできない。