記憶の水面
「顔色が悪いですね」
コトリ、とマグカップを置いて心配そうな表情を浮かべたのは、八戒くん。しまった、と思ってももう遅いですよね…というか、顔色云々は私自身ではどうにもできないことですから。大丈夫です、と笑みを浮かべても、向かいに座った彼の表情は晴れず、むしろ余計に不機嫌になったとでもいいのかな?眉間に珍しくシワが、寄っています。
三蔵様のように深くはないけれど、彼がこんな表情を浮かべることは少ないからちょっとだけビックリです。まぁ、そうさせてしまった原因は私、なのだけれど。
「具合が悪いわけではなくて、その…最近、夢見があまり良くなくて」
「眠れていないんですか?」
その言葉にうーん、と考える。眠っていないわけではないんです、朝までちゃんと眠ったままなのだけれど…でも長い、長い夢を見て―――そして目が覚めるんだ。その夢も決して気持ちが悪いとか、見たくないとか、そういう夢ではないのだけれど、何と言えばいいんでしょう。
…あ、眠っている気がしないと言えばわかりやすいかもしれません。夢を見ているはずなのに、まるで実際に体験をしているような感じで休んでいる感覚が全くないんですよね。
同じような夢を、繰り返し見るんです。でも内容が毎度、同じだということではなくって…ええっと、まるで誰かの記憶を辿っているかのようなそんな感じ。物語の世界にいるような感じだと言えば、もう少しわかりやすいでしょうか。
「誰かの記憶…?」
「あくまで私個人の感想なので、わかりませんけど…でもそんな感じです」
「夢を見ない日はないんですか?」
「残念ながら…。だから、疲れが取れた気がしなくって」
寝る前にゆっくり湯船に浸かっても、ホットミルクを飲んでも、軽く運動をしても、どれも効果はなくって夢を見てしまうんです。どれだけ疲れていても脳は深い眠りについてくれない。ここ最近は襲撃が少ないから何とかなっていますけど、これから先はどうなるかわかりませんもの。私としてもしっかりと眠りたい所なんですけどねぇ。ここまで色々試してみても効果がない、となると…もうどうしたらいいのかわからなくなってしまいます。
八戒くんが淹れてくれた牛乳たっぷりのミルクティーを一口啜れば、温かさとほんのりとした甘さが有難くて、ホッと息を吐き出した。この温かさに包まれたまま、眠って、それで朝を迎えることができればいいのに…そんなわがまますら、私の身体はきくことを拒否しているようですね。
―――何なんだろう、あの夢は。いつも私は『誰か』の目線で周りの景色・出来事を見ていて、たくさんの人に名前を呼ばれるのに、その名前が聞き取れない。聞き取れないばかりか、呼ばれる名前が本当に私のモノなのかどうかさえわからなくて。
『―――様、』
だって名前を呼ばれる度に「違う」って思ってしまうんですもの。おかしいでしょう?だから思ったんです、あの夢は誰かの記憶なんじゃないかって。誰一人知らないのに、向こうは名前を呼んで―――でも私の名前だとは思えなくて。よくわからない気持ちが、思いが、ぐるぐると巡りゆく。
「わからないのに、…何だか懐かしい気持ちになるんです。目に映る光景も、出来事も、―――人も」
私であって私でない、そう感じるあの夢は何を伝えようとしているのだろう?私にどうしてほしいというのだろう?考えた所でわかるわけではないのだけれど、でも何か考えていないと眠ってしまいそうです。
組んだ腕の上に顎を乗せ、ぐでっとテーブルの上に突っ伏した。これでは余計に眠くなってきそうな気もするんですが、何だか背筋を伸ばしているのも億劫で…八戒くんの前でだらしないなぁ、と思うのに。
「眠そうな顔をしてますよ。…嫌だ、と思うかもしれませんが、少し横になったら?」
「でも、」
「起きるまで僕が傍にいますから。…ね?」
「……はい」
眠りたくはないけれど、身体が疲れているのも、起きているのが辛いことも本当。だったらいっそのこと、横になってしまいましょう。八戒くんが傍にいてくれるのなら、もしかしたら安心してぐっすり眠れるかもしれませんもんね。彼は私の(秘密の)精神安定剤ですから。
ベッドに横になると、彼がわざわざベッド脇に椅子を持ってきてくれてそこに腰を下ろした。文庫本も持っていて「貴方が寝ている間はこれを読んでいますから、気にしなくて大丈夫ですよ」と笑う。きっと私が気に病むから、と先手を打ってくれたのかもしれませんね。傍にいてくれるのは嬉しいけれど、その間、八戒くんは何もできなくなってしまうから。
そう思っていた部分も僅かにあったから、余計にその気遣いが嬉しかったんです。それでもごめんなさい、という気持ちが消えるわけではないのだけれど。
…ああ、ダメだ。横になったことで余計に眠くなってきて、もう目を開けていられません。ゆるゆると落ちてくる瞼、寄せてくる眠気に逆らうことをせずに、私はそのまま意識を手放した。
そしてまた夢を見る、いつもと同じようにゆらゆらと漂い、誰のものかもわからない記憶の物語を見続けるのです。
「早く、私を思い出して。―――様」