「どこ、ここ……」
休日は普段、あまり外に出る事は無くインドアな生活を送る名前だったが、買い溜めていた日用品や食材の在庫が尽きそうになってい為に、今日は午後に駅前の大型スーパーへと買い物に向かった。都心部のように人も建物もそれほど華やかではないにしても、人付き合いが苦手で、賑わう場所へと行く事を得意としない名前は、少し緊張しながらも、生活の為にと己を奮い立たせて家を出た。
それなのに、いったいどういう訳か、歩いていた街並みが気付けば英字ばかり溢れる見慣れぬものへと変わっていた。
行き交う人々の風貌は様々で、だけど日本人とは思えないような身長や顔立ちの人があちらこちらに居り、髪色に関しても金髪や茶髪どころかピンクや水色等、染めるにしても些か特種な色を靡かせる人が複数居る。
名前の年代のような若者なら、今時髪を染める事なんて珍しくないにしろ、年配者やそれなりの職に就く男性等は黒の場合が多いだろう。少なくとも名前の周りはそうだった。
だがそのような人はあまり見つからず、名前が歩いていた周辺で黒髪を持つのは名前だけだった。
外国なのか、と思うには、まだ家からそう遠く離れてない場所を歩いていたのだから突拍子がないだろうが、店先の看板や貼られているポスター等に日本語は一切無く、周囲の人達の風貌も相まって、そう錯覚してしまうのも無理はないだろう。だがそれでも、聞こえてくる言葉は名前もしっかりと理解が出来る日本語だった。
自分が知らぬ間に新しい街でも出来たのだろうか。そう思うも、#スーパーへと赴いた道は、毎日通勤で使ってる道なのだ。そんなはずは無い、と新たに出た考えもすぐに打ち消して、じゃあどういう事? と、名前は頭を悩ませながらも、一度家へと引き返すべく、来た道を戻ろうと踵を返して歩みを進めた。
だけど、どういう訳か、もうとっくに家に着いても良いだろう距離を歩いた筈なのに、一向にそれらしき物は見当たらず、それどころか見慣れない街並みがまだまだ先まで続いてる。
名前が歩いたのは、まだ曲がる必要の無い、家からの一本道だった。戻る場合もただ真っ直ぐ歩けばいいはず。なのに着かない。
「なん、で……」
誰に言うでもなくぽつりと呟いて、名前がいよいよ不安になって来た頃、それに拍車を掛けるように、男に足を止められた。
「……リディ、だな」
前方から歩いてきた男は、すれ違い様、名前をチラリと視界に入れたかと思うと、次の瞬間にはガバリ、と音が付きそうな程の勢いで振り返るり、名前の肩を掴んで振り向かせた。
突然の事に驚き、反応が遅れる名前に対して、男はさらににじり寄る。
「おまえ、良くも俺達の船を貶してくれたなァ。お陰でオヤジはずっと寝込んでる。テメェみたいな女一人にまんまとやられて、次に会ったらちゃんと礼してやんなきゃなってみんなで話してたんぜ。……まさかこんなところに居たとはなァ」
男の言ってる事等、名前にとっては何の事やらさっぱりわからない。わからないながらも、名前はじりじりと距離を詰めてくる男から少しでも離れるべくゆっくりと後退していた。
誰かと勘違いしている。そう思うも、厳つい顔を歪めて嘲笑うように見下し、だけど瞳は憎しみに溢れている男の表情に、名前は萎縮してしまって上手く言葉が出せなかった。
「なぁ、もう一度船に来てもらうぜ。しっかりみんなに紹介してやるよ」
危険だ。名前の本能がそう告げる。人違いだと声に出せば良いだろうが、口から出る音は、あ、だとか、え、だとかばっかりで、ろくな言葉を紡げない。
とにかくこの男から離れなくては。そう判断し、名前は出来うる限りの早さで駆け出す。
「ッ、テメェ! 待ちやがれ!」
突然駆け出した名前に、男は逃がさないとばかりに追って来た。駆け出そうとした瞬間に捕まらなかった事は幸いだが、長いこと運動とは無縁の生活を送っていた名前は、ずっと走り続けられる程の体力等持ち合わせてはいない。
せめてどこかに隠れてやり過ごせないだろうかと、辺りへと視線を向けてみるも、見慣れぬ建て物ばかりで入って良いのかと名前は躊躇ってしまう。名前の性格である優柔不断と気の小ささがこんな時でも顔を出していた。
突如として始まった男と女の追いかけっこに、周りの人々は何事かと目を向けてはくるが、誰も介入する気は無いらしく、すぐに別の方へと視線を移していた。男の風貌と形相から、助けたところで自分に被害が及ぶのが目に見えているからだ。
変わってしまった街並み、追って来る男。今自分に何が起きて、どうなろうとしてるのか。駆け出した足を出来るだけ早く動かすように、前へ前へと必死に踏み出しながら、名前は頭の中で思考していた。
ハアハアと吐き出される息は、早くも体力の限界を知らせてくる。男の声は尚も背後から聞こえ続け、諦めてくれる素振りは無い。
家が何処に行ったか等は、最早考えるてる暇は無かった。とにかくあの男から逃げなくては。捕まったら殺される。そんな風にすら思えて、――だけど、所詮は体力の無い名前。対して男は、ガッチリとした体型で、きっとそれに見合う程のスタミナを持っている。
ただひたすらに直線を走っていた名前だったが、突き当たりにさしかかり、走る進行方向を右へと変えた時だった。名前の動きを予測していた男が、名前よりも少し早く道の右側へと走りこみ、意図も容易く名前の右腕を掴む。
「捕まえたぜ」
ガシッ、と腕を掴まれた事で、走っていた足が止まった途端、息を切らしてその場に崩れる名前に比べ、男の呼吸は然程乱れている様子は見られなかった。
手を振りほどき、立ち上がって再び駆け出す体力は、もう名前には残されていない。日頃のインドア生活が、まさかこんな形で牙を剥くなど、想定しろと言われたって無理だろう。
「ほら、立てよ」
掴まれた腕をグイッと引かれたけど、足に力が入らない。そんな名前に、男は舌打ちを一つすると、名前の体を持ち上げて肩へと担いだ。
「や、め、……降ろし、て」
息が整っていないこともあるが、捕まってしまった事に恐怖して、出した声は弱々しかった。
だがそんな事はお構いなしに男はどこかへと歩みを進めるべく動き出す。
「うるせぇよ。オヤジにあんな事しといて逃げ切れると思うな」
ただ一言、静かに漏らされた男の声には、憎悪や怒りといった、暗く、それでいて激しいような感情がありありと含まれていて、名前は余計に恐怖心を煽らた。
これから何が起きるのかはわからないけど、良くない事なのは確かだろう。恐怖と不安に苛まれ、名前はそれ以上何も言う事が出来なくなった。
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