男に連れられて辿り着いたのは、何処かの船のようだった。名前はここまでの道中、男の肩に担がれていた為に、視線は常に男の後足元で、周りの過ぎ去る景色何てものはおろか、縄梯子をあがる最中もろくな情報は得られずに、その船が白鯨を模している巨大な船だということはまだ知らない。
地面がだんだんと遠ざかり、名前の視界に縄梯子が映ってからも、男の動きは止まらず、人一人を担いでるというのに男は器用にのぼっていく。
下だけを見続ける名前は、己の位置と地面との離れていく距離に新たな恐怖が芽生えて、落とされないようにと身を固めてしまうのは仕方のない事だろう。
上へ上へと男が進む毎に、ガヤガヤとした騒がしさが聞こえてくる。それはどれも男の声で、いったい何人居るのか、やけに多い数の声だった。
どこに連れて行かれるのか。何をされるのか。名前が内心で不安を渦巻いていれば、漸く男の足が止まった。
と思ったら、トン、と板張りの床へと降り立つ。そしてまた男は歩き出し、騒がしい方へと向かって行く。
「おい! リディを見つけた!」
男がそう声を張り上げれば、複数あった声は一瞬、ピタリと止まり、だけどすぐに再びガヤガヤと騒がしくなる。
「リディって、オヤジをあんなめにした女の事だろう?!」
「見つけたってまじかよ?! つうか、その女か?!」
「おい、早くこっちにおろせ!」
そんな声が聞こえる中、ある程度進んだ先で、男はドサッ、と雑に名前を落す。急な事に受け身も取れなかった名前は、板張りの床へと膝やら肩やらを激しくぶつけ、上体を起こす頃には何人もの男達に周りをぐるりと囲まれていた。
「テメェか。よくもふざけたマネしてくれたな」
「覚悟は出来てんだろ? あぁ?」
名前は視線を下げたまま。上体を起こしたとはいえ、自分へと投げ掛けられる声に怖くて上を見られなかった。それでも、男達の足はしっかりと視界に入っている。前方に居るだけでも五、六人。左右、後ろを合わせればいったい何人になるのか。
「テメェの所為でオヤジはなぁ! ずっと目ェ覚まさねぇし、マルコ隊長なんか毎日医者探しに飛び回ってんだぜ!? 何とか言えよ!!」
横から聞こえた怒鳴り声に、名前はビクッと身を震わせた。誰かが怒鳴った事を切っ掛けに、周りの者達も次々声を荒げて、ついには足や手が小突くように名前へと向かって来る。
小突く、とはいえ、四方八方から来るそれらは、名前の体を容赦なくグラグラと揺らしていた。
「違っ、……知らない、私知らない」
震える体に鞭打って、強ばって固まる喉をどうにか動かしてそう言うも、名前の声は男達の声で掻き消される。
男達に囲まれ怒鳴られるだなんて、そんな経験、名前は今までで一度だってして事がない。人付き合いを苦手としていた名前は、人と衝突してしまう事を何より避けて生きてきた。
怖い、怖い、怖い怖い怖い。
ボロボロと流れ出した涙に、羞恥を感じる余裕すらない。ただただ、この恐怖から逃れられる方法を必死に考えるが、無関係を主張する声も、男達を制止する手も、恐怖で支配された身体では、何もかもが弱すぎた。
そんな時、辺りを囲む男達とは別の、凛とした声が響く。
「オメェ等、何騒いでんだ」
騒がしい声も小突いてくる男達の手足も、その一声でピタリと止まり、イゾウ隊長、と呼ぶ声がいくつか聞こえた。一つの足音がこちらへと向かって来る。
名前を囲んでいた男達は、まるで道を開けるように動き、それによって名前の前方は一度開けたが、それはほんの束の間で、名前の目の前に現れたのは、着物のようなものを着た人物の足元だった。
名前はいまだに視線を上げられなかった。男達とイゾウ隊長と呼ばれた人物が頭上で言葉を交わす中、次は何をされるのかと身構えていた。
「ガニー、本当にこの女で間違いねェのか?」
「あぁ。こんぐらいの長さの黒髪に、黒い目。間違いないぜ。それにこいつ、街で俺から逃げようとしたからな。決定的だろ?」
イゾウに問われて答えたのは、名前を追いかけてこの船へと連れてきた男だった。ガニーと呼ばれた男の言葉に、イゾウは持っていた煙管を一度吸い、フーッと息を吐き出してから、そうか、と静かに呟く。
「ガニーをたぶらかしてオヤジに毒を盛ったくれェの女だ。てっきり俺は強気な女だろうと想像してたんだがなァ。……そりゃァ演技か? 同情を買おうってんなら、ここじゃァ通用しねェぜ」
名前の前にゆっくりしゃがんで、そう言ったイゾウ。他の男達とは違う、落ち着いた雰囲気を感じさせるのは隊長故の余裕の表れなのだろうか。
名前は先程のガニーの言葉と、今のイゾウの言葉に、少しだけ状況を把握する事が出来た。
男を騙し、おやじと呼ばれる人物に毒を盛った女がいる。男達はその女の行方を探っていた。特徴は黒髪に黒い目。
そんなもの、日本人である名前にとっては持っていて当然で、特徴と言える程の事柄には感じられなかったが、ガニーは探していた女と同じ、黒髪で黒目の名前をその女だと信じて疑わずここへ連れてきたのだ。そしてそのガニーの言葉を信じて、周りの男達も名前が毒を盛った女だと思ってる。
“毒を盛る”だなんて、平和な日本で育った名前にとってはあまり現実味の無い事柄だが、もしそれが本当に起きた事なら、盛られた側の男達にとってみれば怒って憎むのは当然な事だろう。
だけど向ける相手を間違ってる。このままでは本当に、何をされるのかわかったもんじゃない。
名前は意を決して、ずっと下げたままだった視線を上げた。目の前でしゃがみ、こちらを見る男、イゾウへと視線を合わせ、まるで凝り固まってしまったような喉を動かし、声を発する。
「ひ、人違いです。私はそんな事してない」
出した声は震えていた。それでも、イゾウが現れた事で騒がしかった男達が落ち着き、名前の声を遮るものはなくなっていた。
「テメェ、この期に及んで言い逃れなんて見苦しいぜ!!」
一人の男がそう言えば、周りの男達もそうだそうだと言わんばかりに同意する。
漸く聞き取ってもらえた言葉は、しかし男達からしてみれば虚言でしかないのだろう。
再び勢い付いたように騒がしくなった男達に、イゾウは立ち上がると、落ち着け、と声を発した。
「とりあえず、この女の事はマルコが帰ってきてからだ。それまで逃げられねェよう、適当な部屋にでも入れとけ」
イゾウの言葉に、二人の男が近づいてくる。腕を掴まれ、名前が強制的に立たされると、二人の男はそのまま名前を連れて歩き出し、イゾウを通り越して船内へと向かった。
イゾウとのすれ違いざま、彼は二人の男に向けてある一言を放つ。その言葉の恐ろしさに、名前は恐怖をかきたてられ、その表情からは色を失った。
“まだ殺すんじゃねェぞ”
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