01


佐々木さんは、
今日も私の目を見なかった。



小声の失礼しますを重厚な扉で挟んで、すぐさま局長室に背中を向ける。それから嘘のように長い廊下の真ん中を、一人でゆっくりと歩いてみる。一歩進む度に、佐々木さんの言葉を一つ記憶から取り出し、忘れていく。言葉が明確に思い出せなくなってきたら、ちょうどエレベーターに辿り着く。下を向いた矢印を押した瞬間、稲妻のように私の頭をビビッと駆け抜けるのは、いつだって同じ佐々木さんの一言。

「貴女のことを愛している、と言っているのです」

彼がそんなことを私に言ったのは、後にも先にも一度きり。意識が朦朧とする死にかけの私に、佐々木さんは、そう告げた。続けざまに「だからもう、そんな悲しい顔はしないでください。私が忘れさせてあげましょう」とも。焦点がぼやけてしまうほど近くでされた佐々木さんからの告白は、それまでの全てを吹き飛ばすには充分すぎる威力を持っていました。

「また異三郎のこと考えてるの?」
「……信女さんったら、相変わらず気配を消すのがお上手ですね。いつから背後に」
「教えない」

来たばかりのエレベーターに颯爽と乗り込む白い影を、慌てて追いかける。足を乗せた瞬間、少しだけ沈む感覚が苦手。すこしは痩せた方が良いのかな。私の横に立つ細身の美女は、彫刻のように閉まった扉を見つめている。

「まだ、仕事があるんですか?」
「今日はもう終わり」
「そうでしたか、お疲れ様です」
「疲れてない」

降下し続ける箱は、気まずい沈黙で満たされている。口数の少ない信女さんと二人きりになるのは、正直あまり得意ではない。白い肌に艶やかな長い髪、人形のように整った容姿を持つ彼女と私とでは何もかもが違う。それで更に緊張してしまって、余計なことまで喋ってしまうから。それでも、なんでもない会話ができるようになっただけ良いのかもしれない。見廻組に勤めてもうすぐ1年になるけれど、右も左もわからなかった最初のことを思えば、すこしは前進したと我ながら思う。

「ドーナツ、ありがとう。美味しかった」
「ほ、ほんとう? 家の近くに新しくお店が出来たと聞いて、信女さんに是非と思っていたから、気に入ってもらえて嬉しいわ」
「オールドファッション」
「信女さん、好きなの? だったら次はもっと沢山」
「異三郎が食べてた。それじゃ」

残った言葉の意味を理解し、顔に熱が駆け巡るのと同時に、開いたばかりのエレベーターの扉が、ゆっくりと閉じた。
あ、と思った時には既に遅く、一階と局長室のある階を止まらずに繋ぐエレベーターは、ぐんぐんと上昇していく。誰に呼ばれているかなんて、考えなくても答えは明らかで。逃げ場のない箱が地上から離れるのを、ぽかんとしたまま見下ろすことしかできなかった。

「エレベーターを降り損ねる人なんて、初めて見ました」
「すみません、ぼうっとしてて、つい」
「そうでしたか。てっきり、私に会いたくなったのかと思ったのですが、勘違いだったようですね」

感情の無い声も、いつもより少し近い距離も、馬鹿みたいに心臓を加速させることを、きっと佐々木さんは知っている。
あの時、あの言葉で火をつけられた導火線は瞬く間に身体中を駆け巡ってしまった。焼け跡は爛れてしまい、もう元には戻らない。それを彼がどんな風に受け取って、私と接しているのか私には皆目検討もつかなくて。


旧家の出だと言っても、佐々木家には到底及ばない。幕府高官の娘であることも、いずれ警察庁長官となる佐々木さんにとって、何の価値も無いだろう。
それなのに、何故。
再び一階に降りたエレベーターから、今度こそちゃんと降りなければと逃げるように扉へ向かった筈なのに、咄嗟に強い力で腕を掴まれた。背中に当たる布の感触に、心臓が跳ねる。左手で私の腕を掴んだままの佐々木さんは、そのまま右手を伸ばしB2のボタンを押す。地下駐車場、文字盤がオレンジに光るのを横目に、思わず後ろを振り返る。

「勘違いだろうと無かろうと、貴女とは仕事抜きでお会いしたかったので、抵抗しないのならこのまま連れて行ってしまいますが、よろしいですか?」
「連れて行くって、何処へ」

大きな手が佐々木さんを見上げていた私の両目を覆ってしまった。持ち主に似合わない暖かな暗闇に、思わず笑みがこぼれてしまう。きっとこの手の向こうでは、佐々木さんが私のことを見て下さっている。その事実だけで、私は充分だ。緩やかな降下が止まったおかげで、両目は解放された。私の問いに答える気は無いのか、ずらりと黒塗りの車が並ぶ地下の駐車場を無言でエスコートされる。

「この中に、佐々木さんのお車が?」
「私物ではありません。こう見えても全てパトカーですから」
「だったら私、護送されてしまうのですか」
「……どこか、思い当たる節でも?」

ふざけて言ったつもりなのに、佐々木さんの目は冷ややかに前を向いたままで、失言をしてしまったのかと下を向く。仕事用の低い踵がコンクリートを刻む音だけが、やけに大きく響いていた。腰に添えられた手が外されたかと思うと、他の車と見分けのつかない一台のパトカーの前で、佐々木さんは立ち止まった。乗れと言うことだろう、と助手席に手をかけた瞬間、それを見守っていた佐々木さんが少し焦ったように、私の名前を呼んだ。

「扉は、私が開けますから、貴女は触らないで頂けますか」
「……はい、すみません」
「ただの男の見栄ですから、気になさらないで下さい」

取り繕ったような微笑みに、どこか違和感を感じるのも、気にしなくていいことなんだろうか。私に乗りやすいように車を出して中から扉を開けてくださった佐々木さんに礼を言いながら、暗い車内に体を滑り込ませた。

  
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