02

見廻組のパトカーはパトランプを仕舞ってさえいれば、普通の車だと言ってもいいだろう。しかし、護送車であることは決して変わることはない。そのことを男はよく知っている。だから、彼女を助手席に乗せたのだ。





初めて女を見た時の妙な引っ掛かりが全ての元凶であることを、佐々木異三郎は理解していた。幕府の高官の娘だというその女が、局長室に訪れた日のことを、彼はよく覚えている。恰幅の良い父とは対照的な細い身体、どこかぼんやりとした顔付き、自分が今何処にいて、これから何をするのか全く無自覚な、典型的な箱入り娘。

「何か質問はありますか?」
「その、お恥ずかしながら、私は今まで職についたことがありません。こんな私でも、できる仕事は有るのでしょうか?」

何を聞くかと思えば、内心ため息を吐きたいのを我慢して、佐々木が浮かべたのは彼が最も人当たりの良いと自負している笑みだった。

「例えば、今、私の机に積み上がっている書類。この中には私が処理するまでも無いものが多く混在しています。今の見廻組には、これを片付ける者すら不足しているのです。そして先程、貴女とお父様にお茶をお出ししたのは、私の部下に相違ないのですが、彼女は同時に見廻組の副長でもあります」
「そうだったのですか…… とても建物も立派で、隊士の皆さんも沢山お見かけしたので、とてもそんな風には」
「この組織が求めるのは、生まれも育ちも能力もそれなりの優秀者、言うなればエリートです。しかし残念ながら今の大江戸に、私が求める人材は、そう多く居ない」

佐々木の言葉に同調するように、女の父親は深く頷いた。この二人も、彼が挙げた人材には一部しか当てはまっていないのだが、そんなことに哀れな当人が気付くはずもない。

「貴女に刀を持てとは言いませんが、入隊した暁には、他の隊士と同じ覚悟で職務に励んで頂きたいのです。エリートは持っている物が一般の方より多い分、失う危険も多いことを忘れないで下さいね」

遠回しな牽制が、果たして届いたのだろうか。確認の為に見返した彼女の瞳に、先程までの曖昧な黒は存在しなかった。佐々木は、何を映しているのか定かでない瞳の奥で、言い様のない感情が燻っているのを確かに見た。

「承知いたしました。これからよろしくお願い致します、佐々木局長」

深々と下げられた頭に思考を遮られたことを不服に思いながらも、相変わらず顔に浮かんだ蛇のような笑みは、未だ答えを探すことを諦めていなかった。

彼女が茶汲みを覚え、書類整理をこなし、女性用にあつらえた隊服を身に纏い、隊士の1人として落ち着いてしまった後も、彼女があの時、何を瞳の奥で訴えていたのかを佐々木が考えないことは無かった。

「あの子の何が不満?」
「今、ふまん、と言ったのですか?」
「そう」
「信女さん、あまり口うるさく言いたくないのですが、ものを食べながら話すのはマナー違反ですよ」
「わかってる」

食べるのを止めない所を見ると、話すのを止めたのだろう。箱の中に詰まっているドーナツの整列を次々崩していく細い指を、椅子に腰掛けたまま無感動に見守る。
信女には、佐々木が己の言葉を何と聞き間違えたか分かっていた。戦闘能力に長けた暗殺の名手でもある彼女にとって、佐々木が事務仕事に励む女に対し、得体の知れない"不安"を抱えていることに、気付くなという方が難しかった。

「異三郎の勘は、よく当たる」
「……あなたに言われるほどだとは、自覚していませんでした。しかし、根拠の無い自信ではありますが彼女に関しては恐らく、当たりでしょう」

信女の無言の同調が、二人の短い会話に蓋をした。いつの間にか箱の中は空になっており、相変わらずの無表情がどこか満足そうにも見えた。

「他の者に頼むのは、些か気が進まないので頼んでもいいですか?」
「わかった」
「無駄足に終わると良いのですが。私としても再び雑用に時間を割かれたくは無いですし、駒は大事にするものですからね」

らしくない、目だけでそう告げた彼の忠実な部下は、今与えられたばかりの任務を遂行するために、音も無く部屋から立ち去った。後に残ったのは、胸の内にかかった靄を解消できないままの男と、食べカスの散乱した硝子机の上の空き箱だけだった。


廊下に響く足音がひとつ。さっきまで話題に上っていた女のものだろう。書類の整理が出来たのか、それともまとめておくように頼んだ資料を作り上げたのか。どちらにせよ机の片付けは、彼女に任せればいい。控えめな失礼しますに返事をしながら、佐々木は露骨に視線を向ける。しかし、彼女がその鋭さに怯むことはない。

「わざわざ持って来て下さったのですか、ご苦労様です」
「これくらい何でもないです。日がな一日、座って仕事をしているのですから」
「そうですか、でしたら何でもないついでに、そこの空き箱を片付けて頂けますか?」

なんと言われたのか分からなかったのか、目を二三度瞬いて、それからゆっくりと振り返り、机の上に散乱するペーパーナプキンと箱を目に留めた。佐々木には、彼女の困惑が手に取るように分かる。自分が、ゴミを片付けろと命じられている。命じているのではなく、命じられて、いる。教師が次の問いに手をつけることを優しく促すのとは訳が違う。まるで侍女のように、そして、自分は言われた通りに動かなくてはいけない。命じているのは自分の雇い主であり、自分はただ雇われている人間にすぎないのだ。

彼女は、呆然と立ち尽くしたまま、この逡巡を経てようやく動けるようになる。初めて茶を客に出した時も、書類を仕分けた時も、彼女は考える必要があった。その時間が慣れと共に短くなっていき、今では完全に消滅した。
彼女自身も、そう感じていたはずだった。

「私が言ったことが、聞こえなかったのですか?」

佐々木の言葉を聞いて、ようやく彼女は動いた。右手で軽く箱を傾け、左手でくしゃくしゃに丸められたペーパーナプキンをその中に放る。その様子を、佐々木はただ静かに見守る。恐らく当分この現象は見られないだろうと、彼女の緩慢な動きを目に焼き付けた。

「貴女はこの組織に属している限り、見廻組の隊士、それ以上でも以下でもありません」
「それについては……よく、理解しているつもりです」
「そうでしたか、すみませんしつこくて」

あの時、確かに見せた形のない炎を、一体、何処に隠したのか。佐々木の言葉も態度も、すべての終着点はそこなのに、ゴミを処分し、再び局長に向き直る二つの目は、いつも通りだ。どうやら煽れば良いということでも無いらしい、試行錯誤を繰り返すのが苦ではないとはいえ、再び見たいという欲の方が大きいのが厄介だ。見た後に何があるかなんて、知ったことではない。

「もっとも、隊士以上になる方法も有るには有りますが、お勧めはできませんね。奥の手がある、とでも思っている分には構いませんが。どうせ貴女以外、使う人のいない術ですし」
「……そんなものが、あるのですか?」
「では、あると仮定して。貴女は使ってみたいと思いますか」

女はゆっくりと思い出す。初めてこの部屋に来た時から、今に至るまで。その多くを占めていたのは新鮮な体験と、人との関わりだった。彼女は笑う。顔の似ていない美しい母に、よく褒められていた花のような笑顔で、首を横に振った。

「私は、今の仕事にとても満足しています。戸惑うこともまだ多いですが、これ以上を望むなんて、とても」
「それを聞いて安心しました」

話はもう終わりとばかりに、佐々木は目を伏せる。このまま部屋を出て行くものだと思い、途中止めになっていた書類確認へと意識が移行する。その隙間を縫うように、女が佐々木局長、と呼びかけた。佐々木は虚をつかれた気がしたが、それを顔に出すことはない。

「私が、"そんな手"を使わなくて良いように、きちんと見張っておいて下さいね」

挑発か、それとも冗談か。判断を下す前に、彼女は部屋から出て行ってしまった。客人用の机にゴミは欠片も無く、代わりに、彼女が作成した書類の束が綺麗に端を揃えて置いてある。

「これで、仕返しのつもりですか」

腰を浮かせる佐々木の小さな呟きを、拾うものは彼の他に居なかった。いつのまにか強烈に射し込んでいた夕日は消え失せ、窓の外はどっぷりと夜に沈んでいる。地上に灯る様々な色の光を見おろす彼の目に映るのは、名付けることのできない感情がひとつだけ。厄介なものを見つけてしまった。無表情に覆われているはずの己の顔が薄い笑みを浮かべているのを、佐々木は確かに自分の目で見てしまったのだった。


 
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