07
どのくらい眠っていたのだろう。まだ眼球を覆おうとする瞼を無理やりこじ開けて、上体を起こしてみると重量のある布が、とさりと私の体から落ちた。手を伸ばして初めて、ソファーの陰に紛れた布が役員の制服だと知る。慌てて拾い上げてソファーに座り直し、そこで初めて周りを見回す余裕が生まれた。広いフロアでは自分のいる接客用のスペースにだけ電気が点いていない。一面のガラス張りは夜に染まっており、その手前で佐々木さんが腰かけて書類と向き合っていた。違う所を挙げるならば、佐々木さんの手が止まっている所。それからいつもの制服は羽織っておらず、体格にあったベストをお召しだという所だけだ。「あの」開きかけた口は、形を保ったまま固まってしまう。佐々木さんの射抜くような視線がふと、こちらに向けられたからだ。私を見ているのに、私を見ていないような二つの目は納得したように逸らされた。
「今日までに、書類を仕上げるのではなかったんですか? 終業時間はとっくに超えていますが」
「あ、その、申し訳ありません。就業中に居眠りをするばかりでなく、局長の手まで煩わせてしまうなんて。仕事の方は今から取り掛かって、今日中には必ず」
「いえ、もう結構ですよ。私もすぐにお相手できなかったこともありますし、式まで日が近いせいで何かと気苦労も多いでしょう。少し意地悪してみただけですから、そう焦らないでください」
どこまでが冗談なのか分からない口ぶりに翻弄されまいと、佐々木さんの上着を胸の前で握りしめる。音もなく立ち上がり、私の向かい側に深く腰掛けた。その一連の動作には見覚えがあった。私の面接だ。といっても、あの時は隣にはお父様がいたし、外もまだ明るかった。なにより違うのは、あの時、私たちが他人同士だったということ。誰からも畏怖される見廻組の局長と高官の娘、ただそれだけだったはずなのに。今の私たちは夫婦になろうとしている。恋人としての手順をいくつも飛ばして、訳のわからないままに憧れの上司の妻となる。どうしてと、問うべきなのか。私には何もかも分からない、恐ろしいほどに。
「こうして貴女と改まって向かい合わせに座るのは、初対面の時以来じゃないですか」
「私も今、そのこと思い出していました。あの頃の私は恥ずかしいほど世間知らずで、何度もご迷惑を」
「あの頃の?」
「……今もですけれど」
「貴女はあの時とは違いますよ、何もかもが」
不自然に言葉が切られ、佐々木さんの目が一瞬窓の外を向いた。いつも通りの冷めきった目に変わりないのに、ほんの少し色が灯ったようなそんな気がした。
「お父上から、私と話すように言われたのでしょう。婚約を申し込んだことも本当は私の口から伝えるつもりだったのですが、フライングになってしまったようですね」
「佐々木さんから申し込まれたとあれば、仕方ありません。色恋を知らないはずの一人娘が局長と婚約なんて、驚かない方がおかしいですし」
「確かに、そうかもしれません」
佐々木さんは、私が起こした騒動を徹底して隠した。何日も家を空けた理由は、泊まり込みでの研修だか実習だかと両親に話をつけ、当然のようにそう思われていた。私の浮かべる苦笑いをチラリと見た彼もまた笑みを浮かべる。両親の知らない私が本当の私だとすると、例えば男に翻弄されて命まで投げ捨てようとする、私自身も知らない温度を秘めた自分が本当の私だったら。その姿を誰より近くで冷静に見守ってきたのが、佐々木さんなのだ。
「以前もお話ししましたが、私は絶対に貴女を手放さない。しかし、貴女が私に返事をする前に、考えていただきたいのです。真実を知るか、それとも知らないまま私と生き続けるか」
唐突に切っては続け、続けられては切れる会話は、うまく回らない。歯切れの悪い佐々木さんの顔を伺い見ると、悟られまいと少し歪んでいた口元が元に戻った。
「真実って、佐々木さんが以前言っておられた無くした記憶のことですか?」
「正しくは無くしたのではありません。貴女に生きていただくためには、記憶は無くさなければいけなかった。要するに、私のエゴなんです。今貴女が生きて、私の妻になろうとしていることもすべて、私が望んだからに過ぎない」
だったらどうして手放そうとするの、私に選ばせたりするの。続けざまに問おうとした口は開いたまま言葉を発することはなかった。ああ、彼は苦しいのだ、自分だけが重しを引き摺って生きることが。無機質な仮面をかぶった目の前の局長は、今や隠しきれないほどに顔に感情が滲み出ている。あくまで選択するのは私だから、佐々木さんは提示するだけ。しかし口火を切った瞬間から、聡い彼は気付いてしまっているのだろう。私がどちらを選び、どう行動するか。今まで慎重に築き上げてきた佐々木さんと私の関係性が、修復ができないほど粉々に砕かれてしまうことも。全てを見透かした上での覚悟、諦めすら佐々木さんの無表情からは感じ取れた。
「私は、佐々木さんをお慕いしております。何よりも、誰よりも貴方と過ごせる今を大切に思っています。佐々木さんが打ち明ける真実がどんなことだろうと、これだけは変わりませんわ」
「それは今の、貴女の本心ですか」
「ええ。今の私の、そして、」
あの時の。
続きを言う代わりに私はポケットから弾薬をひとつ、取り出して机の上に転がした。佐々木さんの目が、見開かれる。当然、だと思う。信じられないものを見るような目で私を捉える両目に、しっかりと視線を合わせてから微笑む。
「やっと、私を見てくれた」
佐々木さんがかけた魔法は、悲しいかな不完全だった。彼は頑なに私の目を見なかったけれど、そんなことは何の意味もなさなくて。静かな局長室も車のドアの冷たさも、それから、佐々木さんの腕の中で聞いた波の音も。ひとつずつが私の記憶の綻びをどんどん大きくしていったのだから。記憶が戻るたびに実感したのは、彼を奪った憎しみでも騙した悔しさでもない。汚れた私をそうとわからないように側に置きいて、何も告げずに見守り、愛してくれた佐々木さんを、私は。
「……どうして」
今度問うのは、佐々木さんの番だった。
記憶なんて消さなくても、暗示なんてかけなくても良かったのだ。そうすればこんな終わり方は選ばなかった。私の片目からはぽろりと涙が溢れて落ちた。
「佐々木さんが、忘れさせてくれるって言ったんじゃないですか」
言いながら、内ポケットから銃を取り出し、自分のこめかみに押し当てる。一介の事務職には不要なはずなのに、当然のように支給された私用の拳銃。一度死のうとしたとは信じられないほど、私の人差し指は震えていた。
何も知らない少女のまま、貴方の側にいられたら良かった。けれど、そうして生きていくには佐々木さん優しすぎた。私を欺いたまま、仮面を外すことなく私を抱きしめてくれていたら、それで充分だった。だって私、とても幸せだったんだもの。
死んでしまった私の目も、大好きな掌が閉じてくれることを夢見て、力の入らない右手に、左手を重ねた。
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