06
どこに居ても何をしていても、何かが足りない気がするのはいつからだろう。恋に仕事にと我ながら充実して何不自由のない生活を送っているはずなのに、私の思考を置いてけぼりに心が何かを求めている。そのことを考えないように、胸元を拳で何度か叩いてみた。大丈夫、大丈夫だよ。いくら言い聞かせても、変に焦ったような心臓は言うことを聞かなくて、思わず俯いて目を固くつむった。
出会ったばかりの頃は、佐々木さんはよく私の目をまじまじと見ていた。視線が合うとなんだか気まずいので、曖昧に逸らしたり、妙に緊張してしまったりと気が散ってしまい、残念なことによく粗相をしてしまったが、あの時はまだ恋人がいたからか、そこまで意識もしていなかった。少なくとも今のように家に持ち帰ってまで佐々木さんのことをあれこれ考える、なんてことは一度も無かったはずだ。
「こら、母上が捜していたぞ。結納の準備をあれこれしなければならんというのに」
大きな足音を響かせながら、父上が私の名前を呼んだ。怒られるのかと思いきや、私の隣に無言で座り込む。綺麗に整えられた中庭に面した縁側には、春の陽が差し込んでこの上ないほど穏やかだ。私がここから動かない理由を察してか、楽しそうに笑みを浮かべて頷いた。
「けれどまぁ、こうしてゆっくりとこの家で過ごすのも最後かもしれないな」
「父上、私は死ぬまで父上の娘ですから、そんな寂しいこと言わないでください」
「そうは言っても、あと少しで娘を手放すんだ。寂しくもなる」
佐々木さんから縁談の話が来ているがどうするか、と父に問われた時は心底驚いた。毎日顔を合わせているのに、そんなことは一言も口にしなかったし、いずれはそうなると薄々勘づいていたものの、私に確認も取らず親に申し入れるなんて。佐々木さんらしいといえばらしいけれど。二人きりで海に連れて行ってもらったのがほんの二、三週間前のことなのに、遠い過去のようだ。家中が慌ただしくなっていくのを他人事のように眺めながら、休日はこうして中庭でぼんやり過ごしている。
「しかし驚いたよ。あの佐々木異三郎がお前と、だなんて。実の親でさえこうなのだから、周りは余計に驚いているだろうな」
「ええ、私もまだ夢を見ているようです。とても自分のことだと思えなくて」
「心配しなくても、式が近付けば現実味も増す。それに職場で顔を合わせるんだから、ついでに二人で今後について話しておきなさい」
父上からの言葉が、ズンと心臓にぶら下がる。明日も明後日も、いつも通りに仕事がある。職場に行けば、最低でも一度は佐々木さんの元に足を運ぶことになるだろう。嬉しいような怖いような、複雑な気持ちで庭から小さな空を仰ぎ見る。夕暮れに差し掛かった春の青は、淡い雲を浮かべたままゆっくりと流れていくだけだった。
*
私と佐々木さんの結婚の噂は瞬く間に、見廻組中に広まった。普段言葉を交わす人、交わさない人から口々に述べられる祝福から逃げるように、局長室の階へと続く直通エレベーターに飛び乗った。顔に張り付いた笑顔を手のひらで揉みほぐし、ため息を吐く。佐々木さんは、どうしているんだろう。階数を示す数字がどんどん増えていくのを眺めて、考える。腕を重力に任せて軽く振ると、指に引っかけた紙箱の中でドーナツがぶつかり合う感覚がした。ほとんど信女さんのために買ってきたものだけど、オールドファッションだけは避けてくれたら良いな。以前、ここで交わした短い会話を思い出している内に、エレベーターは上昇を終えた。
「おや、お疲れ様です。早かったですね、もう資料が出来上がりましたか」
「もう少しかかりそうなのですけれど、今日中には必ず」
「言っておきますが、くれぐれも無理はなさらないで下さいよ。貴女に倒れられてはお父様に顔向けできませんからね」
筆を走らせている書類から顔を上げることなく、佐々木さんは私と会話を続ける。いくら目を凝らしても、彼が私に好意を向けているとは微塵も思えない振る舞いに再び浮かべた笑顔が引きつった。もしかしたら早々に退散すべきなのかもしれない、と思い立った瞬間に、佐々木さんは低い声で「もう少しでこれは終わるので、座っていて下さい」と私の予想を訂正した。言われるがままに客人用のソファーに浅く座り、佐々木さんの真剣な顔をぼんやり見ている内に、昔の恋人が脳裏をよぎる。その曖昧な影は、深追いする前に消えていった。
幼馴染みが性別の異なる友人になり恋人になって、それから。私の前から居なくなった彼は子供の頃からの唯一の友人であり、私を芯から作り上げた優しい人。彼のことが好きだった、二人で生きるためならなんでもできると思うほどに。あっさりと捨てられた衝動で、私は死のうとしたと佐々木さんは言う。分からない話ではない、他人に知られてしまえば永遠に引き裂かれる彼との関係を、必死で守ってきた私にとって彼は人生であり、未来だった。
目を覚ました時に側にいてくれたのは、彼ではなかった。佐々木さんは精神的なショックのせいで私の記憶が一部無くなっているのだと告げた。引きちぎられた記憶の束を上書きするように、愛している、とも。佐々木さんが言ったことなら、恐らくなにもかもが本当なのだろう。たとえ全てがつくり話でも、佐々木さんが私に告げた言葉だけは嘘ではない。だから、それで私は充分なの。
ガラス張りの壁から、相変わらず柔らかな陽射しが差し込んでくる。ああ、まだ終わらないのかしら。ゆっくりと閉じていく瞼にも、沈んでいく体にも、抵抗する力は残っていなかった。
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