深海8400mの境界線

芸能事務所ヘイタルゾーン。超深海帯を意味する社名とかけて地の底まで堕ちたと言われる。所属するタレントはそこそこ活躍はしているが所詮その程度。爆発的人気を誇る広告塔は存在しなかった。
そう言われていたのも少し前まで。今ではヘイタルゾーンの名を轟かせる広告塔が存在する。モデルとアイドルをこなす屑の王子様と呼ばれる男が。

付き合ったら絶対後悔するのに沼ってしまうヒモ系男子。女殴ってそうなど世間のイメージは良いものではないが。王道アイドルと掛け離れた存在は事務所のスタイルでもある。ヘイタルゾーンに所属するタレントは一部例外を除き、成人ばかりで大人な色気を売りにしている。

「HiMERUには理解できないのです」

去年、女性絡みで暴力沙汰に巻き込まれていたではないか。屑の王子様ミクズ特集と書かれた雑誌をHiMERUは机の上へ置いた。



とある病院の個室。静かに眠る女の姿。にわかには信じがたいがベッドで眠るのはナマエである。だがナマエは存在する。今は男の姿で。

ミョウジナマエはヘイタルゾーンの社員で弟が居る。弟はホストをしていた。偶然その話が社長の耳に入りスカウトされヘイタルゾーン所属となった。社長はホスト時代にクズホストと罵られた弟を屑の王子様とブランディングしミクズと芸名も与えたのだ。

「お願いだから早く目を覚ましてよ」

呟いた声は聞き慣れた弟の声。ミョウジナマエは今ミクズとして生活している。弟の身体に中身はナマエ。目を覚さない自分の身体には弟が居るのだろう。

本気の恋愛感情を抱くファンの女にミクズはつけ回されていた。女には長年付き合っていた恋人が居たが別れを告げ、ミクズにのめり込んだ。その恋人はミクズを恨み、撮影を終えたミクズを待ち伏せて暴力を振るった。偶然居合わせたナマエも共に。
目を覚ました時にはミクズの身体になっていた。ナマエはいまだに夢の中にいる気がするがなんとか自分を納得させる。弟が目覚めるのを、いつでも帰って来れるように居場所を守っている。

「行ってくるね」

金がなければ何もできないのだ。働かなければならない。後ろ髪を引かれる思いでナマエはスタジオへと向かった。

ティーンに人気なコスメブランドがある。その新作のCMにミクズは選ばれた。いつもと違い、今回は共演者がいる。コズミックプロダクションのHiMERUだ。
王道アイドルを歩んだHiMERUとミクズ、宇宙と深海、正反対の存在に今回のコンセプトにぴったりだと笑いが出る。

「ミクズさんおはようございます。衣装はこちらに」

スタイリストは軍服デザインの黒を基調とした衣装を準備して退室した。

装飾品の多い衣装は着るのも時間がかかる。前回身に纏った時と変わらず、ジャストサイズで見栄えもいい。本来のナマエであれば多忙な時期や面倒な時は食事を抜くし、栄養ドリンクで済ます事も多かった。これが弟の身体でなければ体調管理を徹底する事はなかった。繁忙期には痩せてしまい、怒る弟を思い出し寂しくなる。撮影前にこんな状態ではいけない。ミクズは弱気であってはならない。常に自信に溢れ世の女性の視線を奪う男なのだ。ナマエは大きく深呼吸してスイッチを切り替えた。



「HiMERUさん入ります」

ソロバージョンのCMはすでに撮り終えていた。共演者のミクズとのスケジュールの兼ね合いで今日が一緒の撮影となった。

初めて会ったのは雑誌の撮影だった。どんな人物なのか内心警戒しながらも挨拶すれば、思ったよりも普通で拍子抜けしたのを覚えている。
天城と変わらない年齢の彼からは濃く甘い香りが漂う。甘さの中に男を感じる色気のある香りだ。どこのブランドの香水かは分からないが、とても彼らしい香りだ。匂いは記憶に残るという。一度嗅いだあの時からこの香りを、ミクズという大人の男を演出する香りをなかなか忘れられないでいる。

「ミクズさんはヘアメイクご自身でされるみたいです。前まではカラコンも怖くて入れられないって騒いでたのに。最近は色気が出過ぎて驚いてます」

笑いながら話すメイクアップアーティストの言葉が少し引っかかる。何が気になるのかよく分からないが、喉に引っかかる魚の骨の様な違和感が。

「ちょっと秘密をバラさないで下さいよ。俺だって練習すれば出来ますし」

HiMERUの白の衣装とは対照的な黒の衣装のミクズが現れた。普段下されている前髪をかき上げ、いつもより顔が良く見えている。

「ミクズさんメイク上手になりましたね。私要らないじゃないですか」

「今日はメイクさんに甘えれば良かったかな?独り占めすればよかった。しまったな」

まるで彼の香水のように甘い声でメイクアップアーティストの頬を上気させる。HiMERUも色気だのセクシーだの言われるが彼には敵わないと思う。人生経験の差だろうか。
追い討ちをかけるミクズに撮影始まりますよと声をかけて撮影ブースへと足を進めた。

「もっと2人寄って。HiMERUさんは優しく微笑んで。ミクズさんは挑発的に。いいねー」

色も存在も正反対な2人がまるで1人の女性を取り合うかの様な演出。
【白と黒どっちを選ぶ】をコンセプトに撮影は順調に進んでいく。
この企画に相当力を入れているらしく、テーマソングとミュージックビデオまで制作される。この後はビデオ撮影だ。歌はそれぞれ別撮りしてある。
2人とも色っぽいと誉め殺しのカメラマンなんて気にも留めず、HiMERUの神経は隣の男に集中していた。

「30分後にMVの撮影入ります」

グリーンバックで撮影するかと思いきや、ロケ地を抑えてあった事に驚いた。綺麗に手入れのされたバラ園にHiMERUとミクズは居た。
ガツガツ絡んでくるわけでもなく、会話が全く無いわけでもない。程よくいいタイミングで話すし黙る。空気が読めるミクズが作る空間は嫌いじゃない。

「おや」

ぴこぴこと通知音が鳴ると思えばHiMERUのスマホにはメッセージが届いていた。
何事かと確認すればCrazy:Bのメンバー天城からのメッセージだ。本文は無く写真のみ数枚送られている。腹を空かせた椎名、団子を頬張る桜河、天城が撮ったであろうスリーショット。暇を持て余し送られた写真はどれも楽しそうなシーンが切り取られている。

「楽しそうですね」

顔に出ていたのだろうか。表情を変えたつもりはなかったのだが。
ユニットのメンバーからと伝えればミクズは仲が良いのはいい事だと笑った。けれどその表情があまりに辛く悲しそうで、そうですねとしか返す言葉が見つからない。
そんな様子を察したのかミクズは「そろそろ撮影戻りましょうか」とこの空気ごと攫って消えた。

「HiMERUはここで失礼します」

「俺もこの後予定がありますので、この辺で」

撮影は何の問題もなく無事に終わった。打ち上げモードの空気を切るように発言すれば、ミクズも同じ様に続く。1人で抜け出すには気が引けていてミクズの一声に助けられた。

「HiMERUさんはタクシー呼びます?俺は車で来てるんで送りましょうか」

「HiMERUはそのつもりでしたが、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか」

「もちろん。車出しますので少し待ってて下さいね」

そう言ってズボンのポケットを探りながら駐車場へと消えた。彼は意外にも自分で車を走らせるようだ。
しばらくすると社用車に多い一台のバンがハザードを付けて目の前に停車した。運転席にはもちろんミクズだ。

「お邪魔します」

乗り込むと車内は綺麗に整理されスッキリしている。芳香剤の香りもしない、微かに感じるのは新しい車の匂い。それもそのうちミクズの香水の香りで分からなくなるだろう。

「さっき自販機で飲み物買ったんでお好きな方どうぞ」

ドリンクホルダーにはコーヒーとコーラが収まっている。なぜこのチョイスなのかと考えているとオーディオから馴染みのある曲が流れ始めた。

「この曲は…」

「Crazy:BさんのCD買ったんですよ。かっこいいですね」

「ありがとうございます。そう言って貰えてHiMERUは嬉しいのです」

「ぶっちゃけ、今回の話は蹴られるかと思ってたんですよ。HiMERUさん俺みたいなの好きじゃなさそうですし」

「HiMERUは貴方の事は嫌いではないですよ」

「本当に?絶対嫌われてると思ってたわ。リサーチしてて良かったです」

くしゃりと笑う姿も、フランクに崩れる口調もこの時ばかりは年相応に見える。
車の外は見慣れた景色。もう少しで目的地へ着いてしまう。それが少し嫌でHiMERUはこの時間をまだ楽しみたいと思ってしまった。



「メルメルのCMじゃん」

天城は頬杖をつきながらテレビを眺める。テレビに注目すると、この前撮影したコスメのCMだった。HiMERUバージョンがらミクズへと切り替わる。

「色気満載だねぇ」

画面の中のミクズは口元や首筋に口紅の跡を付け、シャツのボタンも大きく開いていた。キャッチフレーズの言葉と共にCMは次のものへと切り替わる。あまりの耽美的な作品に、目も離せず言葉も出なかった。

「おーい。メルメル?どうした?恋したか」

茶化す天城に言い返す言葉も浮かばず、しばらくしてから仕事じゃないなら帰りますとその場を後にした。
すれ違う人々の中、ふわりと香る甘い香りに思わず振り返る。そこに想像する姿の人は居ない。当たり前だ。ここはコズミックプロダクションであって彼の事務所のヘイタルゾーンではない。この場にミクズが居る事はほぼありえないのだ。
天城が言うようにまるで恋でもしたのだろうか。
緩やかかつ瞬く間に過ぎ去ったあの時間が昨日の事のように脳裏にぱっと明減する。
らしくない自分。それは多分、HiMERUはミクズという男に魅入られたからだ。

それからしばらくして屑の王子様ミクズが無期限活動休止を発表した。メディアはこの話題で持ちきりだ。共演した事もありHiMERUはこの手の話題を振られるのは少なくない。理由も経緯も何も知らないので答えようがない。
あの時もっと踏み込んでおけばミクズは話してくれていただろうか。
交換した名刺は傷一つなく綺麗なまま。そっとケースへ仕舞うと、あの甘い香りが鼻を掠めた気がした。

いまだに鮮明に思い出せる香りはあの時の記憶を呼び覚ます。連絡が来るんじゃないかと期待してみるも来るわけもなく、勝手に期待して落胆する。あの笑顔も声も香りも手が届かないとなると欲しくなり、らしくもなく焦がれている。

いつか思い出せなくなる日を恐れながら、静かに海底の水屑みくずとなる。

深海に王子様はもう居ない。