アイドル下積み時代、それなりに彼女は居た。
たまにはデートがしたい。燐音くんと一緒ならどこでも嬉しいと言う彼女。
どこでもいいを間に受け、パチ屋の前で盛大にビンタを喰らった。最低と別れるのコンボで。
よくよく考えると彼女は成人していなかったし、どのみち入れなかった。避けれるレベルではあったが、楽しい期間があったのは確かだ。悪かったの意を込めて左の頬を差し出した。
そのまま入店し台を吟味していると、ひとりの女がスロットの台に座り、回るリールを綺麗に揃えていた。淡々と作業するその姿を眺めていると視線に気付いたのか女がこちらを向いた。
「お兄さん綺麗な顔が台無しですね」
ふわふわした年下の可愛い女の子だと思っていたが、思ったよりもパワー系だった。それは怒らせた俺が悪いのだが、彼女に叩かれて熱を持った頬をそっと撫でた。
なるほどね。と話していないにもかかわらず察した女。今まで出会った事のないタイプで新鮮で面白いと思った。これがナマエとの出会いだ。
パチ屋で顔を合わせるのも恒例になった頃、たまには外でご飯でもと出かけるようになった。
駆け出しのアイドルには全額出すなんて出来なかったし、手持ちが無い日もあった。それでもナマエは「私と燐音くんの仲じゃん。お姉さんに甘えなさい」と笑っていつの間にか会計を済ませていた。
「燐音くん、お馬さん好き?」
「燐音くん、お船好き?」
ナマエが誘うのは動物園や遊覧船のような定番のらしいものではなく、常にスリリングなものだった。競馬やボートレースだとしても俺にとっては元気を貰える楽しいデートだ。
本人は俺の事を趣味の合う友達くらいにしか認識していなさそうだが。
心が折れそうになり、無一文で飛び出し路頭に迷っている所をナマエに拾われた事もあった。詳しい事情も聞かず「うちにおいで」と手を引かれて。
俺が話したくなるまで無理に聞こうとせず、温かいご飯と酒も振る舞ってくれた。
居心地の良い空間と美味しい食べ物で身も心も満たされ、その時初めて自分がアイドルをしていると話した。
「そうなの?想像もしてなかったな。有名になったらサイン頂戴ね」
最初は驚きはしたものの、頭のてっぺんから足の先までゆっくり観察され、燐音くんはかっこいいから大丈夫と太鼓判を押される。
アイドルと打ち明けたこの日を境にCrazy:Bとしての活動が始まり、ひと月も世話になったというのに礼を言う暇もなく、目まぐるしく過ぎる日々にナマエに会える時間はめっきり無くなってしまった。
***
久々にひとりで飲みたい気分だった。静かに飲みたくて、たまたま目に止まったバーへと入る。
薄暗い店内にはジャズが流れている。ここならCrazy:Bの天城燐音が来ているとは直ぐには分からないだろう。
カウンター席の端で静かに飲む姿に強烈に惹かれ、その横顔は見覚えしかなく、まさかと近寄れば予想通り。そこに居たのはナマエだった。
「ナマエちゃん」
振り向いた顔はあの時とすると少し大人びていて時の流れを感じる。溢れそうに大きい瞳で「燐音くん?」と呟くナマエの隣に静かに座った。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
元気だよと返事をしようとしたが、視界に入ったナマエの薬指から目が離せない。左手の薬指で主張する物が憎らしいほどに輝いている。
「結婚しちまったのか…俺っち以外の奴と」
「燐音くんはアイドルじゃなくてお笑い芸人にでもなったの?」
くすくすと笑うナマエはこちらの気持ちなんて知らずに呑気なものだ。
「燐音くんはちゃーんとアイドル屋さんです」
俺は今ちゃんと笑えているだろうか。お調子者を演じられているだろうか。
「知ってる。Crazy:Bかっこいいよ。頑張ってるね」
急に真面目な顔でナマエが褒めるものだから調子が狂う。もっと早く再開したかった。そんな事ばかり考えてしまう。
「ナマエちゃん今、幸せか?」
聞いてどうする。聞いたところで意味なんてないのに。でも、どうしても知りたかった。それはきっと理由が欲しいからだ。
「私が満足するくらいに、もういいって言うぐらい、愛してくれれば良かったのにね。そしたら何度目かの見ないふりだって…」
そう言ってどこか馬鹿にしたように笑って、酒を一気に飲み干した。
頬はうっすらと染まり瞳が潤んでいる。ナマエの肌が白いからこそ、そのコントラストが映える。唇の間から覗いた舌も赤く、そこから漏れる吐息さえも美しく感じる。
「彼ね、私以外にも女が居たの。遊びなら許してあげようと思った。でもね、遊びは私の方だったの。結婚する前に気付けて良かったのかもね。ある意味ラッキーかな」
悲しそうに笑って薬指から枷を引き抜いた。
「今の職場、やり甲斐を感じなくて辞めるんだけど、寿退社って思われてるの。本当は辛くて辞めるだけなのに。笑えるよね」
うん。としか返事をしない俺にナマエは笑いながら続ける。
「色々疲れちゃったんだ。次の仕事はゆっくり探そうと思ってる」
「仕事は探さなくて良いっしょ」
真っ直ぐにナマエの瞳と視線が重なり合う。必死に色々考えたけれど、この言葉しか浮かばなかった。
ナマエの薄く開いた唇から言葉にならない空気が漏れる。
「あの時の酔っ払いの言葉、本気にしていいの?」
言い終わる前に強引に抱き寄せる。懐かしい香りが鼻を掠めて胸の奥が痛い。余裕なんて無く、かつんと歯の当たる情けないキスがひとつ。
今度はちゃんと角度を変えて唇を奪うと、ナマエの瞳から一筋の光が流れた。
ナマエちゃん、俺っちが有名になったら結婚しよう。酔いに任せて紡いだ言葉は今も生きている。
待たせてごめんだとか、一生大事にするとか言いたい事はたくさんあるけれど、今はただ抱き締める腕に力を入れる。
サインは色紙ではなく茶色の紙に書くつもりだ。