そういう言葉があるという事を知識としては知っていたが、身をもって知ったのは「彼」と出会ってからだ。それを嫌と言いたくなってしまう程に思い知らせてくれた彼の存在は、なんというか。今までの人生の内に出会ったどの人物よりも異質で、奇抜だった。
「このアパートに引っ越してくる子の話は聞いた? それがね、イタリアから留学生なんですって」――
疲弊しきったバイト帰りでも御構い無しにマシンガントークを炸裂させてくるお隣のおばさんに、諦め半分の適当な相槌を返していた私は「へぇ、怖い人じゃないといいですね」なんて当たり障りの無い言い方で締め括った。
興味が無いと言えば嘘になるが、関わり合いになりたくないという気持ちの方が大きかったのだ。ただただ平穏な日々を過ごしていたい私にとって、そういう突発的な事象は非常に迷惑極まりない。
だからといって事を荒立てるつもりも無く、お隣さんに言ったように、挨拶をする時に困るような人でなければいいとだけしか考えていなかった。
幸いにも私の予想は裏切られなかった。
やってきたのは、風に揺れる金髪と青い瞳、整った顔立ちに加えてスラリとした細身の青年で。このアパートの住人の大半を占める
圧の強い彼女達に囲まれて好意や善意を押し付けられている彼を哀れに思う事はあれど、彼が惹きつけていてくれるからこそ私の生活に変化は無いのだとも実感して、特に気に留めるような事は無かった。
「なぁ、君だろ? オレの上の部屋に住んでいるのは」
とある日。
郵便受けの前に居た彼に「こんにちは」と言葉を投げたのは会話を広げる為じゃあない、単なる挨拶だ。足早に彼の後ろを通り過ぎて階段を上ってしまうつもりだったのに、返された言葉の所為でつい足を止めてしまった。
わざとらしく物音を立てたりした覚えは無いが、何かが彼の気に障ったのかもしれない。それが幾ら気の所為だったとしても彼が大家さんに苦情を言おうものなら、間違い無く私は責められるだろう。下手をすれば退去を命じられるかもしれない。何としてもそれは避けねば。
「あ、えっと、すみません。これからは気を付けますね」
「気を付ける? 何の話だ?」
「え? 物音がうるさいって事じゃあ、」
「いいや。夜中なんかは歩いている音が聞こえはするが、そんなのは問題じゃあない」
「はあ……?」
『じゃあ何なんだ、何故呼び止めたのか』という意味を含んだ曖昧な相槌に気付いていないのか、彼は私の郵便受けの名前を指差した。
「カンジというのは難しいな。点の位置が少し違うだけで読み方も意味も変わる。君の名前に使われている文字も、オレから見れば子供の落書きみたいなものだが、ちゃんと意味があるんだろう?」
そう言いながら空中で動かす指先は恐らく、私の名前に使われている漢字をなぞっているのだろう。苗字だけしか書いていないというのに、小学生でももっと早く書けると言いたくなってしまうような動きではあったが、それでも何とか終わったらしい。
それから『意味を教えてくれ』と言わんばかりの視線を此方に向けてくる彼に『ある意味、お隣さんに捕まるよりタチが悪いかもしれない』と感じながら、いつも通り諦め半分の適当な態度で口を開いた。
その一件があってから彼と話す機会が増えたのは事実だ。
とはいえ、私は顔を合わせればご近所さんとして過ごしやすくする為に挨拶をするだけだったし、彼の話題も異文化ゆえの疑問や日常生活を送る上での些細な質問程度だった。
それなのに何故、一体どうしてこんな事になっているのか。
「あの、メローネさん。これは、何事ですか……?」
「簡単さ、見て分かるだろう」
唖然か呆然か、今の私に相応しい言葉がどちらか分からない。兎に角、空いた口が塞がらない。あまりにも突然で、唐突過ぎて、悲鳴をあげる事すら出来なかった。だからなのか。
いや、何を思っているのかなんて予想すら付かないのだが、彼はヤケに自信たっぷりに言い切った。
ああ確かに、見れば分かる。
それは誰がどう見ようとサンタクロースの格好だ。雲のような白くて立派なヒゲこそ無いが、彼の姿を見て『ああ、そういえば今日だっけ』と思える程には、その通りの格好をしている。
だが違うのだ。
私が聞いているのは「どうしてサンタクロースの格好をした階下の住人が、夜中に何の予定も断りも無く、そして軽々とベランダの窓から侵入して来たのか」という部分なのだから。
「どうしても今日の内に、君にプレゼントを渡したかったんだ。日頃のお礼を兼ねたものだから受け取って欲しい」
手に持っていた雑誌を膝の上に落とし、そのはずみで床を滑っていった事に気付いても拾おうという気にならないくらいに混乱状態の私と、そんな私の精一杯の質問を無視して、彼は持参した白い布袋に手を差し入れた。
『激しく要らない』と叫び出してしまいそうな感情を必死に諦めて「それは、どうも」と返そうとした――のだが、直ぐに言葉に詰まった。
彼が袋から取り出して見せてきたのは、女性用の下着だったのだ。所謂「パンティー」と呼ばれるもの。
しかも『プレゼントだ』と言いながら包装もされていない、裸のままのソレを恥ずかしげもなく私の眼前に晒してきた。
「君にはこれが似合うと思って買って来たんだが……ああ、やっぱり。ベリッシモ(すごく)、良い感じだ」
「!?」
更には。事もあろうにこの男は、その下着の腰部分に自らの両親指を差し入れた。そうして軽く左右に引っ張り、ピンと張った下着を、私の腰部分に重ね合わせるようにしやがった。
実際に当てがわれた訳ではない。遠近法を使っての試着もどきではあったが、彼の舌舐めずりを見た途端に私の羞恥やら怒りやらが大爆発して、気付けば彼の腹を突き飛ばしていた。
鈍い声と共に見事なまでの尻餅をついた彼が窓の桟に頭を打ち付けたのを見て、少しばかりの罪悪感が湧きはした。
しかしその程度で気が済むほど私はお人好しでも無いし、愛想だって良くはない。何より、さっきから諸々を諦める事が出来ない程にパニック状態なのだから他人なんかを気遣える訳が無い。
「そ……そんなのッ、要りません! 帰って下さいッ!」
ハッキリとそう言い放ったクセに、次の瞬間には私の方が家を飛び出していた。
何も考えないまま駆け出したクセに階段を降りるよりも早く我に返って。迷いに迷ってから情けなくトボトボと帰って来た私を出迎えてくれた変態は、ぶつけた頭を摩りながら申し訳無さそうに言った。
「悪かった、まさか君が下着を付けない主義だなんて知らなかったんだ。どうか許して――ぶっ!」
思わず動かしてしまった手から、初めてにして我が人生で最高であろうビンタが繰り出されたのだが、悪びれた様子も無く「良いビンタだ!」などと私の健康状態を褒めて来た奇人を見て『運が悪かったと思って全てを諦めよう』と改めて強く決心した。今後、彼がどんなブッ飛んだ行動をしようともこんな痴態は二度と晒すまい、と。
人の目を気にせず
2019.12.24 (サイト移転に伴い、手直し:2022.05.26)
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