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おぉ。今日は空が高いワ。元気しとるかのう、待宮ミヤ

毎年この季節がくると思う。
あの夏の、苦しさや悔しさや悲しさの、その輝きを。

あの頃から遥か遠く、こんな寂れた工場の裏で缶コーヒーを片手にしゃがみ込んでいる。
低い位置から見上げた空には、もうあの頃のような親しみは無くなってしまった。

「おう!コルァ、井尾谷ぃ!」
「あっ、今行きます!」

慌てて立ち上がって空き缶を、溢れかえっているゴミ箱に無理やり詰め込んだ。

叔父の伝手で入社し2年程経つ。
いずれ本社に呼ばれることになっているが、とりあえず今は現場での経験値を積むということらしい。
元々機械科で機械いじりは嫌いではないし、仕事自体は特段苦ではないが。

「ええ加減にせぇや!ワレェ!」
「…すいません」

青筋を浮かべた主任に思いっきり発注書を投げつけられ、顔に当たる。
その後ろで数人の若い工員が下卑た笑みを浮かべてこちらを見ているのが目に入った。

「期限付きじゃあいうて、手ぇ抜いた仕事してみぃ。お前の将来潰しちゃるけぇのう」
「はい!申し訳ありませんでした!」

勢いよく頭を下げれば、チッと舌打ちして、テメェのケツはテメェでふけや、ボケェ!、という暴言と共に大股で去っていく主任の後ろ姿と、蜘蛛の子を散らすようにいなくなる工員を見る。
投げつけられて床に落ちた書類を拾い上げ、目を通して溜息を吐いた。

ーまたじゃ。

微妙に数字をいじられている。

どんな年齢でもどんな世界でも、妬み嫉みがあれば、いびりもある。
どうもそういうものを引き寄せてしまうらしい。

自転車をやってよかったことは、一度デカい敗北を経験したことで大抵の屈辱に動じなくなったこと。
反面、こういう仕打ちに対して反論しようとか、何かを正そうとかそういうことも馬鹿馬鹿しく感じてしまうようになった。

ーワシが頭下げときゃあエエ話じゃ。そのうち、あいつらともおさらばなんじゃ。わざわざ事荒立てる必要はないじゃろ。

でもほんの少し、たまに、ふっと心臓を掴んで引きずり下ろされるような感覚が過ぎることがある。
油断すると"オワっとる"あの頃に戻ってしまうような。
そういう時、そうか、ラインギリギリこっち側にいるだけなんだと、自覚する。
騙し騙し何とかこちら側に立ってるだけだと。

誰も居なくなった事務室で、ふーっと長い息を吐いた。
工員は大量の仕事を置いて飲みに行った。
明日は休みだ。
どうせやることもない。
明日来て終わらせよう。

「帰るか」

            ◇

苦労して手に入れた自転車。
これだけは、まだ側にいてくれている。
手にしっくりと馴染むバーを握って、サドルに跨った。

ーしかしまぁ毎日毎日、ペコペコペコペコ、よけ頭下げられるワ、ワシも。
 こがあなトコ見たら笑うかのう、待宮ミヤ

緩やかにペダルを回しながらかつての相棒の顔を思い出す。
本当はわかっている。
多分あいつはそんな姿を見ても笑わないことを。
自分のそんな姿を認められないのは、笑っているのは、自分自身だ。

「もうちょい、頭下げ甲斐のある内容ならエエんじゃけどのう」

思わずでた独り言を飲み込むように、むっとする呉の夏の匂いを吸い込む。

グッと踏み込めば自転車はあっという間に進む。
駅前のコンビニの角を曲がれば家まですぐだ。
とにかく早く帰ってシャワーを浴びて寝たい。
それなのに、だ。

「す、すいません…!」
「すいませんで済むんじゃったら警察はいらんで、姉ちゃん!」

見慣れたコンビニから、明らかにいつもと違う喧騒が聞こえてきた。
大体こういう時に限って、トラブルは舞い込んでくる。
こんな時間にこんな場所にふさわしくない女が、不良に絡まれているのを見てしまうなんていう、ロクでもないトラブル。

ーくそ…。はよ帰りたいんじゃワシは。

イライラしながら舌打ちをして自転車を止めた。

「では、私はどうすれば…」
「おぉ素直やんけ。ワシらとちィと遊んでくれりゃ、それでエエんじゃ。それでチャラにしちゃるけ」
「や…やめてくださ、」

「おう兄ちゃん、すまんのう。ワシのツレが」

大きな声で割って入って注意を引くと、華奢な肩に置かれていた手を引き剥がした。
突然の出来事に反応しきれなかったのか一瞬間が空いて、その瞬間女を引き寄せる。

「…あぁ?!なんじゃワレェ!」

獲物を取られやっと我に返ったのか、目を剥いて数人の不良が睨みつけてくる。

あぁこの感じ、懐かしい。
ざわざわする気持ちを抑えて、店側に向けた背の後ろに女を隠し後ろ手で押しやる。
察した女が店に駆け込んでいくのを音で確かめて、改めて目の前の高校生の馬鹿どもに向き合った。

「見逃してや、悪いことは言わんけ、な?」

暴れ出したくてうずうずする拳を抑えて、なんとか猫撫で声を出してみる。

「おっさんには関係ないじゃろが、あぁ?!」

ーおぉおぉ、元気エエのう。ちゅうかおっさんて。あんま変わらんでお前らと歳。

リーダー格が息巻いて胸ぐらを掴んできたが、力もそう強くなければ、圧も軽い。
仲間にカッコ悪い姿を見せたくない気持ちは少し分かる気もしたが、喧嘩を売った相手が悪い。

ー悪りィのう。

胸ぐらを掴んでいる手首を掴んで、ギリギリと力を込めて捻り上げた。
驚いて目を見開いている顔に近づいて圧を上げていく。

「…オイコラ、わりゃぁ、大人しゅうしとったら…。調子こいとるんならしばき回しちゃろか、あぁ?」

極限まで上げた圧を乗せた低い声で言って、額をくっつけた。
相手の冷や汗をじんわりと感じる。

「…なーんて、嘘じゃあ」

パッと離れて突き放すと、ドサリとその場に尻餅をついた。
青い顔をしたまだ幼さの残る高校生の顔が見上げてくる。
にっこりと笑ってその視線を受け止めた。

「高校生相手にそがあな大人げないことせんワ。そがあなことより、お前らエエんか。そろそろ警察来よるぞ」

指を指した先、近づいてくる赤いパトランプの灯が見て、ハッとした不良たちはバタバタと走っていった。
その後ろ姿を見送って溜息を吐く。
あぁラインを越えずに踏みとどまった、という安堵の息を。

すぐに駆けつけてきた警官に事情を説明し、店内から心配そうにこちらを伺っている女を自宅まで送り届けてもらうよう頼む。

自転車に跨って、やっと家に帰れるとペダルに足をかけて漕ぎ出した。
とにかく早く帰って、眠りたい。疲れた。
ぼんやりする頭を振って、スピードを上げようと足に力を込める。

「あ、あの!ありがとうございました!本当に…!」

背後から聞こえた大声に驚いて、思わず足をついた。
少し離れたところで深々と下げた頭を上げた女の顔を、ふわっとした気持ちで見つめる。

ー感謝されたことなんて、ほんの数えるくらいしかないワシが。そうか、今この人ンこと助けたんじゃ。

腐りかけていた気持ちが少しだけ軽くなる。

「…気ィつけて」

自分も小さく頭を下げて、再び自転車に跨り走り出す。
見送ってくれているであろう彼女の視線をくすぐったく感じながら。

fin