No.1



生きていくということは、どんな時だって簡単じゃない。

選択肢は無数に、ただ漫然とあって、その中には正解もなければ、不正解すらない。

何を選んだとしても後悔するし、どういう結果を得たとしても過去にした選択を疑う。

少なくとも、私の場合は。

結局、選んだように見えて、私たちは大きな流れの中で、ただ流されて漂っているだけなのかもしれない。





久しぶりに帰った田舎は、恐ろしい程に何も変わっていなくて、私を遠い所から来た人間かのように思わせた。

「何日くらいいるの?」

母が取り込んだ洗濯物を手早く畳みながら話しかけてくる。

テーブルには夕食の鍋の用意。
きちんと揃えて、箸置きに置かれた箸。
揃いの白磁の器。
灰汁をとるためのお玉と銀のボウル。

私は立ち尽くして、母の背中をじっと見た。

昔、子供の頃。
母に怒られる時、こんな感じだった。

『あなたってどうしてそうなの?』

私がした悪いことに、母は特に声を荒げもせずそう言った。
目も合わせずに。

その質問は私にとってとても不愉快で、じっとりと泥のついた手で背を撫でられるような、そんな不快なものだった。

あれは、わざと答えられないような質問を投げかけて、自分の行いを自覚させようとする遠回しな、母親というより女としての薄暗さ、みたいなものに対しての不快感だったのだと、今にして思う。

そしてその血は私にも流れているのだ。
ひっそりと、けれど確実に、影のように。

「ねぇ聞いてる?」

母が振り向いて言う。
訝しげな、私の質問に答えて当然でしょう、と言いたげな顔で。

「今日までかな。
明日、学会最終日だし、直ぐに帰る予定だから」

本当は今すぐにここから逃げ出してしまいたい。
逃げ出して、暗くて暖かいあの場所に帰りたい。

彼の水分のない、かさかさに乾いた手が、私の背を撫でる感触をできるだけリアルに思い出そうとする。

「あら、もう少しゆっくりしていったらいいのに」

母はつまらなそうにそう言って、お父さん帰ったらご飯にするから、と言いながら、畳んだタオルを持って立ち上がった。

私はその姿を横目で追う。
この一連の流れが纏まれば、後はもうなにも言われることは無い。





ソファに座ってスマホのホームボタンを押すと、教授からメールが入っていた。

"すまないが、明日の夜私は行けなくなったとゼミ生に伝えてくれ"

やっぱりね。

カモフラージュの為の素っ気ない文面をサラッと読んで、私は胸の内で呟く。

彼女が学会会場の受付に現れた時から、こうなることは分かっていた。

『夫を呼んで頂ける?』
『教授は今から発表なので、今というのは少し無理が…』
『あ、そう。
じゃあ、私、ラウンジでお茶してるから、終わったら声掛けてくださる?』
『発表の後は、シンポジストとして登壇予定ですので時間がかかりますよ。4時間ほど』
『…じゃあいいわ。私が来たことだけ伝えてちょうだい』

彼女の顔が歪んだのを見て高揚感を覚えた。
この時点で、まずい、と予感はしたのだ。
しかも、私が彼女が来たことを教授に伝えたのは、あれから6時間程経ってからだった。
勿論、それは意図的に。

案の定、手痛いしっぺ返しをくらったわけだ。


『あいつまた急に…。
ごめんね、相手させてしまって。
明日の君との約束はちゃんと守るよ。
あいつは帰らせるから』

そう言って、人気がない廊下の隅で、首筋に落とされた唇の熱を思い出す。

彼女はきっと、彼を完璧に管理し手に入れていると思っているのだろう。
けれど少しも、穏やかではいられない筈だ。

そう思うと滑稽で、私は口の端をあげて笑う。
それから手の甲で口を抑えた。

こういう時、私は自分の中の母を感じる。

薄暗く、意地悪で、陰険な、その血を。