No.17
どうして断れなかったんだろう。
こちこちと、動く時計の針を見ながら自問自答をする。
そろそろ、烏養くんが訪れる頃だ。
やっぱり、“あれ”のせいじゃない?貴方、そんなに強くないのよ。いい加減認めたら?
暗闇の私が、ふんと鼻を鳴らして、馬鹿にしたように言った。
“あれ”。
彼女の言うそれは、今日の昼間に起きたことだ。
・
登録だけして一度も鳴ったことのない教授の携帯番号から、突然電話がかかってきた。
急いで電話に出ながら、余程の何かがあったのではないかと心臓が破裂しそうに痛む。
「はい、どうされました?」
『…貴方、今1人なの?』
その声を聞いて、先程まで耳元で打ち鳴らされていた鼓動が、急速に音を失っていった。
頭から爪先まで、一気に血が引いて身体が強張る。
「奥様。…ご無沙汰しております」
喉がカラカラに乾いて、舌が張り付く。
やっとの思いで紡ぎ出した言葉に、彼女は、はぁとため息で返した。
『電話に出なかったら、きっと一緒にいると思ったのだけれど。ハズレたみたい』
そう言いながら、電話の向こう側で苛立たしげに舌打ちをする音が聞こえた。
一体どういう訳で、“電話に出なかったら一緒にいる”ことになるのか、さっぱり分からない。
彼女はそのような、妄想にも似た恐ろしい確信を持って、人を責めるところがある。
『貴方、今どこにいるの?』
「…地元に。叔母の家です」
一瞬、貴方に関係ないでしょう、と喉元まで出かかった言葉を、なんとか飲み込んだ。
ここで揉めては、教授に迷惑がかかってしまう。
『ふぅん…。まぁいいわ…』
彼女はそう言って、それから、そうだわ、とさも良いことを思いついたかのようにして、
『ねぇ、あの人、間抜けにもこうして携帯を置いていった訳だけれど、どこかに出かけたみたいなの』
と楽しそうに言った。
そして続ける。
『ねぇ、どこに行ったのかしらね?大学に行くなんて、嘘まで吐いて。
貴方、心当たりない?』
と、美味しいレストランを尋ねるような軽やかさで、しかし、ひしひしと確かに怒りを込めて。
その後何か他愛のない話をしたような気がするが、どう電話を切ったのか覚えていない。
すでに彼女が私に刺した毒のような言葉が、全身に回り始めていた。
何かしなければ。
私は立ち上がって、ふらふらと家の中を歩き回った。
とにかく何か作業をしなければ、おかしくなってしまいそうだった。
そして、台風が近いことを思い出し、財布を掴んで外に出たのだ。
まさかその先で、烏養くんに再び会うことになるとは思いもせずに。
・
「とりあえず、飯」
烏養くんは、沢山の温かい料理と共に現れた。
ちょっと台所借りる、と言って戻ってきた2つのお椀には、お味噌汁が湯気をたてている。
そのお椀はかつて、叔母と叔父が使っていたものだ。
海苔が巻かれたおにぎり、卵焼き、大根の煮しめ、カレイの煮付け、唐揚げ、蒲鉾の焼いたもの、白菜のお漬物。
2人ぶんの色とりどりのおかずが食卓に並ぶ。
「食欲ないの」
「俺は腹へったから、食う。いただきます」
きちんと手を合わせてから、烏養くんは食事を始めた。
おにぎりが、お味噌汁が、煮付けが、蒲鉾が、次々に烏養くんの身体の中に入っていく。
そうだ、烏養くんはこんなふうだった、と私は、一緒に食事をした時のことを思い出して懐かしくなる。
もうとても遠い昔のことのように感じる。
「…いただきます」
黙々と食事を進める烏養くんを見ていると、自分も何か食べなければならないような気がして、仕方なく箸を取った。
しかし食べ始めると意外にも入っていくもので、次から次に食べ物は私の胃に収まっていった。
厚手の卵焼きを口に運びながら、烏養くんが来る直前まで考えていたことを再び考え始める。
どうして烏養くんを断れなかったんだろう。
『いらっしゃい』
その烏養くんの声を聞いて顔を見てしまった時、駆け寄っていって、その首に腕を巻き付けて、会いたかったと、耳元で言う自分が想像できてしまって、そして、そうしたい衝動を必死で抑えた。
教授ではなく、烏養くんに対して感じる衝動。
私はどうにかその場を離れようとした。
お味噌汁をごくりごくりと飲む。
腕を掴まれた時、自分の身体が冷え切っていることに初めて気がついた。
眉尻を下げて、困ったような、いつもの優しい顔で烏養くんが笑って、ずっと強張っていた身体が軽くなってしまった。
そうしたら、当たり前のように烏養くんを受け入れてしまっていたのだ。
はりはりとお漬物を噛み砕く。
私の全身が、神経が、魂が、今やもう形を失って、ばらばらに分裂してしまったのではないかと錯覚する。
そうでなければ、こんなことおかしい。
私は今も教授の影だろうか。
少なくとも、教授の影は今ここに感じられない。
いや、本当は、最初から、私たちは互いに互いの影なんかではなかったのではないか。
それはただの錯覚で、お互い分かったような振りをしていただけのただの、口裏合わせだったのではないか。
かつて高校時代の彼が言っていた「美貴の目を見ているとくらくらする」と言ったあの感覚のように、それは耽美な錯覚だったのかもしれない。
本当は気がついていたでしょぉ?
暗がりの私が、くすくすと笑う。
「ご馳走様でした」
烏養くんが箸を置いて手を合わせる。
私も倣って、手を合わせた。
美味しかった、と呟くと、烏養くんは、そっか、とだけ言って笑って、私は気がついたら烏養くんに抱きついて泣いていた。
続