No.19



叔母の家は正式に私の物になった。

両親と親族にとっては寝耳に水の話だったようだが、叔母夫婦の家は極々私的な財産であったので、誰にも口だしをする権利はないものだったし、陰口を言いはしても阻止しようとするような人はいなかった。

叔母の旅についても私から説明をし、(賛同は得られないものの)叔母の決断を皆受け入れたようだ。

叔母は今ドバイにいるらしく、現地に恋人ができたらしい。
眩しい日差しの中で、恋人と肩を寄せ合う写真を送ってきた。

両親に叔母に譲ってもらった家に住みながら、カウンセリングルームをしようと思っていることを伝えたら、父は何も言わず呆れたように首を振り、母は、無理よ、とか、若くないんだから結婚を、とか、博打みたいなことは辞めて地に足をつけて、とか色々と小言を言っていたが、全て無視することにした。

母に、本当幸江さんにそっくりになってくわね、と憎々しげに言われたが、それは私にとっての賛辞であることに、彼女は気がつかない。






「それでは皆さん、グラスは手元に行き渡りましたでしょうか」

幹事の男子学生が、勿体ぶって周囲を見渡して確認した。

「えー、では、塚本先生、お世話になりました。
親身に相談に乗ってくださったり、丁寧な論文指導、本当に有難うございました」

男子学生が目で合図をすると、いつの間にか花束を持って待機していたゼミの女子学生が近寄ってきた。

「有難うございました」
「こちらこそ、有難う」

花束を受け取りながら、私は言う。
この慣例行事とももう関わることはなくなる、と思いながら。

「では、先生の今後の益々のご活躍をお祈りして、乾杯!」

乾杯!と、口々に学生たちが言い、グラスを持ち上げた。
私は、ありがとう、と言って微笑んでみせる。








今年度いっぱいで退職します、と教授に告げたのはもう秋も半ばで、辞めるにはぎりぎりのタイミングだった。


『辞めてどうするんだい?』

教授は静かにそう言うと、じっと静かに私の目を見た。
かつてそうして、言葉を交わさずに会話をしていた頃のように。

私は、さぁ、と惚けた後に、

『とりあえず地元に戻って、何かできることをしようかと』

と言葉を繋いだ。

『…そうか。またいつでも戻っておいで』

教授が柔らかく微笑んで執筆中の論文に視線を戻す様子を見て、不意に涙が込み上げてきそうになるが、口から漏れたのは笑い声だった。

『どうしたんだい?』
『いえ…ただ私、ここには戻りません。もう二度と』

叔母が旅に出ると宣言した時の、決然とした様子を思い出しながら、そう聞こえるといいなと思って私は言う。

『それでは、今まで有難うございました』

礼をして踵を返す。
見慣れた教授室のドアを開けるまで彼は何も言葉を発さず、扉が閉まる直前、寂しくなるよ、と呟くように言った。








「先生は、ここで大学教員になるんだと思ってました」

目の前に座った女子学生が、酒を飲みながら言った。

「そうね。何があるか分からないわね、人生」

本当に、何があるか分からないものだ、と自分の言った言葉に頷く。

1年ほど前学生たちとこうして酒を飲んだことを思い出す。
その次の飲み会が今日で、それが自分の送別会になろうとは。

思えばもう、あの頃からゆっくりと崩れ始めていたのだろう。


「そういえば、教授来れませんでしたね」
「急に予定が入ったらしいよ」
「また夫人じゃないの?」

くすくすと学生たちが、口さがなく噂し合っている。

「教授はお忙しいから」

私はさらりと躱して立ち上がって、

「じゃあ、そろそろ帰るわね。
皆、今日は本当にどうも有難う。頑張ってね」

と全体に声を掛けた。

学生たちが口々に、別れを惜しんでいるように聞こえる声を上げるが、私にはもうすでに関係のないことのように思える。




帰り際に、ポストに寄った。
紙袋の中には白衣と手紙が入っている。
白衣は大学に寄付するつもりだ。
宛先は教授になっている。
これがきっと、彼へ宛てた最後の手紙になるだろう。