4話
「困った。困りました、千笑サン」
「…何ですか」
出た。
千笑は嫌な予感を感じながら、一切喜助を見ずにパソコンを睨みつけたまま返事をする。
こういう唐突なヘルプを喜助が出してくる時は、ろくなことがないことを千笑は経験上知っている。
「新作の舞台、海の見える街じゃないですか」
「えぇ、そうですね」
「イメージがうまく湧かないんスよ」
「ご冗談を。先生のイマジネーション能力がそんなに低い筈ないじゃないですか。
その能力だけ突出してるから、売れっ子小説家におなりになったんでしょうに」
「褒めてるのか、貶してるのか、どっちっスか?」
喜助は今、新作の執筆に取り掛かっている。
海の見える街で冴えない男と、ふらりと現れた女が恋に落ちる話だそうだ。
恋愛をテーマにした小説をあまり書かない喜助には珍しい題材で、これは売れるんじゃないかと期待がかかっている。
千笑はため息を吐いて、諦めて喜助を見た。
「…で?どうしたら良いんですか?」
「海の見える街に行きまショ!
その街の1日を見たいので、一泊で。
勿論、千笑サンも一緒に」
ここなんてどうです?、と差し出されたスマホの画面には、小さな港町に佇む、品の良さそうな離れの宿の写真が載っている。
場所は県を跨ぎはするが、交通機関を使って4時間程。
一泊か…。
締切の時間を考えても、そこからノって書いてくれるなら行けないこともない。
千笑は唸る。
ここで喜助を甘やかして良いものか、迷ってしまう。
「ホラ、お誕生日、温泉行きたいって言ってたじゃないっスか」
微笑んで言う喜助の一言に、千笑はうっと言葉を詰まらせる。
そうなのだ。
結局温泉には行けておらず、あれからひと月も経ってしまった。
「ご飯美味しいですよォ、きっと。
あ、そうそう。確かこの地方って、酒蔵が多くて、お酒もお美味しい所だったんと思うんスけどねぇ」
プレゼントなんでアタシの奢りっスよォ、とか、こんなうまい話中々ないっスよォ、とか、もう一押しと言わんばかりに、喜助が誘惑するようなことを言っている。
「…わかりました。その代わり、帰ってきたらちゃんと書いてくださいよ、原稿」
「いいんスか?!」
結局根負けして許可を出してしまうあたり、私も甘いよなぁ、と思いつつ、やったー!とはしゃぐ喜助を見て、千笑は苦笑する。
「予約、私の方でしておきますよ」
「言ったでしょう?プレゼントも兼ねてるって。アタシにさせてください」
「でも…」
尚も言い募る千笑に、喜助はへらっといつもの笑みを浮かべた。
「予約がてら色々調べたりするのも、ネタになるんスよ。
これも仕事のうちなんで、任せてください」
こう尤もなことを言われると返す言葉もない。
「そうですか…じゃあ…ありがとうございます」
「いいんスよォ。アタシがしたくてしてることなんスから」
いやァそれにしても楽しみっスねぇ、と喜助は嬉しそうにして携帯を見つめる。
可愛い人だよなぁ。
歳上の男性に失礼な考えだろうけど。
些細なことで、喜んだり、落ち込んだり、慌てたり。
素直に表情を変える喜助を見て、千笑は思う。
私がこんな風に素直だったら、彼と別れてなかったかも。
別れたとしても、次の恋を始められてるのかもしれない。
千笑はついそんな事を考えてしまう。
『お前も、難儀なやっちゃなぁ』
千笑は不意に、呆れたようにそう言った平子の言葉を思い出していた。
残業後にそのまま飲みに行った時のことだ。
『そういや、お前らくっついたんか?』
平子から唐突に問われた、その言葉の意図が全く汲めず千笑は眉を寄せた。
『何の話ですか?
自分の惚気話したいだけの振りなら、ぶっ飛ばしますよ』
『ちゃうわ、アホ。
俺かて絶賛アタック中や、ボケェ…って、いや、俺の話はええねん。
お前と喜助や』
平子がビールジョッキをぐっと煽って、ニヤニヤしながら千笑を見る。
『この前のパーティーの時、なんやええ雰囲気やったやろ?
あの、ほら、テラスで』
そう言われて、あぁとあの日のことを思い出した千笑は、冷めた笑みを浮かべた。
『いつもと違うって凄いですよね。
私もそうでしょうけど、先生も多分ちょっと、非日常に浮かれてたんだと思います。
それに、先生は女性経験も豊富でしょうし、あぁいうことは、普通にされるんじゃないですか?
私が特別とかではなくて』
違う。
千笑は自分に言い聞かせるように、次々に言葉を繋いだ。
喜助が自分に好意など抱くはずがないと、言い聞かせるように。
それを認めてしまったら、もう、今までのようにはいかないと思うから。
『ふぅん…』
何か考えるようにそう言った後、呆れたように笑ってその言葉を言ったのだ。
難儀ねぇ…。
千笑はぼんやりと思う。
恋愛なんていう不確かなものに振り回されるのと、最初からそこに飛び込まずに安全圏にいるのと、どっちが難儀なことなんだろうか、と。
続