メトロに乗って(1/3)



6年。
これが、あたしが彼に費やした年月。


「ほんと…言いにくいんだけど…別れて」
「へ?」

寝耳に水、青天の霹靂、藪から棒、足下から鳥がたつ。

彼曰く、あたしには何の落ち度もないらしい。
そりゃそうだ。
この6年間一度だって、そんな気配はなかったし、なんなら5分前まで仲睦まじくテレビなんか見ちゃったりしてたのだ。

彼に不満はなかったし、彼からの不満も聞いたことがなかった。

じゃあ理由はなんなのか。


「ときめかなくなった、だって!!!どう思います、先生!」
「そりゃ、災難でしたね」

6年ですよ!6年!

名前はズイっと喜助の顔に自分の顔を近づける。

「ちかっ…近いっス」
ハハハと力無く笑いながら、喜助はまぁまぁと名前を宥めた。

「くっそぉ、ムカつきすぎて、涙もでねぇ」
「荒れてますねぇ」

ときめき待ちじゃなくて、ときめかせてみろよぉぉぉ!!
吠える名前を横目に、喜助は机の上の原稿をトントンと揃える。

「原稿あがってますよ、苗字サン」
「まじですか、先生…!」
「まじっス」

ほら、と喜助の手から渡される原稿を受け取った名前は、すかさずパラパラと中身を確認する。

あ、よかった、中身あるわ。

かつて、10ページだけ書いてあって、残りが白紙だったことがあるのだ。

「…確認致しました。今月もお疲れさまでした、先生。
やればできるじゃないですかぁ…!素晴らしいです、期日前入稿!」

名前は中身を全て確認しイカサマがないことを見届けた上で、完璧な原稿に感動の表情を浮かべた。

「いえいえ。苗字サンのサポートのおかげっスよぉ」
「今まで幾多の担当を煙に巻いてきた、浦原大先生ですからね。
あたしは手を抜きませんよ」

ハハハ、怖い怖い。
喜助が緩く笑うと、名前も力無く笑った。

でも、よかったぁ。こんな日まで先生に振り回されるのは辛かった。
やっぱ昨日のうちに電話して、催促しといてよかった。
まさか本当に原稿あがってるとは思わなかったけど…。
名前は心の中で、ホッと息を吐く。

大失恋した後すぐ名前の頭に浮かんだのは、今週締切の原稿のこと。
傷心の中、泣きながら喜助の原稿を待つなど絶対にごめんだと思い、昨夜のうちに喜助に電話して原稿を急かしておいたのだ。
これも全て経験の賜物。

名前が喜助の担当となって3年。
引き継ぎをしてくれた先輩は
「担当のメンタル破壊する達人だから」
という台詞だけ残して、颯爽と出世していった。

実際担当になってみれば、蒸発するわ、担当をからかってわざと原稿遅らせるわ、連絡がとれなくなるわ、入稿後に「やっぱ書き直したいっス」なんてわがままを言い出すわ…それはそれは振り回してきてくれた。

その度に名前は駆けずり回って喜助を探し、喜助の作業部屋前で寝ずの見張りをしたり、休日返上で喜助を監視した。
心が折れそうになりながらも、3年間喜助の担当は続けられたのは、喜助の仕事に
名前が心底惚れていたからに他ならない。

その様子を見て、いつか喜助が
「いやぁ!見上げた忠誠心っスよね!よほどアタシに惚れたとみえる」
と言ったことがあるが、
ちっげーよ、あんたに惚れんてんじゃねぇ!あんたの仕事に惚れてんだ!
とグーパンしたことは、もう随分前。

実は彼に振られたのも、この仕事が原因なのではないかと名前は思うのだった。
喜助の担当になってから、彼との時間は激減し、色々なことに気を回せなくなったのは事実。
寂しい思いをさせてしまったのかもしれない。

あ、やば…今になって泣けてきそう。
名前は原稿を鞄にしまいながら、彼のことを少し思い出した。


「さて、それじゃ苗字サン、出かけましょうか」
「え?どこに?」
「どこって、決まってるじゃないですか、デートっスよぉ。で・ぇ・と」

名前は若干の苛つきを滲ませながら、目の前に立つ喜助を見上げる。
「あのねぇ、先生…あたし暇じゃないんですよ。」

名前がイライラと眉を上げると、目の前に携帯の画面。
やりとりは、平子デスクとのもの。

『今日1日、苗字さん借ります』
『また原稿手つけてへんのか』
『まぁ』
『納期厳守。苗字は好きに使え』
『はーい♪』
『ええ年こいて、♪なんか使うなや。きしょいわ』

携帯画面から視線を上げると、喜助のヘラヘラ顔。
「ね?」
「ね?じゃねぇよ」
「苗字サン怖いっス!」

イライラを増長させていく名前に、喜助が怯えたフリをする。
あくまでフリで、そのふざけた感じが、また名前のイライラを誘う。
平子デスクに見放されたことも、また更にイライラを増長させた。

「いやね、苗字サンが落ち込んでるんじゃないかと思いまして」
「それで、フラれたばっかの女とデートしようと?」

平日の昼間から?

絶対馬鹿にしてる、からかってるんだ。

そんな思いから重ねて聞くと、喜助は困った顔で無精髭の映えた頬を引っ掻いた。

「お世話になってる苗字サンに、何か少しでもと…」
「…ホントですか…?」

喜助があまりにしょげた顔をするものだから、名前はなぜか自分が悪いことをしたかのような気持ちになる。

でも、いいっス。やっぱりこんなオジサンといやっスよね…。
苗字サンがそんなに嫌がるなら、諦めます…。

あからさまに、落ち込んで見せる喜助を見て、罪悪感がむくむくと首をもたげる。
擬態語をつけるなら、“しょんぼり”。
目の前でいい年した男の人が、“しょんぼり”している。
肩を落として、視線を斜め下にして。


「…お言葉に、甘えさせて頂きます…」
「え、ほんとっスか?やったぁ」

名前は、語尾に♪がつきそうな弾んだ“やった”に、我が担当先生様ながら不覚にも、かわいいと思ってしまう自分が、心底甘いと思う。

まぁ、たまにはいいか。昼間から、サボりなんて楽しいし。


「じゃあ、先生から誘ったんですから、今日は全て先生にお任せということでよろしいですか?」
「えぇ、もちろん。お任せくださいな」






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