メトロに乗って(2/3)



名前の隣を歩く喜助は、シンプルな襟つきの白シャツに、細身の黒パンツ、品の良い革靴という姿。
自宅兼作業場では、いつもよれよれの甚兵衛姿しか見たことがなかったし、近くに飲みに行くことは今までもあったが、その時もその甚兵衛だった。
サイン会や会社での打ち合わせの時でさえ、その甚兵衛だったのだ。
甚兵衛以外の服を持っていないのだと思っていた。

だから明るい陽の下でまともな格好の喜助を見ると、名前は改めて思うのだった。

いや、やっぱり、この人格好いいんだわ。

猫背気味で、膨張するような甚兵衛姿では分かりにくかったが、スラリと高い背に長い脚、長い腕、小さい顔。
薄茶色の髪は無造作に跳ねてはいるが、それが逆に色っぽかったり。
いつもは、だらしなく見える無精髭でさえも、なんだが渋く見えてしまう。

すれ違うOLのお姉さま方が、通りすがりにチラチラと喜助を振り返っていく。

「名前サン」
「は、はい!…ていうか、名前…」

周囲の視線に圧倒されているところに、突然の慣れない声で呼ばれた名前に、名前は目を見開いた。

「だってデートなんスから、名前で呼ぶでしょ。
名前サンも、今から“先生”は禁止っスよ。」

喜助って呼んでくださいね。
喜助はそう言って、名前の顔を覗き込んでにっこり笑う。

目のやり場に困る。
格好良すぎて。
ま、眩しい。
こんな、ドキドキする感じ、いつぶりだろう。
あの先生に私が。

「喜助…さん…」

名前は視線を逸らして、呼び慣れない名前を呼んでみる。

「そうそう、それそれ」
「せん…喜助さん、だらしない顔になってますよ」
「えー、そうっスか?」

ニヤニヤしながら頷く喜助に、いつもの面影を見て名前は少しホッとする。
指で顎髭をなぞりながら、少し顔を引き締めてみる喜助は、やっぱり名前がいつも知っている巫山戯た作家先生だ。

「さてと、じゃあ、電車にのりましょうかぁ」

喜助は地下鉄に続く階段をゆっくりと下っていく。

「普段電車なんて、あまり乗らないでしょう?」
「いやいや、もっぱら電車移動っスよ。
休みの日なんかは、よくフラッと電車で出掛けたりするんで」
「そうなんですね…。知りませんでした」

そういえば、先生のプライベートって、あたし全然知らない。

喜助と肩を並べて歩きながら、名前はそんなことを思う。
仕事をしていても遊んでいるような人だから、物を書いていない喜助が想像できないのだ。
ふたり分の切符を買って手渡してくれる喜助に、電車よく使うのにICカードは持たないんだ、とか名前にとっては1つ1つが新鮮だった。

平日の昼間で、地下鉄はガラガラ。
電車に乗り込んで、名前はぼーっと車窓を流れていく光の羅列を眺める。

こんなふうにぼーっとしたのって、久しぶりかも。
そんなことを思う。

「いいもんでしょ、何も考えず電車に揺られるのって」
「確かに」

名前は喜助のことばに頷いて、電車の揺れに身を任せるようにして目を瞑った。
定期的に伝わる振動が心地良い。

「名前サン、お腹空きません?」
「空きましたぁ。そういえば昨日から食べてないんですよ」
「あら、それはいけない」

まずはお昼ご飯っスね。次の駅で降りますよと、喜助が隣から声をかけてくれる。
電車の振動と喜助の柔らかい声が心地良い。




名前が地下鉄の階段を駆け上がる。

「名前サン、コケますよ」
「そんなに、鈍くさくないですー」

そう言ってまるで少女のような笑顔で振り向いた名前に、喜助は目を細めた。

「なんだかんだよく通過するけど、この駅に立ち寄ったの初めてです」
「そうっスか。散策すると面白いっスよ。アタシはよく来ます」

少し歩くと、古書店が固まる地区があって、坂を少し登るとホテルがあるんスよ。
そこの喫茶店の珈琲が美味しくて…。
それにこの辺は寺もちょこちょこ散在してるから、散歩にはうってつけっスよ。

喜助は本当にこの辺りのことに詳しいらしく、楽しそうに説明してくれる。

「お昼はここにしましょ」

喜助にそう言われて立ち止まったのは、立ち食い寿司の前。
先に立って喜助は店に入っていく。
デートでお昼が立ち食い寿司って…、と思わなくもないが、喜助らしいといえばそうかも、と名前は1人納得する。

店内はサラリーマンや、何をしている人なのか分からないおじさんや、お姉さんがちらほらいて、皆思い思いに会話をしたり、1人で寿司を頬張っている。

適当に大将に握りを頼んで、待つ間に瓶ビールで乾杯。

これはこれで、悪くないかも。

今までデートといえば、洒落たカフェやレストラン、ドライブと色々行った名前だが、こういうのは初めてだった。


「…めっちゃ美味しいんですけど」

カウンターに出された寿司を頬張って、名前は目を丸くする。

「でしょう?」

喜助は得意げに笑う。

「立ち食い寿司なんスけど、ここのネタは良いものが多くって」

おすすめなんスよ、そう言って、喜助はビールを飲み干した。
瓶ビールの表面が汗をかいている。
喜助の首筋を色っぽいなと思わず眺めて、慌ててその思考を断ち切った。

窓の外を眺めて名前は1人越に浸る。
街は人通り少なく、世界は通常の平日を運行していることを示している。
そんな平日の昼間から、寿司にビール。

「幸せ…っスか?」
「え?」
「そんな顔、してたもんスから」
「…変な顔してました?」
「いえいえ」

可愛い顔っスよぉ。
ヘラと笑って、喜助はみるみる赤く染まっていく名前の顔を眺める。
名前は慌てて、グラスに残ったビールを飲み干した。






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