メトロに乗って(3/3)
「ここが…」
2人は喜助が行きつけだという古書店に来ていた。
店内に入ると、古い紙とインクの匂い。
名前はこの匂いが大好きだった。
胸いっぱいにその空気を吸い込む。
喜助は店の奥に入っていく。
なんでも、注文していた本を取りに行くのだとか。
「いいーにおい」
名前は一言呟いて、本の背表紙をそっと撫でた。
棚に綺麗に陳列された古書の数々。
入り切らないものは積み重ねられて置いてあるが、よく見れば意味のあるカテゴリーで
まとめられていることが分かる。
本好きには堪らない空間だ。
「おやおや、いらっしゃい」
「あ、こんにちは」
頭を下げる名前に、やぁ、と手を上げてみせたのは、着流しに羽織を羽織った大柄な男。
その後ろには喜助の姿もある。
「名前サン、こちらこのお店の店主の」
「どうもぉ、京楽です」
喜助の紹介を途中で引き継いで、京楽が笑顔を作った。
「いやぁ、こんな可愛いお友達がいたなんて。聞いてないよ、浦原くん」
「なんで、京楽さんにいちいち言わないといけなんスか。大体、友達とは誰も言ってないでしょ」
えぇ?もしかして、彼女?君のぉ?
京楽が驚いた顔で喜助をみるが、喜助はどこ吹く風で名前の肩に手を置く。
「さぁさ、名前サン、行きましょ」
「えー、もうちょっとゆっくりしていってもいいじゃない」
いかにも残念そうな表情で首を傾げる京楽に、喜助は緩く笑って見せた。
「用は済んだっスから」
喜助に動かされるまま外に出る。
もうちょっと見たかったんですけど、とか色々言いたいことはあったが、手を置かれた肩が熱くて、それどころではない。
「あ、の…先生」
「あ、あぁ。すいません」
喜助がパッと手を離して、肩が軽くなる。
やだなぁ、あたし。
昨日フラれたばっかりだっていうのに。
名前は、耳元でうるさくドクドクとなる心音を聞きながら、自分の軽率さが少し恥ずかしくなって俯いた。
「いやぁ、あの人、女性と見れば手を出す女誑しで。あぁでもしてないと、名前サンの貞操が危なかったんスよぉ」
「貞操って…」
「それはいいとして、名前サン。さっき、また先生って呼んだでしょ」
「だって慣れないんですもん」
「呼ばないからですよぉ。今日意識して呼んでないでしょう、アタシのこと」
「ば…バレてました?」
「バレてました」
喜助がヘラっと笑って、空気が変わる。
時々、この人には全てお見通しなのではと、名前は思う。
今も空気を察してくれて、話を逸らしてくれたのではないだろうか。
そう思うと申し訳ないやら有り難いやらで、また俯いてしまう。
「あぁほら、名前サン。すすきだ」
涼やかでいいっスねぇ。
橋の上から喜助が染み染み呟いて見つめた先には、川べりにそよそよと揺れるすすきの群れ。
薄茶色のその柔らかな色は、喜助の髪と同じ色で、陽の光を同じように反射してキラキラとそよいだ。
ぼーっとすすきを眺める喜助を見ていると、小さな感情で一喜一憂する自分が馬鹿馬鹿しく感じられた。
今日はこの心地良い空気に、甘えていよう。
他愛ない話をしながら、石畳の坂道をゆっくり2人で歩く。
好きな本や作家の話、美味しい料理やお酒、最近の仕事のこと、会社の人の面白い話(主にデスクの平子さんの)、その他諸々。
そんな他愛のない話。
秋口の涼しい風が名前の髪を揺らして、随分と暮れるのが早くなった陽が2人の影を伸ばしていく。
「名前サン、珈琲でも飲みませんか」
「いいですね」
坂の上のホテルの喫茶店。
美味しいと喜助が言っていた珈琲のことだ。
「…ほんとだ、全然違う」
「でしょう?」
カップ片手にゆっくりと笑う喜助の笑みは、とても優しい。
名前は思わず目を逸らして、自分のカップに視線を落とした。
沈黙が気まずい。
「そ、そういえば、さっき京楽さんのお店で何を買われたんですか?」
「あぁ、これっスか」
紙袋を持ち上げて、喜助がふっと微笑んだ。
「はい、プレゼント」
「え?」
そのまま、紙袋は名前の手元に置かれた。
名前は自分の手元の紙袋をしげしげと眺める。
「開けてみてくださいよ」
「あ、はい」
ありがとうございます…。
名前は礼を言って、そっと紙袋を開けてみる。
「これって…」
「前にそれ、欲しいって言ってたでしょう?」
「覚えててくれたんですか…」
う、嬉しい。
じわじわと名前の胸に喜びが込み上げる。
入っていたのは、名前がずっと探していた大好きな作家の詩集だった。
随分昔に絶版になったその詩集は、そもそもは作家が遊びで作ったもので、数自体も非常に少なかった。
出版社に勤める名前が、本気で探しても見つからなかったのだ。
レア中のレア。
名前は本を目の高さに持ち上げて、瞳を輝かせる。
「名前サンの趣味が中々渋くて、探すのに苦労しました」
まぁ探したのはアタシじゃなくて、京楽さんっスけどね。
いつものようにヘラっと笑う喜助に、名前はありがたさで胸がいっぱいになった。
「本当に嬉しいです」
「それは…よかった」
名前は大事そうに胸の前で本を抱いて幸せそうに微笑む。
そんな名前を見て、喜助は息が詰まりそうになる。
本当に嬉しいとき、こんな表情で笑うんスね、名前さん。
仕事では一度も見たことがない、名前の表情。
聞いたことがない名前の声。
もっと欲しいと思ってしまう。
もっと知りたいと思ってしまう。
「さてと、一杯呑みにいきましょうか?」
あまり甘い空気に浸ると、抜けられなくなりそうで、喜助は空気を変える言葉を紡ぐ。
「いいですね!お任せといっておいてなんですが、リクエストいいですか?」
「いいっスよ、なんなりと」
「で、結局ココっスか?」
喜助は呆れて猪口を満たしている名前を見た。
リクエストされのたはいつもの喜助の自宅近くの居酒屋で、2人していつもの席にいつものように座っている。
「せぇんせぇ…」
「ハイハイ」
名前は随分なペースで呑んで、すでにできあがっている。
酔っ払うと用もないのに呼ぶのは、名前の癖みたいなものだ。
「せっかくデートだったのに、締めがいつもの居酒屋でよかったんスか?」
「だぁって…」
ゴンっとテーブルにの端に頭を乗せて、名前がぽつりと呟く。
「今日のせんせい、格好良すぎて…なんか疲れちゃったんですもん」
「…ぶはっ」
「あー笑ったぁ…馬鹿にしてぇ…このぉ!」
名前はテーブルの下で喜助の膝を蹴る。
「いてっ。足癖悪いっスよ、名前サン」
「せんせいが悪いんですよ」
「アタシのせいっスか」
「せんせいは女性に慣れてるかもしれないけど」
あたしは、男性耐性そんなにないんですからね!と名前は唇を尖らせた。
「アタシだって、誰にでもああいうことするわけじゃないっスよ」
「うそだぁ」
「嘘じゃありません」
「ふーん」
「なんスか、その疑わしい目!」
「べっつにぃー」
まったく、この人は…。
目の前でへべれけになって、「せんせぇ」と意味もなく呼び続ける名前に相槌を打ちながら、喜助は苦笑する。
彼氏がいると分かっていても、それでもずっと焦がれていた。
気取られないように、そっと君を想っていた。
本当は彼と別れて、傷ついてることも分かっている。
もう少し時間が必要なことも。
「随分待ったんだ。待つのは慣れました」
喜助は目の前でうつらうつらしている小さな頭を眺めて、彼女には聞こえないくらいの声で呟く。
少しずつ少しずつ進んでいけばいい。
貴方の気持ちが整うまで。
end