こんな夢を見た。
見慣れた古書店の奥座敷で、これまた見慣れたその店の店主が、ちゃぶ台に頬杖をついて船を漕いでいる。
手元には古い和本があり、恐らくそれを読みながら眠ってしまったのだろう。
ー喜助さん。
私はそっと呼びかけて、彼の前髪をはらう。
すり、とその頬に自分の頬を近づけたら、微かに煙草の香りがした。
「ん…」
眠たげな声がして、うっすらと開けられた瞳に自分が映り込む。
「…名前サン?」
ーあ。
そこで我に返る。
私は一体何を、と自問自答して狼狽えて、そして、唐突に夢は終わりを告げた。
▽
「浦原さん、こんにちは」
「おや、いらっしゃい」
お久しぶりっス、と団扇で仰ぎながら緩く笑いかけてくるのは、今朝方の夢に出てきた人物である。
白いカッターシャツにチノパンに下駄、という、いかにも古書店主らしい格好が妙によく合うこの人は、浦原喜助。
古書店『
「久しぶりって、一昨日お邪魔したばかりじゃないですか」
苦笑して返しながら、本当は昨日も、と夢の内容を反芻しかけて、意識的にやめた。
まともに顔を見られなくなる。
「いやぁ、相変わらず閑古鳥が鳴いてるもんで、店に足運んでくださる常連といえば名前サンくらいっスから」
1日でも空くと寂しくって、と浦原さんが笑った。
ーこういうこと、平気で言うよなこの人。
人の気も知らないで、と心の中で呟きながら、頬が赤くなるのを隠すように、結局その顔から目を逸らしてしまう。
幸い辺りには本が山積みになっていて、何かを探すフリをするには事欠かない。
猫廻廊堂に通うようになって、もう2年ほどが経つ。
店主の座す場所を囲うようにして、狭い通路があり、その通路に所狭しと並ぶ本達。
狭い通路を人が音を立てずに本を避けて歩く様を、猫が廻廊を歩く姿に見立てて名付けた店名だそうだ。
そのネーミングも、店の雰囲気も、仕入れてある本も、全てが趣味嗜好にぴたりとはまってしまい、この店の“猫”になってしまった。
しかし、ここに通い続ける理由は、今となってはそれだけではないのだけれど。
「お茶淹れるんで、奥、上がってきてください」
言い訳がましく逸らした視線の先で、いつの間にか真剣に本を物色していた私に浦原さんが声をかけてきた。
「あ、はい、ありがとうございます」
店の奥は浦原さんの住居スペースになっていて、いつからかその居間で本を読み耽ることが習慣になってしまった。
田舎ということもあり、店に客が来ることはほぼ無いらしい(どうやって生計を立てているのか聞いたことがあるが、店頭販売だけが収入源じゃないんスよ、と軽くかわされた)。
そのせいで、私のように足繁く通う客は珍しいのだろう、自分で言うのもなんだが、贔屓にしてもらっている。
「お邪魔します」
「ハイハイ、どうぞォ。お構いなく」
浦原さんがお茶の準備をしてくれるのを横目で見ながら、店から持ってきた本を開く。
年中軒下にぶら下がっている風鈴が、ちりん、と透き通った音を立てた。
ーあ、この本。
何気なく手に取ったそれは、和綴の古い本でどうやら和歌集のようだ。
偶然か、それとも昨日の夢の名残りなのか、昨夜の夢の中で浦原さんが読んでいた本に似ている。
「あぁ、流石。お目が高いっスねぇ」
湯呑みを置きながら、浦原さんが私の手元にある本に目を落とした。
伏せたまつ毛が頬に影を作っていて、思わず見惚れて、それから無理やり視線を引き剥がす。
ーあまりじろじろ見ては、変だ。
自分で自分に言い聞かせて、手元の本をペラりと捲った。
和歌集は辛うじて、その中身が読める。
どうやら恋愛の歌らしい。
「珍しいものなんですか?」
先程の、お目が高い、という言葉に呼応して、目の前に腰を下ろした浦原さんに話しかけるが、黙っているので私は再び視線を上げた。
浦原さんはちゃぶ台に頬杖をついて、緩く微笑んでいた。
視線が交差する。
「最近仕入れたんスけどね。これが、中々面白い
「謂れ?」
「えぇ。なんでも、夢を繋ぐ本、だとか」
浦原さんの言葉に、どくり、と心臓が跳ねる。
「夢…?」
「そう、夢っス。この本を意中の相手を思いながら読むと、夢の中で会えるとか、なんとか」
どこか嬉しそうに笑う浦原さんの視線が痛い。
目を合わせ続けることに耐えられなくて、私は視線を泳がせる。
「ま、またまた…そんな、小学生のおまじないみたいな話」
あはは、と笑いながら湯呑みに手を伸ばした。
昨夜、私の夢に出てきたのが浦原さんで、私がこの本を読んでいたわけじゃない。
きっと偶然だ、と自分に言い聞かせる。
そうでなければ、これではまるで、浦原さんの意中の人がー。
「いやぁ、ボクも最初はそう思ったんスよ。しかし、」
浦原さんの大きな手が伸びて、湯呑みを持つ私の手を包んだ。
私は固まって動けない。
「満更、馬鹿にできないなぁ、と思ってるんスよねぇ」
近づいた浦原さんの声が耳元で響いて、体温が上がっていくのが分かる。
心臓が、別の生き物のように動いている。
それでも容赦なく、浦原さんは言葉を紡いでいく。
「因みに昨日、ボク、この本読みながらうたた寝しちゃいまして」
すらりとした指先が、私の前髪を払った。
「名前サンが、夢で名前を呼んでくれたような気がしたんスけど」
気のせいっスかね。
そう言った浦原さんの顔を見ると、その瞳に自分が写り込んでいて、私は昨夜の夢の意味を知る。
浦原さんの視線から逃れるように、顔を背けた。
そうでもしなければ、とても、伝えられそうにない。
一つ息を吸って、喉を震わせた。
「…わ、私も、同じ夢を見ていたかも、しれません」
からからに乾いた唇をなんとか潤して紡いだ言葉は、なんだかとても遠回しな表現になってしまった。
それでも彼は満足したようで、私の頬をそっと撫でて、それからふっと笑った。
「呼びたくなったら、いつでも、喜助、と呼んでください。夢でも現でも、呼びやすい方で」
離れていく煙草の香りを名残り惜しく思いつつ、けれどこの香りは夢ではないだろうと、思うのだった。