『行くトコないんなら、ウチに来ます?』

鍋の水をひっくり返したような、土砂降りの雨の中で傘を差し出してくれたのが彼だった。

大通りからは離れた、細い路地を抜けた先にある、小さなリストランテ。
それが彼の言う“ウチ”で、確かに薄暗い中にぽつりと灯った電燈の灯りは、思わず入ってしまいたくなるような暖かさだった。




「なるほどな。それで、まんまと連れてこられたワケか」
「そういうこと」

昼の忙しい時間帯を過ぎ、夜の仕込みのためにじゃがいもをせっせと処理していきながら話していたのは、なんとはなしに始まった思い出話だ。

もう、とても昔の話のような気がするけれれど、つい最近の出来事だったような気もする。
実際はもうこの店に来て5年経つのだから、時の流れとは早いものだ。

一護は同じリストランテで働く料理人仲間で、店での経歴的には先輩にあたる。
とはいえ、リストランテというには小さく、そう堅苦しくない店だし、料理業界にしては珍しく上下の関係に厳しくなく、こうしてよく二人で作業することも多い。

「つーか浦原さんって、お前と、その、付き合ってんのか?」

ふと一護が言いにくそうに口にした言葉に、私はじゃがいもの芽をとる作業を止める。

「は?急になに?」
「いや、浦原さん、すげぇお前のこと気にかけてるみてぇだから」
「いや、ないから。大体浦原さんには相手が、」

「アタシがどうしたんスか?」
「わぁ!!」
「うおっ?!」

一護と私の間ににゅっと入り込んだ顔に、二人して驚いて大きな声を上げた。
噂の本人である、この店のカメリエーレ、浦原喜助だ。

「びっ…びっくりするだろうが!」
「いやぁ、お二人があんまり楽しそうにお話してたんで、つい」

すいません、と緩く笑った顔が胡散臭い。
悪い人ではないのだろうが、私はこの人といると調子が狂うから少し苦手だ。

店のオーナーである鉄裁さんとは旧知の仲らしく、実質この店を仕切っているのは彼だ。
鉄裁さんは店の横のワインショップのオーナーでもあり、更にワイナリーも経営しているので忙しい。
そこで浦原さんがリストランテの経営を任されていると聞いている。
この小さな店が繁盛しているのは、浦原さんの手腕なのだということも。


「黒崎サン、平子サンが厨房で呼んでるんで行ってください。
“1分以内に来ぉへんかったら一人で厨房の掃除させたる”らしいっス」
「はぁ?!早く言えよそういうの!悪ぃ、名前、あと頼んだ!」

あぁうん、という私の返事を聞く前に、一護は慌てて厨房へ戻っていった。
その背中を見届けてから、浦原さんが隣に腰を下ろす。

清潔な洗濯洗剤の香りが、ふわりと漂う。
香水のような嫌味な匂いでなく、料理の邪魔もしない、自然な香り。
こういうところも含めて抜け目がない。
店の客には浦原さん目当ての客も多い。
店を繁盛させる“手腕”には女性客への接待も含まれると、冗談混じりにスタッフが話しているのを聞いた。

「手伝います」
「いいですよ、あと少しですし。浦原さんだってオープンの準備があるでしょう」
「あと少しなんスから、パパッと一緒にやっちゃいまショ。それに準備はもうできてるんスよ。休憩中だったんで大丈夫っス」

鼻歌を歌いながらじゃがいもを手に取った浦原さんに、私はそっと溜息を吐いた。
この人と二人きりでいたくないんだけどな、と心中で呟きながら、大きな手がスルスルとじゃがいもの皮を剥いていくのを横目に、芽取りを再開する。

ー浦原さんの言う通り、さっさと終わらせてしまおう。

作業をしていれば沈黙も重くない筈だと、自分に言い聞かせて無心で手を動かしていきながら、どうかこのまま、この沈黙を維持してくれと思う。

「昨日、」

最後のじゃがいもを手にとってから、浦原さんが沈黙を破った。

「見てました?」

その言葉に、私はぎくりと身体を強張らせる。

昨夜の記憶が頭の中に流れて、自分の感情に混乱する。
だから私はこの人が苦手なのだ。
私の情緒を乱して、絡まって解けなくなった糸のようにしてしまう。

「…何をです?まぁ、どうでもいいですけど」

突っかかるような言い方になっていることを自覚しているのに止められない。

「やっぱり。見てたんスね…」

浦原さんの溜息混じりの声は、私の神経を逆撫でする。

「見られたくないようなこと、見られそうな所でしてるのが悪いと思うんですけど」

込み上げる苛立ちを隠しきれなくて、戻ります、とその場で立ち上がった。
これ以上ここで浦原さんと話していたら、何を言ってしまうか自分でも分からなかった。

「待っ…!」

短い叫びと共に、伸びてきた浦原さんの手が私の手首を掴んだ。
自分でも理由の分からない、腹立たしさと、哀しさで、胃が捻じ切れそう。
感情のままに手を振り解こうと小さく暴れた。

「ちょっ…離して…!」
「名前サン、お願いします。少しでいい、アタシの話を聞いて」

頬にかかった髪が、喜助さんの吐息で揺れる。
穏やかな落ち着いた声とすぐ側にある体温に充てられて、動けない。

「浦原さんが、誰と何をしようと、私には関係のないことです」

ーそうだ。

浦原さんの首に巻きつく、細く綺麗な女性の腕と、彼女の腰を抱く浦原さんの手。
女性の後ろ姿越しに見た、浦原さんの笑み。

昨夜見た景色を思いながら、自分の言葉に胸の内で肯定する。

この人が、客の女性と関係を持とうと、そういう相手が他にもいようと、私には関係のないことだ。
どうでもいい。
そう思うのに、どうして。

「じゃあ、どうして、そんな顔するんスか」

長い指が、いつの間にか溢れていた涙を掬い上げた。

「…知りませんし、浦原さんには、そんなこと言われたくない」

これ以上色々な物が溢れ出てしまわないように、奥歯を噛み締める。

「昨日のあの人は、常連の〇〇様っス。昨夜は随分酔っておられたようで、フラついてアタシに抱きついてきたんスよ。
まぁ、打算はあったみたいっスけど、丁寧にお断りさせて頂きました。アタシとあの人の間には何もないっス」

きっぱりと言い切る浦原さんの声を聞きながら、そんな説明、と可愛げのないことを思う。
そう思うのにどこか安堵している自分が悔しくて、浦原さんのベストのボタンを見つめたまま、顔が上げられない。

手首を掴んでいた浦原さんの手が、黙りこくる私の手を包んだ。

「不安なら、こうやって、アタシを捕まえてしまえばいい」

脈絡のない言葉に驚いて顔を上げたら、浦原さんの柔らかい視線とぶつかった。

「どんなに綺麗に着飾った人も、美しい化粧をした人も、アタシにとって必要ない。キミじゃなきゃ意味がないんスよ」

真っ直ぐに注がれる眼差しと、強い言葉に息を呑む。
頭の中が真っ白だ。
何がどうなっているのか、思考が追いつかない。

固まっていると、浦原さんが真剣な眼差しのまま再び口を開いた。

「名前サンが不安なら、客前に出ないようにしましょう。カメリエーレの仕事は、別に客前に出なくてもできる。ウチのホールスタッフは皆サン優秀ですから」
「え?ちょっ、」
「寧ろ、アタシからすれば厨房の悪い虫がキミにちょっかいかけるのを阻止できるんス。好都合だ」
「いや、待っ」
「入店制限かけるっていうのもアリっスかね。男性専用のリストランテにしてしまうのはどうっスか。ホラ、美容室とかエステはそういうのあるじゃないっスか…いやいや、やっぱりダメっス!それじゃあ、今度は名前サンが危ない。じゃあカップルのみにするか…」
「ちょっと、待って、浦原さん!」

あり得ない妄言を、物凄い勢いと真剣さで語り出した浦原さんを慌てて止める。
握られていた手から無理やり手を引っこ抜いて、今度は私が浦原さんの手首を握って顔を覗き込んだ。

「何言ってんですか、客前に出ないとか、入店制限とか。どうしちゃったんですか、浦原さん」

浦原さんは一瞬呆けた顔をした後、やってしまった、という表情を浮かべて座り込んでしまった。
いつもの浦原さんとあまりにも違う様子に驚きつつ、放っておくこともできないので一緒にその場に座る。

「…スイマセン」

俯いたままぽつりと溢れた謝罪に、なぜこんなことに、と思うが無碍にできなくて、声をかける。

「いや、全然いいんですけど…大丈夫ですか?」

そっと浦原さんの膝に手を乗せると、視線が彷徨った。

「本当は、余裕なんか全然ないんス。
キミに離れて行って欲しくなくて。挙げ句の果てに、キミの気持ちをロクに確かめもせずこの暴走…情けないっスね」

しょんぼりと項垂れてしまった大きな体が、小さなコンテナの上でまとまっている。
可愛くて、愛おしくて、思わず笑ってしまうと、浦原さんが問いかけるような視線を投げかけてきた。

ゆっくり息を吸って、私は言葉を選ぶ。

「昨日からずっとイライラしてたんですけど、イライラしてた理由、わかりました。
きっと、あれが浦原さんじゃなかったら、呆れはしても、イライラはしなかったと思います。
色々話してくれて、凄く嬉しかったです。気持ちも、よく分かりました。
その上で、離れていくことはないので安心してください。
だから、ホールには変わらず出てくださいね。皆、困りますから」

それはつまり…、と続きを言いかけようとする浦原さんの言葉を遮って、私は慌てて立ち上がった。

「行きましょう。もう、そろそろ本当に戻らないと」



それから数日して、浦原の左の薬指に指輪が光るようになり、ついに誰かがハンサムカメリエーレ長を射止めたらしいという噂が界隈で流れたのは、また別のお話。

第五夜 給仕係の夢



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