ーあぁ、崇徳院すとくいんだ。

襖の陰に隠れて、そっと聞き耳を立てる。
途中から聞いても分かるその話は、私が大好きな落語演目の一つ。
それにしても、何度聞いてもいい声だ。

『笑やぁしませんよ、ほら、早く仰って。
ん…じゃあ言うけど……その、あれだ、あ…恋煩い…』

若旦那が熊五郎に、自分が寝込んでいる理由を打ち明ける場面だ。

「ふ、ふ…」

思わず漏れてしまった笑い声を抑えようと、慌てて口元を抑えた。

「…お嬢サン?」

結局誤魔化せなかったようで、部屋の中から柔らかい声が聞こえて、私はおずおずと襖から顔を覗かせた。
いつもの深緑の着物で、扇子を口元に当てた喜助さんと目が合う。

火鉢を挟むようにして座布団が置いてあり、目が合うとふわっと微笑んで、ちょいちょいと手招きをされた。

「そんな所で聞いてないで、中へドーゾ」
「でも」
「その方が、アタシも興が乗るんで」

ね?、と懇願するように首を傾げる喜助さんに、私は弱い。
本当は邪魔にならないように部屋の外からそっと聞いておくつもりだったけれど、その企みはいつも喜助さんの優しさによって阻まれる。
喜助さんに誘われるがまま部屋に入ると、三味線が入った長袋をそっと傍に置いて、着物の裾を抑えつつ座布団に座った。

「あの、お稽古は?」
「師匠は高座こうざがあるんで、今日はもう終わりました。久しぶりの稽古だったんで、折角だから名前サンを待ってたんスよ」

しかし寒いっスねぇ、と喜助さんが火鉢に手をかざして、目尻を下げる。

家は代々落語家の一族だ。
喜助さんはお父さんのお弟子さんで、何人かいる門弟の方の中でもよく話しかけてくれる。
最近は二ツ目に昇進して忙しいようで、家に来たのは久しぶりだ。(前座ぜんざのお弟子さん達のお稽古の時間を邪魔するのも悪い、というのもあるらしい。喜助さんらしい気遣いだと思う)
とは言え、寄席では私も下座げざでお囃子はやし(噺家が舞台に上がる際の音楽を三味線で弾く人)をするので、会うのが久しぶりという訳ではないのだけれど。

「…名前サンの出囃子で高座に上がった時は、感動したなぁ」

感慨深そうに、喜助さんがぼんやりと火鉢の炭を見ながらそんなことを言う。

「私の初めての下座が、喜助さんの高座でしたもんね。お恥ずかしい限りですけど…」
「いやいや、あの日は良い気分で高座に上がらせてもらいました。アタシ、名前サンの三味線好きなんスよ」

とろりと蕩けるような顔で笑う喜助さんに、思わず顔が赤くなるのを感じて目を伏せた。

喜助さんはモテる。それはもう鬼のように。
寄席に来る客層も喜助さんが出る日は若い女性が多くなって、寄席の雰囲気がぱっと華やぐ。
三味線のお師匠さんや姐さん達に聞いた話しでは、声よし顔よし噺が上手い、と3拍子揃った喜助さんには、素人から芸者さんまで幅広い贔屓ひいきの女性客がついているのだそうだ。

そんな喜助さんと真向かいでこんな顔をされたら、そりゃあ誰だって赤面もする。
こんな場面、喜助さんについたお客さんに見られたら悋気りんきで殺されそうだ。

「えっと、じゃあ、弾きましょうか?」
「えっ、いいんスか?」

目を見開いて、嬉しそうにする喜助さんに、私はただただ頷く。

「じゃあ、アタシの出囃子を」
「わかりました」

長袋から三味線を取り出して調弦を始めると、喜助さんも崩していた姿勢を戻して、扇子を膝の前に置いた。

ー寄席の空気になった。

その姿を横目で見ながら、私は息を吸い込む。
弾く弦の音が心地良い。

喜助さんの出囃子は、“うめさかえ”。
品がありながら、どこか色気があり、それでいて軽やかという、不思議な曲だ。
まさに喜助さんにぴったりな曲。
そして私の一番好きな曲。

最後の弦の音が鳴った。


「名前ちゃん、来たで〜って、げ!」
「どないしたん…って、アラ、邪魔してもうた?」

賑やかな声と共に襖が開いて、眩しい銀と金の髪が揺れる。

「…えぇ、それはもう、いい所邪魔してくれたっス」

喜助さんの静かな笑みと声が怖い。
しかしそんな雰囲気に一切動じずに、二人は部屋に入ってきて火鉢に手を当て始める。

「平子さん、市丸さん、お久しぶりです」

「おぉ、久しぶり。元気やったか?すまんなァ、中々会いに来れんで。これでも俺ら売れっ子やねん」
「ほんま久しぶりやなぁ。名前ちゃん、会うたびに綺麗になってくなァ」

其々に返してくれる挨拶を聞いて苦笑すると、喜助さんが面白くなさそうに私の横に座って賑やかな二人から距離をとる。

彼らは関西の漫才師だ。
時々寄席に出て漫才をしてくれるのだ。
お父さんとも顔馴染みで、こうして東の方に来ると家に寄ってくれる。

「急に部屋開けて、びっくりするじゃないっスか」
「まぁまぁ、そう怒んなや。ちゅうか、なんでお前がここにおんねん」
「その言葉そのまま返しますよ。ここ、アタシの師匠の家っスよ?平子サンこそなんでここに」
「そんなもん決まっとるやんけ、名前ちゃんに会いに来たんや」

金髪の平子さんと、喜助さんのいつもの掛け合いが始まって、な!と急に話を振られると、困って固まっている私の横に銀髪の市丸さんが座った。
いつの間にか肩に手が回されている。

「やかましい人らやなぁ。名前ちゃん困ってるやん。ボクと静かなとこ行こか?」

にっこりと笑って私を覗き込む市丸さんの視線を避け、助けを求めて喜助さんを見る前に、平子さんが市丸さんを引っぺがし、喜助さんが私を二人から引き離した。

「名前ちゃん、大丈夫か?」
「名前サン近寄っちゃダメっスよ」
「え、ちょぉ待って、ボクの扱い酷ない?!そないバイキンみたいに」

二人の言動に抗議する市丸さんの言葉を遮って、平子さんの拳が市丸さんの頭に落ちてその場に頭を抱えてしゃがみこむ。

「ふ、ふふ、あはは…ごめ、なさい、ふ、」

一連の流れが可笑しくて、笑いが止まらなくなってしまった私を三人が不思議そうに見つめた。

「ふ、ふふ、やっぱりさすが、漫才師ですね、面白いです」

息を整えて、目尻に溜まった涙を拭って言うと、平子さんと市丸さんが嬉しそうに笑った。

「俺らの笑いが分かるとは、さすがや名前ちゃん」
「笑った顔も可愛いなァ、名前ちゃん。ボクと一緒に大阪帰る?」

市丸さんの言葉を聞いて、喜助さんが私の前に出てくる。

「次、名前サンに触ったら、ただじゃおかないっスよ」

その背中を私は眩しい気持ちで見た。

この二人がやって来ては私に言う冗談に、喜助さんがいつも牽制してくれる。
妹のように思ってくれているからだろう。
そうだとしても、実はちょっと嬉しいのだ。

「市丸さん、私大阪には行けないわ。ここで喜助さんの出囃子、演らなくちゃ」

ね、と大きな背中から顔を出して、喜助さんに笑いかけると、ぽかん、と口を開けた後、そうっスよ、と二人に向き合った。
平子さんは、けー!っと面白くなさそうな顔をして、市丸さんは、えー、と眉を下げて残念そうな顔をして、それを見て私はまたひとしきり笑った。




「…名前サンって、たまに不意打ちでトドメ刺してきますよね」
「え?!私何かしました?!」

平子さんと市丸さんが帰っていく後ろ姿を見送りながら、ポツリと喜助さんが言った言葉に驚いて目を丸くした。

「無自覚っスか…ほんと、それ他所でやっちゃダメっスよ」
「え…え〜…?心当たりが全くないのですけど…」

自分の言動を振り返ろうろうと、胸に手を当てて目を瞑ってみるが何も浮かばない。

不意に夕日の茜が遮られて瞼越しに影ができたと思ったら、目の前に喜助さんがいて、額に柔らかい感触が触れた。

「へ…」
「ホラ、そういう無防備な顔もっス」

額近くにあった喜助さんの顔がゆっくり離れていく。

「さ、入りまショ」

風邪ひきますよ、と言いながら、鼻歌混じりで下駄を鳴らす喜助さんの後ろ姿を、真っ赤な顔で立ち尽くしたまま見つめた私の顔は、相当間抜けだったに違いない。
その日の夜は全く眠れなかったことは言うまでもない。

第四夜 落語家の夢



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