耳の痕 最終話



「…すまん」

長い長い沈黙の後、最初に口火を切ったのは月島さんの方だった。
顔を上げると、椅子を引いて頭を下げている彼が目に入る。

「その、鯉登さんが来ると思っていただろう」
「そ、うです、ね…」

未だに驚きで声がうまく出せない私に、尚も頭を下げたまま言葉を繋げる月島さんをぼうっと見つめた。
夢ではないことを改めて実感して、でも思考は纏まらなくて頭がふわふわする。

「…今日、本当は、君がここに来ることを俺は知っていた」
「え…?」

言いにくそうに紡いだその言葉に、困惑して、それから、疑問が次々に湧いてくる。

私がいると知っていて何故来たのか、とか、そもそも鯉登さんではなく何故月島さんが、とか、これはもしや何かの仕込みなのか?とか、月島さんの言葉を切っ掛けにして、胸のうちに疑念がじわじわと広がっていく。

「…どういうこと?…説明してください」

自分の声が硬く響く。
頭を下げたままの月島さんの肩がぴくりと震えて、意を決したように息を吸い込んだように見えた。

「君と今日、見合いをする筈だった鯉登さんは、俺の職場の上司で、君のお父さんのゴルフ仲間の鶴見さんは、俺と鯉登さんの上司にあたる人だ。
鶴見さんから鯉登さんに見合い話がいったんだが、鯉登さんは、俺と君が昔恋人関係にあったことを知っていて、それで…この機会に…話を、するようにと…」

初めは流暢に説明していた言葉が、徐々に消えかかるようにして途切れてしまう。

こんなに弱々しい声を出す彼を、私は知らない。
彼がどんな思いで、今ここに座っているんだろう、と思うと苦しくなる。

「月島さん、顔を上げてください」

私がそっと言った言葉を聞いて、おずおずと顔を上げた月島さんの顔は、眉が苦しげに寄せられていて酷く辛そうだ。

あぁ、そうだ、とその顔を見て思う。
この人は、タチの悪い冗談や嘘で、人を騙すような人ではない。
真っ先に頭を下げたことが、何よりの証拠ではないか。
ぐるぐると渦巻いていた感情が、すとん、と落ちてくる。

多分、これは何か上司の指示で、仕方なく来たのだろうな、と悲しい解釈に繋がった。
そうでなければ、わざわざ別れた元彼女が来る見合いに現れる理由がない。

「正直、事情はよくわからないけど…話してくださってありがとうございます。
きっと、上司の方の指示でここに来たってことですよね?
私が相手だったというだけで、こんなことに…来たくて来たわけじゃなかったでしょうに。むしろ、」
「それは違う」

こちらがすいません、と最後の方は自嘲気味に紡ごうとした私の言葉を、真剣な目できっぱりと言って遮った月島さんに、驚いて目を瞬かせる。
そのまま月島さんが、ゆっくりと、自分の言葉を確かめるように言葉を続けた。

「俺が、君と話がしたくて来た。自分で決めて来たことだ」

真っ直ぐに向けられた視線に、身体の中からじわじわと熱が昇ってくる。
泣いちゃ駄目だ、と自分に言い聞かせて、一生懸命涙を押し留めて、その視線を受け止めた。

「でも、これは俺の我儘で、それに君が付き合う必要はない。嫌だったら言って欲しい。
君が、鯉登さんの写真を見て、彼との食事を楽しみにしていただろうことは分かっているつもりだ、だから」
「…な…んで…そんなこと、言うの…?」

もう限界だった。
月島さんの最後の言葉を聞いて、悲しくて、やるせなくて、溜めていた涙が決壊した。
後から後からこぼれ落ちる涙が、綺麗なテーブルクロスにぱたぱたと黒いシミを作っていく。

私が鯉登さんとの食事を楽しみにしてきた?
月島さんへの想いで、苦しくて、この2年間誰かと恋なんて考えたこともなかったのに。
この人にだけはそんなことを、想像もして欲しくなかった。

「わ、たし…今日のお見合いも、本当は……来たくなかったくらい、なんですよ…」

理不尽にも、月島さん以外の人に気持ちを向けていたと思われていたことが歯がゆいと思うのに、話したくて来たと、自分の意思で来たのだ、と言ってくれたことが嬉しくて、もう情緒がぐちゃぐちゃだ。

「そうか…すまなかった。君はこの見合い自体、嫌だったんだな」

下に下げた目線の先で、月島さんのごつごつした手がぎゅっと握られて、テーブルに手をついて立ち上がるのが分かる。
回り込んで近くまで来てくれて、彼が側に立つ気配がした。

「本当に悪かった。長居する必要はない。帰ろう。せめて送らせてくれ」

酷く優しくて悲しいその言葉に、また涙が出る。
どうしてこうも伝わらないのか。
私たちは、考えてみれば、いつもこうだったのかもしれない。
二人ともあまりに言葉が足りなくて、すれ違って、下手くそで、ずっと平行線で。

傷つくこと、今あるものがなくなってしまうこと、そういう不安が勝ちすぎて、自分を守るために言葉を選び過ぎてきた。
だけど、月島さんが、こうして見つけてくれて、会いにきたと言ってくれたのだ。

少しの希望と、勇気を力にして、震える手を伸ばして、すぐ目の前にある固く握りしめられた手に触れた。
びくり、とその手が震えるのが分かって、それでも、負けずにそのまま両手で包む。
思い切ってその顔を見上げたら、困惑で揺れる瞳と視線が絡んだ。

「…名前?」

気遣うように呼んでくれるその声を、何度夢に見たことだろう。

「月島さん、わた、し……私、月島さんのことが忘れられなくて…こんなふうに、なってるんです。
お見合いに、気持ちが向かなかったのも…月島さんのことがあったからで」

あぁ、もう後戻りはできないな、と思う。
これでもしも、私の勘違いで、彼はただ本当に何か別の要件があって話したいだけだったら、とこの後に及んで、まだ臆病になりそうな自分を、なんとか奮い立たせる。

目を見開いて驚いた顔をしている月島さんの顔を、じっと見上げた。

「…だから、今日、ここに月島さんがいることが…嘘みたいで…すごく、会いたかっ、」

た、と言いかけたところで引き寄せられて、気がついたら懐かしい月島さんの匂いと自分の香水の香りが溶け合っていた。

「…あぁ、名前の匂いがする…」

首筋に月島さんの鼻が当たって、ぎゅうと抱き竦められる。

「俺も、ずっと会いたかった。もう会えないと思っていた。好きだ、ずっと。あの頃から変わらずに。
もう一度、俺にチャンスを貰えるか」

息もつけないほどの、あの頃聴きたかった言葉が溢れていく。
全部抱き止めるように、月島さんの首に腕を回して抱きしめて、声が出ないから代わりに何度も頷いた。

「今度こそ、ちゃんと大事にする」

月島さんの言葉を聞いて、あ、と鮮明に記憶が蘇った。

『耳の痕ごと、大事にするから』

あの時、ファーストピアスが開いた耳をなぞって、小さな声で彼はそう言ったのだ。
穴のことを痕と言い換えたその言い回しが面白くて、くすくすと笑ったあの日のことを想う。

あの時開けたピアスホールは塞がってしまったけれど、今度こそ本当に、耳の痕ごと大事にしてくれるということなら、悪くないなぁと、泣きすぎてふわふわした頭でそんなことを思った。










「実は、あの後連絡したんだが…連絡先を変えたのか?」

涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を、一旦綺麗にするために化粧室に行って戻ってきたら食事が運び込まれていた。
他愛のない話をしながらコースを堪能した後、デザートを楽しみ始めたところで月島さんがそんなことを言うので、私は目を丸くする。

「え、ごめん。連絡くれるなんて、思ってもみなくて…。
前のスマホに思い出がありすぎたのと、連絡先が入ってるといつまでも未練が残ると思ってその日に買い替えて、連絡先も変えたの」

そう説明した私を見て、今度は月島さんが驚いたように目を開いた。

「名前ってそんな大胆な奴だったか」
「知らなかった?」

くすくすと笑うと、月島さんは呆れたように溜息を吐く。

「俺はもうお前に嫌われて捨てられたものとばかり…」

と言いかけて、顔を赤くすると、なんでもない、とモゴモゴと口篭った。

「月島さんって、そんなに可愛い人でしたっけ」
「…悪かったな、女々しくて」

面白くなさそうに、ツン、と口を尖らせる月島さんが昔よりも近しく感じる。
あの頃は、ただただ男らしい素敵な人だと、そんな側面しか見ていなかった。

「そんな月島さんが好きだから、それでいいよ」

もう憚ることもないので、今まで言えなかった分を沢山言葉にしていく。
月島さんは、そうか、と呟くように言って、ふにゃっと笑った。

この人こんな風に笑う人だったんだなぁ、と今更にして思う。
私たちは、まだ、お互いのことをきっと知らないのだろう。

「そうだった。聞きたいことがあったんだ」

そう言って、聞いてもいいか、と伺うようにして見るので、どうぞ、と促すと月島さんが難しい顔でこちらを見た。

「俺が振られたのは、寂しい思いをさせ過ぎたからか?」

真面目な顔でそんなことを言うので、思わず珈琲を吹き出しかける。

「…ゴホッ…ずっと考えてたの?」
「あぁ…特に何かした覚えはないし、それしか思い当たらなくてな…」

あれからずっと考えてた、と言って自分の指先を見つめる月島さんを、心の底から愛おしく思う。
この人とまたこうして出会えて、本当に良かった。

「寂しかったし、実はちょっと浮気を疑ったりもしてた」
「うわ…?!…なぜだ?」

月島さんが、心外だと言いたげな驚いた顔で、私の顔を見返す。

「連絡返ってこない日もあったし、連絡が来ても“寝る”とか“行ってくる”だけだったら、疑いたくもなるよ」
「そうなのか…俺としてはこまめに返してたつもりだったんだが…うまくいかんもんだな」

私の言葉に、困ったように坊主頭を撫でる月島さんを見て、思わず笑ってしまう。

「私は私でちゃんと、言葉にして聞けば良かったんだろうけど、迷惑かけたくない、とか、重たいと思われたくないとか、変なことばかり考えちゃってたから」

お互い様だね、と言うと、いや俺が気づけば良かったんだ、とまた優しいことを言って、それからニヤリと笑った。

「まぁでも、どんだけ重たくても、俺としては全く構わないからこれからは遠慮なく言いなさい」
「お言葉に甘えます」

顔を見合わせて、ふふ、と二人してどちらからともなく笑った。


下の名で呼ぶこと、行ったことがない場所に行くこと、喧嘩をすること、一緒に泣くこと、笑うこと。
これから、二人で初めてを沢山作っていけたらいい。
知っているところも、知らないところも、これからは全て愛おしく思って一緒にいられるから。



【完】





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