耳の痕A
「見合いをすることになった」
「はぁ。それはおめでとうございます」
昼時に、奢るから、と課長補佐の鯉登さんに言われ、社外の蕎麦屋に連れ出されたから何事かと思えば、高らかに宣言した鯉登さんを、また何か面倒なことを言い出すのではと訝しげに見る。
面倒なので適当に相槌を打ったら、なんだその腑抜けた返事は、とキンキンと言われ、眉を顰めた。
「どう返事をしろと言うんです。好きにやってくださいよ、見合い」
「あのなぁ、月島、そういう所だぞ」
どういう所だと言いたいが、深く追求すると馬鹿を見そうなのでやめておく。
「お前、前に彼女と別れたと言っていただろう」
「…もう随分と前の話ですよ」
「未だに引き摺っているな?」
「……」
おい、勘弁してくれ、飯が不味くなる、と思い、目を閉じて溜息を吐いた。
正直もう、そのことについて蒸し返されたくない。
当時、やさぐれて鯉登さんに酔った勢いで、彼女とのことをベラベラと話してしまった自分を盛大に呪う。
酔っ払ってその場で、沢山撮っていた彼女の写真を鯉登さんに見せながら、一つずつ消していった過去を抹消できるなら、是非そうしたい。
「ろくに話もせずに別れたと言っていたことが、ずっと引っ掛かっていたんだがな」
「なんで、貴方がそこまで気にする必要がありますか」
というかなんの話ですか、と段々自分の声が不機嫌になっていくのが分かる。
「そう噛みつくな」
鼻の頭に皺を寄せて顔を顰められて、いや、その表情は俺のだろ、と一層苛立ちが募る。
「この話、続けますか」
静かにそう言うと、まぁ聞け、と宥めるように鯉登さんが言う。
「見合いなんだがな、相手の女性はこの人だ」
スッと目の前にスマホが差し出されて、相変わらず話が見えないまま、その画面を確認して目を見開く。
一瞬息を呑んで、それから、ゆっくりと吐き出した。
下を向いて吐き出した長い長い溜息でも、腹の中の煮え切らない気持ちを消すことはできない。
「…偶然ですか?」
「そうだ…と言いたい所だが、ま、半々だな」
スマホをポケットに仕舞いながら、軽く言う鯉登さんを睨むようにして見ても、彼はそんな俺を気にも止めずに、蕎麦を啜りながら事の顛末を語り出した。
鶴見本部長のゴルフ仲間が、2年前に俺が別れた彼女の父親だった、と言うのが事の発端らしかった。
娘が婚期を逃しそうだ、という話題になった際に、鶴見本部長が自分の部下にも同じ年齢くらいの者がいるという話をしたらしく(こんな話を聞いたら彼女はきっと怒るだろう)、勝手に年長者で盛り上がった挙句、鯉登さんか俺にと言うことで、白羽の矢が立ったということだった。
「まず私に話が来てな。鶴見本部長殿の頼みとなると、断りきれん。
それで、とりあえず話だけでも聞くことにしたんだが…写真を見せてもらったらお前の元彼女だった訳だ」
淡々と説明を続けながら鯉登さんは、ず、と蕎麦湯を啜る。
とりあえず今、その彼女の親父さんと連絡を取っているらしく、先方は乗り気だそうだ、という鯉登さんの言葉に、またモヤリとした霞が胸にかかった。
きっと、鯉登さんの写真でも見て、会いたいと思ったのだろう。
男の俺から見ても、綺麗な整った顔をしていると思う。
「そんな話を俺にして、どうするつもりです」
霞を晴らしたくて、勢いよく蕎麦を汁につけて口に運ぶ。
「月島、お前、私の代わりに会ってこい」
「ブホッ!」
あり得ない提言に思わず吸い込もうとしていた蕎麦を吐き出しかけ、鯉登さんが、汚い!、と声を上げた。
周囲の客が迷惑そうにこちらを見るので、ゴホゴホと咳き込みながら慌てて頭を下げて、おしぼりで口元を抑える。
「何言ってるんですか、貴方は…!俺は振られたんですよ。どのツラ下げて行けと言うんですか」
声を落として詰め寄るようにして言うが、鯉登さんは涼しい顔でお茶を貰おうとしていて腹が立つ。
そりゃ、未練がないかと言われれば大嘘だが、人の代わりに見合いするなんて、そんなみっともないことしたくない。
そんな俺の心中を知ってか知らずか、呆れたように鯉登さんが視線を投げかけてくる。
「月島よ、気がついてるか知らんが、あの日から、ずっとひどい顔しているぞ。
いつまでもウジウジとするくらいなら、振られた理由を聞いてこい。
それに、伝えたいことも沢山あったと言っていただろうが。全部伝えて、終わらせるなら終わらせて来い」
こんなチャンス二度とないぞ、形振り構ってる場合か、と言う鯉登さんの言葉に、ぐ、と言葉に詰まった。
本当は未練がましく連絡をしようとしたこともあった。
彼女が震えるように言った別れの言葉に、追い縋りたい気持ちを押し殺したのに、結局我慢できずに数日後に電話してみたのだ。
結果は散々で『お客様のおかけになった電話番号は現在使われておりません』のアナウンスが虚しく流れただけだった。
嗚呼、俺は本当に捨てられたんだ、と思った瞬間だった。
彼女に拒絶されたことが、心の底から悲しかった。
そこからは仕事漬けの毎日で、無理に忙しく働くことで彼女のことを頭から締め出そうとしていたのだ。
付き合っていた時は、忙しくても常に彼女が頭と心にずっといてくれたから、それを追い出すことは到底無理で、結局未だに未練たらたらに想い続けている。
情けなくて、もはや笑えてくる。
今、会ってしまったら、彼女に何を言ってしまうのか、自分で自分の発言に自信が持てない。
きっと、いや、絶対に、困らせてしまう。
「…いや、やっぱり、無理だ、鯉登さん…」
「オイ、いい加減にしろ」
力無く言った俺の言葉を、鯉登さんがピシャリと跳ね除ける。
「私の名で返事をしたのはどういうことか考えろ。確実に彼女に来てもらうためだ。万が一、お前の名を出して逃げられでもしたら困るからな。
ここまで私がお膳立てしているのだ。つべこべ言わずに行って来い。
お前が行かないなら私も行かん。彼女は一人で見合い会場で約束をすっぽかされることになるぞ、いいのか」
「…汚いですね、鯉登さん」
「なんとでも言え。いつまでも腐っているお前に比べたらマシだ」
何か新しい出会いを期待して来るのであろう彼女が、一人ポツンと人を待つ姿を思い浮かべると、ずきずきと胸が痛む。
はぁーーーー、と長い長い溜息を、腹の底から吐き出した。
「…わかりました…。でも、鶴見本部長の顔に泥を塗ることになりかねませんよ」
一瞬、う、と鯉登さんが言葉に詰まり、お前嫌なことを言うな、と言った後で、うーんと考えて、それから、あ、と口を開いた。
「もしも話が拗れそうなら、私は当日体調不良になったことにしよう。ドタキャンは申し訳ないということで、お前を遣いにやったことにすれば良い。相手が拒否するようなら、さっさと帰って来い。
必要があればその後のフォローはするから、任せておけ」
物凄く不吉なことを言っておきながら、完璧、と鼻から息を吐き出して、うんうんと頷く鯉登さんを眺めて、溜息が口を吐いて出た。
正直に言って不安しかないし、彼女の気持ちを弄ぶことになるのではないかと思うと、罪悪感で胃がキリキリと痛む。
せめて失礼のないようにしなければ、と気を持ち直そうとして、また不安になって、この調子では多分、当日までに何度も心が折れかけるのだろうことを想像しながら、のろのろと残りの蕎麦を口に運んだ。
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