耳の痕@
とうとう、ピアスの穴が塞がってしまった。
もうピアスは付けられない。
手にしたイヤーカフを見て、また鏡に視線を戻す。
ずっと片想いをしてきた大好きだった人が、彼氏になってくれたことに浮かれて、ファーストピアスを彼に開けてもらったのはもう随分前のこと。
なんでもいいから消えないもので、彼に初めてを貰って欲しいなんて女子高生みたいな恥ずかしい気持ちを、辿々しく伝えた。
重いかな、とか、はしたないと思われたかな、とか、不安に押し潰されそうになった心が、彼の困ったような笑い顔を見ただけで溶けて消えてしまった幸せな私は、もういない。
『 』
あの時彼は、月島さんは、小さな声でなんと言ったか。
思い出さないようにしていたら、本当に忘れてしまったみたいだ。
耳たぶに薄く残る小さい痕と、しこりをそっと触ってふと息を吐いた。
ピアスの痕はどんどん無くなっていくのに、心に沁みついた彼の痕跡はいつまでも疼くように、ふとした瞬間にこうして浮かび上がってくるのだ。
昔より随分短くなった横髪から覗く耳に、今はゴールドのイヤーカフをつけて、気に入りの香水を手首と首筋につけた。
▽
「あんた彼氏と別れてどんくらい経った?」
「んー…2年?くらいじゃない?確か」
電話口での他愛無い会話の中に紛れ込ませた母親からの意味深な質問と、ふぅん、という何か言いたそうな相槌に、苛立ちが不穏な影を落とす。
「何?結婚はまだか、とか最低なこと言い出さないでよ」
「そうやってすぐ喧嘩腰になるのやめなさいよ」
煩わしそうに溜息をついた母親に、こちらの方がうんざりしてしまう。
「いやね、お父さんのゴルフ仲間の鶴見さんいるでしょう。
その鶴見さんから、お見合いの話が来ててさ。一旦断ったんだけど、ほら、付き合いもあるからさぁ」
あんたたちの付き合いに私を巻き込まないでくれ、と言いたくなるが、なんとかならない?と気遣わしげに言う母親の言葉を無碍にできるほど子供でもない。
「どんな人?」
「いい人みたいよ」
「いや、そうじゃなくてさ…」
母親の話によると、会社員で仕事熱心で超がつくほどの真面目人間らしく、仕事ばかりで出会いがないからと、上司の鶴見さんが世話を焼いたらしい。
まぁ、なんとお節介なと、正直思わなくないが、きっと上司にプライベートまで可愛がられるくらい有能な部下なのだろう。
月島さんにそっくりだな。
そんな考えがふと浮かんで、そんな人はもう懲り懲りなんだけどな、と眉を寄せる。
「名前は?」
「えぇっとねぇ…鯉登音之進さん。歳はあんたと同じみたいよ」
「鯉登さんねぇ…」
「行くって返事してもいい?」
食い気味で了解を取ろうとしてくる辺り、すでに父親がいい返事をしてしまっているのだろう。
溜息を吐いて、渋々口を開いた。
「この1回限りだからね。お父さんにも、お母さんからちゃんと言っといてよ」
「良かったぁ、ありがとうね。お父さん、もう直接相手と連絡取っちゃってたみたいで、正直断りにくかったみたいなのよ…助かるわ」
私の不貞腐れた言葉に、ほっとしたように言う母親の声が続いて、また詳細は連絡するから、と言って早々に電話が切れる。
「…お見合いの話するための電話だよ、絶対」
釈然としない気持ちを独り言で吐き出して、スマホを放り投げた。
ベットに倒れ込んで、枕に顔を押し付ける。
何が悲しくて2年も前の恋を引き摺った状態で、出会い目的の知らない男と、気まずい時間を過ごさないといけないのかと虚しくなってくる。
月島さん。
何度も下の名で呼ぼうとして、結局恥ずかしくて呼びきれなくて、そんなことをしている間に別れてしまった。
何があったというわけでもない。
ただ本当に彼の仕事が忙しくて、私は会えない寂しさに耐えきれなくて、そのうち、本当に仕事?とか、浮気でもしているのでは、とどんどん疑心暗鬼になっていって、でもそのことも素直に言えなくて、沢山の夜を泣き声を噛み殺して過ごすのに疲れてしまったというだけ。
私の方から別れを切り出したら、わかった、と電話の向こう側で彼は静かに言った。
理由も聞いてくれないんだ、と絶望したあの気持ちは、今もまだ腹の底に溜まっている。
別れ話をした後、泣き腫らした顔で携帯キャリアショップに行った。
スマホを買い替えて、全てをリセットしたことを後悔はしていない。
あれをしていなかったら、今もきっと連絡先をただただ眺めて、もっと惨めになっていたに違いないから。
よくある別れ話。
そう切って捨ててしまうには、あまりに痛い失恋になってしまった。
女の恋は上書き保存なんていうけれど、上書きできるような恋は未だなくこの有様だ。
「行きたくないなぁ」
ぽつり、と呟いた独り言は部屋の中に漂って、更に私の気を重くしただけだった。
▽
指定されたレストランの個室で、腕時計を確認すると約束の時間の5分前を指している。
口を吐いて出かけた溜息を、なんとか飲み込んだ。
油断すると出てしまいそうになるので気をつけておかなければいけないが、母親のメッセージを思い出すだに気が滅入ってくる。
“本当に写真見なくてよかったの?相手の方、凄く綺麗な顔の人だったよ…!お母さんがお見合いしたいくらいだわ”
妙にテンションの高いそのメッセージを既読無視したまま放置している。
写真を見てしまって、いよいよ行くのが嫌になるなんてことになりたくなくて、そのままにしていた。
当日を迎えて、いややっぱりどんな人か確認しておくべきだった、と猛烈な後悔に襲われる。
手首につけた気に入りの香水の香りをすん、と吸って、気を落ち着かせようとした。
ふとぴかぴかに磨かれた窓ガラスに映った自分と、遠くに見える夜景が見えて馬鹿らしくなる。
こんな所に、こんな風に着飾ってやって来て、なんの実りもない出会いを今からするのだ。
考えてみたら相手にも失礼なことだよな、と罪悪感すら湧いてくる。
真っ当な気持ちをもってお見合いに臨むであろう相手のことを思うと、とても気が重い。
とにかく一緒に1時間程食事をして、当たり障りなくサヨナラをすればいいだけの話だ。
仕事の接待だと思えばいい。
失礼なく、この時間を楽しいものにして終わらせればいいだけじゃないか。
自分になんとか言い聞かせて、相手が入ってくるのを待つ。
この、じりじりと時間を待つ感じが、鳩尾をもやもやと息苦しくさせる。
「失礼致します。お連れ様が来られました」
ウェイターの声に、来た、と胃が引っくり返るような気分でガタガタと立ち上がると、どうぞ、と促されてコツ、と革靴の音が響く。
ゆっくりと入室してきた男性の顔を見て、心臓を鈍器でぶん殴られたかのような衝撃を受けた。
相手の顔を見て、目を瞬かせて、なんだこれは、と自分に返せる筈もない問いを投げかける。
「こんにちは」
深くて、海の底を攫うみたいな、静かな声が響く。
何度も、何度も、忘れては思い出して、恋しくて、苦しくて、愛おしいと思ったその声。
私は言葉を失って、ただただ目を見開いて、息を吸うのを忘れて立ち尽くす。
「…とりあえず、座ってくれ」
気まずそうにそう言う彼の言葉を聞いて、やっと息を吸って、唇をぎこちなく動かした。
「月、島さん…ですか…?」
久しく呼んでいなかった名が、掠れる自分の声で再生されて、頭が痺れる。
まだ半信半疑で出た言葉はあまりにも間抜けだったけれど、彼は、昔よりずっと柔らかく、眉を寄せてなんとも言えない表情で微笑んで、それから、ゆっくりと口を動かした。
「久しぶりだな、名前」
その声と言い方で、あぁこの人だ、と現実であることを受け止めたところで、お食事お持ちするタイミングでお声掛けください、と言ってウェイターが下がっていき、沈黙の中に私たちは取り残された。
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