一,手鏡の青年




昏い、沼の水のような闇が、ねっとりと纏わりつく。
辛うじて己の形を保っていられるのは、薄らと光る光脈が照らしてくれているからだ。
その光脈は遠く遠く続く光の筋で、これがあるから僕はあの子に会いに行ける。

あぁまた、あの子が泣いている。
僕の愛しい子。

「   」

君の名を呼ぶよ。
いずれ僕らは一つになるんだ。
君もここへおいで。







壱.

小さい頃から、"本来見えてはならないモノ"が見えてきた。

血だらけのお婆さんに追いかけ回されたり、大量の目玉がない赤ん坊が手足に巻きついてきたり、黒い影に線路へ引き摺って連れて行かれたこともある。

怪我が絶えない幼い私を心配し過ぎて、母は一時期とにかく私の傍から離れようとしなかった程だった。
恐らくあの頃、母はノイローゼ気味だったのだろう。
何しろ目を離せば私はすぐ死にかけるような怪我をするし、傍にいればいたで母には理解不能なモノに怯え続ける私をどう守れば良いかも分からず、親として相当に辛かったに違いない。

そんな子供時代を過ごすうちに、兎に角何でもいいから守ってくれと願うようになった。
それが"彼"を引き寄せたのだろうか。
真相は分からない。

ある日見かねた祖母が、お守りと称して小さな手鏡をくれた。
持ち手のついた小さなまぁるいその手鏡を私に握らせながら、もう怖いことが起きませんようにっておまじないしといたからね、と祖母は言った。

その手鏡は私のお守りになった。
肌身離さず持ち歩き、覗き込み、語りかけた。
学校へ行く時も、寝る時も、お風呂に入る時にでさえも。
あまりに私がその鏡に執心するので、母が気味悪がっていたことも知っている。
けれど止められなかった。
手鏡を裏山へ捨てようとして母が腰骨を折って暫く歩けなくなったことが、恐らく手鏡と関係していると薄らと理解していても。
なぜか。

あの鏡の中に友達がいた。
色白だが頬は薔薇色の美しい顔をしていて、両頬に特徴的な黒子があった。黒子の下には手足が描かれていて、まるで棒人間のようになっているその黒子が彼が口を動かすたびに走っているように見え、怖い思いをして泣く私を笑わせてくれた。
優しく、ひどく利発で、どこか気品さえ漂うようなその雰囲気の彼と話してる間は、私は何にも怯えずに済んだ。
そんな素敵な秘密の友達を、どうして手放すことができただろうか。

そうだ。
あんなに大切にしていたのに。
あの手鏡はどうしただろう。
捨ててしまったのだろうか。
美しい朱色の、野薔薇の模様が彫り込まれたあの手鏡が、何故か今急にとても恋しい。
 
そういえば、いつからだろう。
気がつけば変な物も見なくなり、危ない目に会うことも無くなったのは。

どうも、不透明だ。
思い出せないことが多い。
まるで薄らと膜が張ったかのように、あやふやな輪郭が記憶の中で揺れるだけだ。
思い出そうとすればするほど遠くさざめいて、その思い出の形は散っていく。

駄目だ、ちっとも思い出せない。

ぎゅうと、こめかみを押えた。
大体、あんなに大好きだった鏡の中の彼のことさえ、今の今まで記憶の底に沈んでいたのだ。
それがどうして今、急に浮上したのか。
心当たりはある。それはもう、しっかりと、自覚的に。
 

「大丈夫ですか?頭痛?薬あります?」
「…いえ、すいません。大丈夫です…お気になさらず」

目の前の男にじっと目を見つめられて、慌てて視線を逸らしたら、
 
「そうですかぁ?じゃあ続けますよ」
 
と少し鼻にかかった声がして、中断した話を再開しだした。
 
資料に視線を落とすその顔を、盗み見るようにして眺める。
卵形の綺麗な顔の形、通った鼻筋、長い睫毛に縁取られた大きな瞳、そして、両頬に均等に配置された黒子。
 
こんなことがあるのだろうか。

ざわざわと波立つ胸中をなんとか宥めつつ、再び合いそうになった目線を逸らして手元の紙面に並ぶ文字をただ眺める。

そう。
今まで忘れていた筈の過去の記憶の呼び水になったのは、目の前にいるこの男の顔である。
昔手鏡の中に見た、美しい顔のあの、私の友達と同じー。

「じゃあそういうことで、これからよろしくお願いしま〜す」

向けられた声に気がついて視線を上げる。いつの間にか説明は終わっていたらしい。
気がつけば、柔和な笑みを浮かべたその男、宇佐美時重が、本当に大丈夫ですか?と私の顔を覗き込んでおり、私はそろりと視線を外すのであった。






 




 

「頑張ってるね。無理してないかい?」
「鶴見さ……社長! その節は大変お世話になりました…!」

休憩室に設置された自販機から飲み物を取り出したところで声をかけられ、慌てて居住まいを正す。

「ふふふ。そう、かしこまらないで。
私はただ採用面接に誘っただけで、なにもしていないよ。
まぁ私としては経験のある有望な若者が入ってくれて、嬉しい限りだけどね」

ぱちりとウィンクを飛ばす素敵な紳士に、恐縮して元々下げていた頭を更に低く下げた。
 
この人は鶴見篤四郎さんという人で、今年から勤め始めた会社の社長である。
前職を辞して転職先を探していたところ、縁あって鶴見さんが経営する会社の中途採用枠の応募に声をかけて貰ったのだ。
前職の広告代理店でマーケティング業務もやっており、新たに所属することになった旅行、イベントの企画、運営を行う現会社も実は元顧客である。前職の経験を活かせる職を探していた私にとっては、知っている会社であるということも含めて、鶴見さんの誘いは渡りに船であったわけだ。
 

「しかし、遅くまで残っているんだね。
入社間も無いというのに…仕事が多いかな?」

鶴見さんが腕時計を見やって心配そうな顔をする。

「あ、いえ!もうそろそろ切り上げようとしていたところですので」

時刻は20時を回った所で、以前の会社なら残業にもならない時間だ。
この時間を"遅い"と捉えることに衝撃を受けていると、そういえば、と鶴見さんが温和な笑みを浮かべた。

「宇佐美くんが、君のエルダーだと聞いたよ。仲良くやってるかな」
「は、はい…。お世話になっています」

言葉とは裏腹に、あの笑顔の奥に据わる目を思い出してぞくりと肌が泡立った。
 
話題に挙がったその彼は、転職してすぐに私についたエルダーで、先輩社員にあたる。
ー宇佐美時重。
会社員にしては珍しい坊主頭の整った顔のその人に、どうも私は気を許せないでいる。
面倒見が良く、助言も的確で無駄がない。何より優しいのだ。にもかかわらず、何かが引っかかる。
今となっては気味の悪さしかない幼い日のあの記憶のせいなのかもしれない。
よく分からないが、体感と感覚がズレるような妙な違和感がある。

「そうか。彼は知人の息子さんなんだよ。昔からよく知っているが、勘が良い子でね。私も色々助けて貰っているんだ。
勿論仕事もできるから、色々教えてもらうといい。
2人で良い仕事をしてくれることを期待しているよ」
「はぁ…そう、ですね」

手放しで宇佐美さんを褒める鶴見さんの言葉に曖昧な相槌を打ちながら、彼に対してこの数ヶ月ずっと感じていた引っ掛かりの正体を探ろうとするが掴めない。
鶴見さんになら打ち明けられるだろうか。この人には過去に前職を辞めることになった時にも相談したことがある。その時にもとても得心の行く答えをくれた記憶がある。
あの、と言いかけると、鶴見さんは微笑んで言葉少なに続きを促してくれる。
逡巡した後に、私は意を決して口を開いた。

「…宇佐美さんって、何か、」
「鶴見社長〜お疲れ様で〜す」

急に背後から聞こえた声に身体が強ばる。

「おぉお疲れ様、宇佐美くん。ちょうど君の話をしていた所だったんだよ」
「え〜?なんですかぁ?」

帰ったんじゃなかったのか。

ぎょっとして、思わずいつの間にか隣に立ったその人の顔を見た。
双眸を細め楽しそうに鶴見さんに話しかけながら、気づかない程のほんの数秒の間に私に一瞥をくれる。
その目を見て、怖気が立ち上った。

明らかに攻撃の意識がある冷たい目線。
そこで唐突に理解する。
そうか、違和感の正体は優しさの奥に見え隠れする敵意だったのだと。

「じゃあ、私は先に失礼するよ。2人とも遅くならないように…。危ないからね。宇佐美くん、大丈夫かな」
「えぇ分かっていますよ。社長もお気をつけて」
「そうだな。よろしく頼む」

2人が微笑みあって別れの挨拶を交わした後、鶴見さんが荷物を持ち直して背中を向けた。
まずい、このままでは宇佐美さんとここに取り残されてしまう。

「わ、私も、」
「さぁ、僕らも片付けて帰りましょうか〜」

鶴見さんの後を追いかけようとして、がっしりと腕を掴まれる。
痛い。

「う、宇佐美さん」
「いいから、来い」

ここ数ヶ月で聞いた声とは明らかに違う低い声で、唸るように宇佐美さんが言った。
腕は掴まれたままで引き摺られるようにして歩かせる宇佐美さんが、下手な化け物なんかよりよっぽど怖い。

「宇佐美さんっ…!やめてくださいっ!訴えますよ!」

恐怖に耐えかねて大きな声を出すと、その声が廊下に響き渡って反響する。
宇佐美さんが眉を寄せて視線を向けてくると同時に、身体中に物理的な衝撃が走った。

「ぐぅっ…‼︎」
「お前、なんだ?」

自分が強い力で壁に押し付けられていることに気がつく。
格闘技でもやっているのか見事に無駄のない動きで、何が起こったのか理解するまでに時間がかった。
腕で首元を抑えられていて息が苦しい。
至近距離で覗き込まれた宇佐美さんの冷たい目に、私の怯えきった顔が映る。

「何をした?…いや、何をさせた?」
「え?どういう、」
「言えよ。篤四郎さんに何をしようとしてる。誤魔化そうなんて思うな」

理解不能な質問を投げかけられて戸惑うが、宇佐美さんの怒りは加速しているらしく、その目には殺意さえ宿っているように感じられる。
恐怖で胃液が上がってきて、口内に不快な味が広がった。目に涙が滲んで、視界がぼやける。

「わか、り、ません…ごめんなさ、い」
「は? 巫山戯ふざけるな。僕が分からないとでも…」

宇佐美さんが急に言葉を切って更に顔を寄せてきた。吐息がかかる。顔を逸らしたいのに、腕で首を押さえられているから動かせない。どうやら宇佐美さんは私の瞳を見ているらしかった。
宇佐美さんの寄せた眉の間にできた溝が深くなっていく。

「え、どういうこと?」

宇佐美さんの困惑したような声がした。
腕が離されて顔が離れていき、ほっと息を吐く。

バチンっ!!!!

「ぎゃあっ!」

突然破裂音が響き渡り、同時に電気が消えた。
宇佐美さんから解放されて安堵したのも束の間、私は恐怖でその場にしゃがみ込んだ。
真っ暗闇の中で宇佐美さんの舌打をする音と、こっちに来た、とまたもや意味不明なことを呟やくのが聞こえる。

「これ持って、そこにいて」

宇佐美さんが動いたのが気配だけで分かり、飛んできて身体に当たったものを手探りで拾う。

数珠?

投げ寄越されたそれを触っていくと、つるりとした丸い粒が連なって輪になっていた。確かめようと目を凝らすが、全く見えない。自分の手すらも闇に飲まれてしまっている。
いや、待て、とそこで不穏な空気を感じとった。
電気が消えて暗闇になったからといえど、こんなに濃い闇になるだろうか。それに確かこの廊下の突き当たりには窓もあった筈なのに、その窓の灯りも何もない。ただ、墨のように黒い闇が広がっている。

「宇佐美さん?」
「うるさい、黙ってろ」

こんな状況でも頼れるのは様子のおかしい先輩しかおらず、震える声でその名前を呼んでみると、すぐ近くからぴしゃりと跳ね除けるような声が飛んできた。それから、宇佐美さんがぶつぶつと何かを呟き出した。その内容は全く分からず、耐え難い恐怖心が身体中を満たしていく。
身体の震えが止まらない。そこにいろと言われたが、今すぐ駆け出してしまいたい。けれど全身に力が入らなくて、それもままならない。
私はただただ、宇佐美さんの数珠を持って目を瞑っていることしかできなかった。


『おいで』


瞬間。
はっきりと耳元で声がした。


「いやっ」

声を振り払うように頭を抱え込んで小さく丸まる私の側で声はくすくすと笑い、

『大丈夫、僕が守ってやるから』

と穏やかに優しく言った。
声だけで微笑んでいることが分かり、その口元がなぜか頭に浮かぶ。
この声を、言葉を、私はどこかで聞いた気がする。
…私はこの人を知ってるのではないか。
恐怖の隙間で、不意にそんな考えが頭を過ぎった。

「誰…?」

伏せていた顔をほんの少し上げて、恐る恐る目を開けてみる。

果たして、“その人”は目の前にいた。

つるりとした綺麗な顔の形、通った鼻筋、均衡のとれた山形やまなりの眉、大きな瞳を縁取る長いまつ毛、そして両頬に棒人間が口の端で走っているような特徴的な黒子。
自分の身体の輪郭さえ認知できない闇であるはずなのに、彼の顔の細部まではっきりと見える。
それは、薔薇色の頬をした、手鏡の中のあの青年であった。

ゆっくりと伸びてきた白くて分厚い手が、私の手を包む。
暖かくも冷たくもなく、質量も感じないのに、確かにそこに“存在はしている何か”が触れている感触。
一気に全身を悪寒が駆け抜ける。

『ねぇ、僕はずっと君に優しかったでしょ?そんなに怖がらないでよ。ほら、もう時間がない』

言い聞かせるように訥々とつとつと言う彼の言葉を聞いて、掴まれた手を辿り視線を上げていった。
当時は幼すぎて分からなかったが、彼が身に纏っているのは軍服だった。
濃紺のその制服の所々に黒い染みがあり、外れたボタンの隙間から見える白いシャツにも染みがついている。
それが赤黒く変色しているのを見て、その衣服の色のせいで目立たなかったが、全身血飛沫を浴びたように血痕で汚れていることに気がつく。
止まらない背中の悪寒を感じるまま視線を顔まで上げていけば、軍帽の隙間から見開かれた瞳が私を見てうっそりと笑った。


『君は僕の物だ』


あぁ、連れていかれる。
予感とも確信ともつかない思考が自動的に浮かんだ。

彼がゆったりと私を引き寄せて抱き留めた。
ずぶずぶと彼の身体に自分が沈み込んでいくのが分かる。
良い匂いがする。ふかふかの布団に埋もれていくようで、酷く心地が良い。

良いんじゃない、と幼い頃の私が言い、それから、トキシゲくんとずっとずっと一緒にいられるんだから、と続けた。
そうか、そうだった。
手鏡の中の彼の名前は、トキシゲくんだった。
トキシゲ。
誰か同じ名前の人がいなかったか。
唐突に手に持っている物の存在を思い出す。
数珠が、酷く熱い。


「このっ…!!!馬鹿…!!」


遠くで切羽詰まったような声が聞こえた。
花のようなトキシゲくんの香りと別に、線香のような香りが混ざる。
数珠を持った手を誰かに引っ張られて、そこで私の意識は途絶えた。









弐.


そういえば昔、何か大切な約束をしたような気がする。


『いつになったら君は僕のモノになってくれるのかなぁ』
『それってお嫁さんになるってこと?』
『えぇ?何それ?』
『ドラマで、“俺のものになれ”って言ってて、どう言う意味?ってお母さんに聞いたら、“お嫁さんになってくださいってこと”って言ってた』
『あぁ〜なるほどねぇ』

ちゃぱ、と川の流れにつけた足を動かすと、飛沫と共に光が踊る。
いつかの遠い夏の記憶。
行ってはいけないと散々言われていた川に、言うことを聞かずによく遊びに行った。
目線の高さの岩場に置いた手鏡が、光を反射して白く光っている。
手鏡が話す。

『例えば、今その足を掴んで水の中に引き摺り込んだとしても、君が僕の所にきてくれるとは限らないもんね』
『え?どういうこと?』
『いやぁ、こっちの話、気にしないで。兎に角、君は特別だってこと』

うふふ、と含んだような笑いをする彼の言葉が満更でもない私は、ふぅん、と言って、また足を動かした。
ちゃぱ。
川底を黒い影が動く。

『いつかお嫁さんになってあげようか?』
『どうしたの急に。ていうか、何その上から目線。気に入らないなぁ』
『トキシゲくんから言い出したんじゃん』

少し不機嫌になる友達に、今度は私がくすくすと笑う。
膝小僧にきらきらと鏡の反射する光が落ちた。

『まぁ許してあげる。じゃあ今すぐお嫁さんになってよ』
『それは無理。だって私まだ子供だし…それに、結婚の前に“お付き合い”しなくちゃ』
『うわ〜何それ。君、ませてるね。そんな子だったっけ?』

とんでもないことを言い出すトキシゲくんに慌てて言葉を返すと、彼が不服そうに言った。

結婚に失敗したとよく嘆いていた母が言っていた、長くお付き合いして本当に優しい人か見極めなくちゃ結婚なんてしちゃダメよ、と言う言葉を思い出して言ったことだったが、本当のところよく意味は分かっていなかった。
勿論、結婚をするということの本当の意味も。

私はけらけらと笑った。

『私が、いいよ、って言うまでずぅっと優しくしてくれて、それにずぅっと守ってくれたら、大人になってお嫁さんになってあげる』
『えぇ〜。それ、ちょっと僕が不利すぎない?…まぁいいか。言質はとったし。
考えようによっては、時間をかけて少しずつ君を僕のものにしていくってことでしょ』
『また難しいこと言う』

私がむくれるとトキシゲくんが、ごめんごめん、と笑った。

『分かった。じゃあ、君を僕が守ってやるよ』
『うん』
『それでいつか、お嫁さんになってくれるってことで良いんだよね?』
『うん』
『あは、良かった。じゃあ来て』

鏡の中の彼が、もっと近くに、と手招きをする。
更に鏡に顔を近づける。
花のような良い匂いが鼻を掠めて、唇にぺとりと何かが触れた。



その日、私は人より早い初潮を迎えた。
鈍い腹の痛みと、足を伝う経血に驚いて泣いて家に帰ってからは、鏡の中の彼はもう2度と現れなくなり、怪異に遭遇することも無くなった。









「…い、お…、おい、おいっ!」
「…痛っ!」

額に衝撃的な痛みが走り飛び起きた。
思わず両手で痛む箇所を押さえる。

「あ、起きた」
「っつ〜…!痛いじゃないですかぁっ!」

じんじんと熱を持ち始めた額の一部分を摩りながら、横にいた人物を睨みつける。

「いやぁ、あんまり気持ちよさそうに眠ってるから腹が立ってさ。これをお見舞いしてやった」

すかすかとデコピンの仕草をしながら、その人、宇佐美さんは飄々と受け応え、それから一気に不機嫌な顔になっていった。

「ていうか、文句言いたいのはこっちなんだけど?!
お前のせいで大変な目に合うし、数珠やっちゃったから僕は自力で祓うしかなかったんだからな?!
しかもその数珠はおじゃんになるし!最悪!
お前なんか助けたからこんな目にあったんだ!感謝されても、文句を言われる筋合いはない!」

一気に不満不服の言葉を並べ立てて、フーフーと唸って怒る宇佐美さんを、ぽかんとして眺める。

あれ、待って、この人誰だっけ。

一瞬何がどうなっているのか分からなくなる。
会社の廊下、周囲に散らばる数珠の玉、微かに残る花の匂いと、目の前の宇佐美さんから漂う強い香の薫り。

「う、っぷ…」
「吐くならこれに吐けよ。お前のゲロの掃除なんて絶対にしないからな」

猛烈な吐き気に襲われて、憎まれ口を叩く宇佐美さんの言葉が終わるか終わらないうちに、差し出されたゴミ箱を奪い取った。

「うえぇ…げほっ…おえっ…おえぇ…」

袋がセットされたゴミ箱に次から次に吐瀉物が口から落ちていき、がさがさびちゃびちゃと耳障りな音がした。
男性の前で嘔吐するなんていう醜態を晒すことが人生で起きようとは。
というかそんなことよりも、この男の側から一刻も早く離れたかった。
だが吐き気で身動きが取れない。
そんな状態の私を勿論構うことのない宇佐美さんの面倒くさそうな声がした。

「ある程度ここで吐いていきなよ。身体の中に溜めておかない方が良いから」

その言葉に伏せていた目線を上げると、宇佐美さんが散らばった数珠の玉を一つ一つ大事そうに拾っているところだった。
そしてゴミ箱に目線を落として驚愕する。
吐瀉物はタールのように真っ黒な色をしていた。

「やぁ…ない、こえぇ?」

何これ、と言いたかったのだが、舌が回らずに変な声になる。
再び吐き気が込み上げてくる。

「身体の中の悪い物。お前、正直近寄りたくないくらい酷い状態だったから。
ていうか、その状態で篤四郎さんに近付いたのかと思うと、まじで殺したい」

質問には一応答えてはくれたが、その後に嘔吐えづき続ける私に対して酷い言葉を続けた。
なんだこれは、なんという地獄なんだ。
私の受難は更に続く。

「ねぇ、さっさと吐き切ってくれない?やること山積みなんだからさ。
あームカつく!貴重な週末の時間お前に割いてやってるんだぞ!僕は忙しいんだ!」

苛々とした調子で宇佐美さんが喚くが、そうは言われても吐き気は治らない。
宇佐美さんの罵倒には正直もう慣れつつある。
それよりも宇佐美さんの先程の言葉が引っかかった。

「やること…?」

吐き気の合間で短く質問してみる。
宇佐美さんは私の質問は無視するつもりらしく、拾い終えた数珠玉を丁寧に紫の布に包んでスーツの懐に仕舞い、代わりにスマホを取り出した。
そのまま手早く操作をしてどこかへ電話をかけ始める。

「もしもし?百之助?お前暇なんだから、ワンコールで出ろよ…あ?うるさい、お前の都合なんかどうでも良い。兎に角、今すぐ会社に迎えに来い…今すぐだよ、馬鹿。来なかったら、もうお前の祓いやらねーから。…
最初からそうしてろよ、クソ百之助」

電話の向こう側の百之助という人物に心の中で手を合わせる。
可哀想に、完全に八つ当たりである。
それにしても、あの優しかった宇佐美さんはどこへ行ってしまったのだろう。
こんな本性を持っておきながら会社であんなに穏やかに見せかけていたのなら、もはや天晴れである。
せめて心中でと、声に出さずに宇佐美さんへの悪態を並べていると、じろりと見下ろされた。

「百之助が迎えに来たら移動するから。自分のゲロ持ってきなよ。だからそれまでに吐き終えて」
「…えぁ…?私ですか…?」

思わず間抜けな声を出すと、宇佐美さんが舌打ちをする。

「お前以外に誰がいるんだよ。
それとも何?ゲロのこと?僕に持たせようとしたわけ?キモ!自分で持てよ、僕絶対に触らないから」

絶対に私の質問の意図は汲み取ったであろうくせに、わざと見当違いの方向から攻撃してくる宇佐美さんが眉を吊り上げる。
どこへ行くんですか?とか、何をするんですか?とか、当たり前の疑問は溢れるようにあったが、宇佐美さんの勢いにもうそれ以上質問する気持ちが削がれてしまった。
言われた通り、大人しく吐くことに専念することにする。
その間も宇佐美さんはどこへやら連絡を入れたり、何か不思議な行動(ぶつぶつと意味不明な言葉を呟いたり、手を合わせたり、手を動かしたり)をしていたが、吐き気でそれどころではない私は、ひたすらに気味の悪い黒い吐瀉物を吐き続けた。
漸く吐き気がマシになり少し経った頃、宇佐美さんのスマホが鳴った。

「着いた?あぁ、今から行く」

短くそう言うとスマホを懐に入れながら、宇佐美さんが私に視線を寄越した。

「行くよ」

私に逆らう気力は残っていない。
すでに二袋になった自分の吐瀉物が入った袋を持ってよろよろと立ち上がった。





参.


会社の外へ出ると、駐車場に見慣れない大きめの黒いSUV車がヘッドライトを点灯したまま停まっていた。山道を軽快に走る馬鹿でかいあの手の車である。
山に連れて行かれるのだろうか。一瞬の不安が胸を過るが、考えてみればこんなに目立つ行動をしているのだから、殺されることはないだろうと高を括る。呑気すぎるだろうか。もう危機察知能力が馬鹿になっているような気がする。
さっさと歩けと宇佐美さんに急かされながら、自分の吐瀉物が入った袋を持って車へ向かって歩くのは囚人にでもなった気分だ。

「おい、宇佐美巫山戯んなよ。俺はお前の召使いじゃねぇ…誰だコイツ」

車のドアを開けたと同時に文句を言い出した“百之助”さんが、私を認めて眉を寄せた。
私は私で車内灯で照らされたその姿を見て、不安感を募らせる。
“百之助”さんの、ツーブロックでオールバック、両の口端には縫合後、派手な柄シャツという出立ちを見て、明らかに“堅気かたぎではない臭”を感じ取ったからだ。

「はい、乗って」
「おい」

宇佐美さんは彼の言葉を無視して、両手が塞がっている私を後部座席に乗せるベく車の扉を開けてくれた。
袋を持ったままどうにかして、車高の高いその車に乗り込む。
一言、すいません、と車の主に声を掛けると、怪訝な顔をしたが一応頭は下げてくれた。
続いて宇佐美さんが助手席に乗り込む。

「家まで」
「てめぇ宇佐美、一言の説明もねぇとは言わせねぇぞ」
「うるさいなぁ、もう〜。道中話すから、とりあえず車出して」

ぞんざいに言葉をかけられた彼は舌打ちをして車を発進させた。




「で?事情を話せよ」

ちらりとバックミラー越しに興味深げに後部座席の私に視線をやると、運転手は宇佐美さんへ話しかける。

「あ?あ〜…そいつが自分で話すよ。僕はちょっと寝る。疲れた」
「あ?おい、宇佐美…くそ、本当に寝やがった」

宣言通り宇佐美さんは本当に眠ってしまったらしい。すぐに規則正しい寝息が聞こえて、隣で運転中の彼が悪態をついた。
それから、にしても珍しく消耗してんな、と独り言を呟いて、運転席の彼が再びバックミラー越しに私を見る。

「おい、お前」
「はいっ」

急に話しかけられて背筋を伸ばした。

「何か、変なことがあったか」
「変…?」
「まぁ、怪奇なことだな」

なぜそんなことを聞くのか、と訝しく思いつつ、あの出来事は怪奇以外の何物でもないため、はい、と答えておく。
すると彼の目が大きく見開かれて、それから、また平常の顔に戻り、よしお前、と呼びかけられた。

「俺はこういうモンだ」

横柄な奴だなと思いながら、彼が運転席のサンバイザーから取り出した紙を後ろ手に差し出すのを受け取って繁々と眺める。
紙は名刺だった。

【(株)ゴールデンパブリッシング社 月刊奇譚異聞クラブ編集部
  記者 尾形 百之助 
   (○○○ー△△△△ー××××)】

「尾形さん…」
「名刺受け取ったな?」

尾形さんがにやにやしながら私を見る。

「え?」
「俺は身元を明かした。記者だからな、お前の話を記事に書く可能性がある。分かったか」

偉そうに髪を撫で付けながら言う尾形さんに驚愕する。
類は友を呼ぶとはこういうことなのか。碌でもない奴の友達は碌でもない奴ときた。

「いや、ちょっと待ってくださいよ」
「待たん。今すぐお前をここで放り出してもいいんだぜ」

そう言って尾形さんは、いつの間に取り出したのかボイスレコーダーのボタンを押すと、ダッシュボードに固定された入れ物に置き、さぁ話せと、強めに要求してくる。
どうしようかと逡巡しゅんじゅんするが、ここで放り出されたらたまったものではないし、本当に放り出しそうな雰囲気が尾形さんにはある。
観念するしかない、と腹を括り、私は今夜自分の身に起きた出来事を語っていった。




「…というわけで、今に至ります」
「一つ聞くが、お前が持ち込んだその袋の中身はゲロか?」

ここまで聞いておいて最初の質問はそれかよ、と思うが素直に頷くと、それをシートに置いたら容赦なく殴る、と低い声で言われた。
私だってそりゃ自分の吐瀉物の入った袋を人様の車のシートに置こうとは思わないが、乗り込むときにちょっと置いてしまったことは黙っておくことにした。

「ところで、お前の家系に代々恨まれそうな先祖がいるか?」
「え?いや…私の知る限りいないと思いますけど…どうしてですか?」
「やたらと霊だの化け物だの、怪異が見える奴は?」

なんだ急に。
尋問のように繰り出される荒唐無稽な質問に戸惑う。

「…私は小さい頃に見えてたこともありましたけど…。今は見えませんし、家族に他に見える人もいません。
だから、どうしてですか。なんでそんなこと聞くんですか」

不安になって少し苛立ってくる。
そんな私の問いに一切答えるつもりはない様子の尾形さんは、呪いでも力を狙われたんでもねぇとなるとなんだ?、と恐ろしい独り言を呟く始末だ。もう勘弁してほしい。

「もう私質問に答えません」
「宇佐美との繋がりは?本当にただの会社の先輩後輩ってだけか?」
「…………」
「おい、放り出すぞ」
「すいません、多分、そうだと思います」

豆腐のような根性しか持ち合わせていない私は、尾形さんの脅しに簡単に屈して答える。
私の言葉に引っ掛かりを感じたのか、尾形さんが怪訝そうに眉を顰めて視線を寄越した。

「多分?なんだそりゃ」
「いや…昔、まだ変なものが見えてた頃に、宇佐美さんによく似た“ナニカ”に会ったことがあって」

会ったことがあってというか、常に一緒に過ごしていた。
今夜の出来事の後気を失っている間に見た夢から、芋蔓式に彼、トキシゲくんとの暮らしを思い出していた。
何故あんなにも濃密な時間を過ごした相手のことを、宇佐美さんに出会うまでとはいえ忘れていられたのだろう。
特に夢で見た最後の日のことは、忘れるに忘れられない記憶だと思うのだが。

「宇佐美に似た“ナニカ”?人じゃねぇのか、それは」
「人、じゃないと思います」

鏡の中にいた青年だ。人なわけがない。

「…考えても分からんな。
そういえばお前、宇佐美に数珠持たされたって言ってなかったか」

もっとしつこく聞かれるのかと思いきや、考えても無駄なことは深く考えない[[rb:性質> たち]]なのか、あっさりと話を変えてきた。
私としては過去のことを根掘り葉掘り聞かれるのも嫌だったので、些かほっとする。

「はい。借りたんですけど、弾け飛んでしまったようで」
「じゃあ、こいつ、数珠無しだったのか」
「あ、なんかそんなこと言ってましたね」

会社で苛苛しながら、数珠がなかったから自力で祓わねばならなかった、と言っていたことを思い出す。

「ははぁ。それでこの消耗した様子ってわけか。はは。おもしれぇ」
「あの、尾形さん」
「なんだ」

幾分上機嫌になった尾形さんが、前を見たまま答える。

「宇佐美さんが、祓うとかなんとか、そういうようなことを色々言ってるのって」
「あ?お前聞いてねぇのか。こいつには、そういう力があんだよ」
「そういう力って、霊能力みたいな?」

私の問いに、尾形さんが頷く。それから、面白げに口を開いた。

「そうだ、お前知ってるか。そういうのを祓うのに一番強力な方法」
「いや、知りません」

そんなものがあるなら、是非とも教えて頂きたい。

「化け物やら幽霊が嫌がるのは生命力なんだとよ。ただな、血は悪いモンを逆に寄せちまうらしい。
だとすると、何が良いと思う?」

尾形さんの問いに首を傾げる。

「なんだろう…排泄物とか?」
「あぁ、まぁ、ションベン振り撒いたり、糞を投げるっていう手もあるらしいが、それよりももっと強力なもの、生命力そのものみてぇなモンが男にはあんのよ」
「…精液…?」

私の答えに、ご名答、と言って尾形さんが、にやにやと笑った。
なんだこいつ変態か、と思いながらじっとりとその後頭部を見るが視線には全く気がつかないようで、なんだお前見かけによらず賢いじゃねぇか、と嬉しくもないお褒めの言葉を頂いてしまった。

「じゃあそんな賢いお嬢さんに、もう一つ質問してやる。
こいつは法具、まぁ今回の場合だとその弾け飛んだっていう数珠だな、が無いとその力を出せない。
となると、別の方法を取るしかない。しかも恐らくかなり緊迫した状況で、急がなければならない」

そこまでで一拍置くと、尾形さんがバックミラー越しに目を合わせて、さて、宇佐美はどうしたでしょう?と、まるで先生が生徒に質問するように問いかけてきた。
嘘だろ。もしかして。

「……自慰行為オナニー…した?」
「はは!エクセレーント!正解だ」

この上なく楽しそうな尾形さんだが、私は慌てて自分の衣服に白い染みができていないか、磯臭い匂いがしないかを確認する。

「最悪!変態じゃん!」
「その変態に命救われたんだから、感謝してほしいよね。あともう、今後絶対お前のこと助けね〜」

絶叫する私に、いつの間に起きたのか宇佐美さんが答えた。

「本当に、申し訳ありません」
「起きたのかよ」
「お前ら煩いんだよ。それにもう着くでしょ」

後部座席で深々と頭を下げる私のことは無視して、尾形さんと宇佐美さんの会話が続く。
宇佐美さんは、うん、と伸びをして、それから、あぁ見えたな、と少し穏やかな声で言った。
その言葉で前方に目をやる。

尾形さんと話すのに夢中であまり車の外を気にしいていなかったが、車はいつの間にか田舎道をゆったりと走行していた。
街灯のない道だが、尾形さんの所有する車のヘッドライトが強力なことと、ハイビームになっていて遠くまで照らしているためか、離れているその家が割りかしはっきりと見える。
それで、遠目には家の屋根だと思ったそれが、大きな門であることに気がついた。

「お寺…?」
「そ〜。実家、寺だから」
「そうなんですか?!」
「僕お坊さんだし」
「えぇっ?!」

こんな不遜な態度の僧侶がいるのかと驚愕していると、あぁ裏に回ってね、と宇佐美さんが言った。

「正門からなんて、あまりに不浄すぎて入れられないから」
「あぁ、了解」

尾形さんがハンドルを切って右折し、正面を通り過ぎていく。
その立派な楼門には達筆な文字で【卯月寺】と書かれた看板が掲げられていた。

「うげつじ?」

呟く私に宇佐美さんが答える。

「へぇ〜。読めないかと思った。お前馬鹿そうだし」

いや、もう本当に、なんて失礼な人なのだろう。
もう、きみ、とすら呼ぶつもりもない、慇懃無礼いんぎんぶれいな僧侶の後頭部を睨みつけてやったら、文句ある?、と聞かれて、いえ、と口篭る。
私たちのやり取りを聞いていた尾形さんが低く笑うと、着いたぞ、と言って車を止めた。



<続>