五−下,海中の月




 肆.




 老人が言った通り崖の上に御堂があり、岩場を伝って下に降りていくと巨大な巌窟がぽっかりと口を開けて待ち構えていた。入り口の岩に地蔵が彫りつけてあり、いかにもここで災いがあったといっているようで不気味であったが、入らなければならないのは分かっている。この奥にちよさんがいるかもしれない。
 洞窟の奥へ歩を進めていき、途中何かの塚とやっと立っているような朽ちた鳥居が立っている所を過ぎた辺りで様子が一変した。
 「もうやだ……」
 「うるさい、文句言うな。ここまで来たら進むしかないんだよ」
 息苦しいほどの闇だ。昔どこかの寺で体内巡りをしたが、その時の闇を思い出す。これまでの教訓から私を囮に使わせない為に、宇佐美さんに先導させてその着物の裾を掴んでいる。だからなんとか進めているが、宇佐美さんは迷いなく進んでいくのは一体どういうことなのだろうか。左手に宇佐美さんの着物の裾、右手に櫂を握りしめているが、この櫂がまた重たい。老人に指示された御堂の中に安置されていたボロボロの櫂を持って来るように宇佐美さんに言われ素直に持っているが正直今すぐに投げ捨てたい。なぜこの櫂が必要なのかを聞こうとしたら不意に宇佐美さんが、すん、と鼻を啜った。
 「近いな……」
 「何がですか?」
 宇佐美さんの呟きにそう問うたところで、強い刺激臭が鼻を突く。生き物の腐敗臭の中に潮の香りが混ざったような匂い。思わず握っていた着物を離して、手で口を押さえた。吐きそうだ。
 「うっ、臭い」
 げほ、と一度咳が出れば止めどなく出てくる。涙が滲み、嗚咽が止まらない。咳の隙間で、はく、と息を吸うと堪らない匂いが入ってきて身体が拒絶反応を示す。心なしか匂いがどんどんキツくなっていっている気がする。櫂に寄りかかって、杖をつくようにヨロヨロと二、三歩進んだ。刹那。次に地面についた櫂の先が空を切る。
 え?
 そう声にならない呟きを口の中に含んだ時には、手が空を掴んで自分の身体が落下していることに気がついた。
こんなのってあんまりだ。
瞬間、怒りとも焦りともつかない感情が爆発すした。
 「うっ宇佐美さん!!!助けろ、馬鹿ぁ!!!!」
 「ほんっと……腹の立つ奴……!!」
 吃驚するくらい近くで声がして、風を切る音と共に、ばさり、と大きな鳥が羽ばたいたような音がした。それから、ぐいと身体を引き寄せられる。焚き染めた香の香りとそして特有の煙のような濃い香りが、充満していた刺激臭を掻き消した。抱え込まれた頭と身体ががっしりとした身体に密着する。
 「ゔ、ゔざみざ……ぐるじ……」
 「え〜?なんだって〜?」
 身体を締め付ける腕の力の強さに抗う声をあげるが、無視した挙句に更にぎゅうぎゅうに絞められて、潰れた蛙の断末魔のような声が出た。思わずバンバンと宇佐美さんの背中を叩いて抵抗するが力は緩まない。訳の分からない所に落下している状況でやってる場合かと、噛みつこうとしたところで落下は唐突に終わりを告げた。
 「ぐえぇ」
 「つっ〜……!!!!」
 次に潰れた蛙の声を出したのは、今度は宇佐美さんだ。庇ってくれたのかは定かではないが、どうやら私の下敷きになってくれたらしい。私の方は宇佐美さんが下敷きになったおかげで地面に叩きつけられずには済んだが、その懐に入っていた硬い何かでしこたま肋を打ちつけた。痛みに悶絶して声にならない悲鳴を上げた。
 2人して暫く蹲って痛みが去るのを待ち、どちらからともなく立ち上がる。宇佐美さんの顔を見ると、酷い顔をしている。多分私も似たようなモノなのだろう。
 「どこですか、ここは」
 「知るか。僕に聞くなよ」
 明らかに機嫌が悪い宇佐美さんは苛々した様子で、これだから怪異は嫌いなんだ、とぶつぶつと呟いて歩き出す。ひとりで残るわけにもいかないので、一緒に落ちてきた櫂を拾ってその後を追いかけた。
 落ちた場所は砂浜だった。波が寄せては引く穏やかな音がいつまでも続く。視線を遠くに飛ばすと、落ちかけている陽を背にして穏やかな海に影が浮かんでいるのが見えた。
 「宇佐美さん、あれ」
 「ん……ああ。流石のセンサーだな。探す手間が省けた」
 私が指し示した方向を見た宇佐美さんが目を細める。
 「センサー?」
 「お前だよ」
 ちらりと視線を私に落として、再びすたすたと歩き出すその背中を追って質問を繋げた。
 「どういうことですか?」
 「前に言っただろ。これから怪異に出会うことになるって。そもそもお前は怪異を見つけやすいし、怪異に見つけらやすい体質だってこと。変なのが憑いてたから寄ってこなかったけど」
 説明しながらきょろきょろと辺りを見渡して、あったあったこれで良い、と打ち捨てられているボロボロの小船へ近づいて行く。それから船を海へ押し出し始めた。
 「えっ、まさかコレで海に出るんですか?」
 「そうだけど?」
 正気かと宇佐美さんの顔を見ると、船を波間に浮かべた宇佐美さんは片眉を上げる。
 「よし、乗れ」
 「いやいや、嫌です」
 冗談じゃないと断ると、宇佐美さんがやれやれと首を振って、それからにっこりと笑った。
「いいから、早く、しろ!」
「ぎゃ!」
 背中を思いっきり蹴られて、勢いよく身体が船底に転がった。痛みで涙が滲む。
「痛い!何するんですか!」
「お前がいないとあそこまで辿り着けないんだよ」
 自らも船に乗り込みつつ、多分、と付け足された言葉に、なんて無責任なと怒りが込み上げる。そんな私には頓着しない宇佐美さんは、ゆったりと朽ち果て掛けた例の櫂で波を掻いた。陸地がみるみる遠ざかっていく。
「こんな訳のわかんない所で、しかも宇佐美さんと死ぬなんてやだぁ……」
「あはっ。安心しろ、お前の骨はちゃんと拾ってやるからさ」
「なんてこと言うんですか……!」
 ちゃぷと波を掻きつつ愉快そうに笑う宇佐美さんに、半泣きになりながら食ってかかる。
 もうやだ。いつもこうだ。大体私も私だ。どうしてさっさと逃げなかったんだろう。今更になって後悔が込み上げる。見知らぬ人の身のことなど放っておけば良いものを。
 そんな私の思考を読んだかのように、宇佐美さんが鼻で笑った。
「後悔しても遅い。ていうか、怪異に関しては後悔するだけ無駄。お前はこうするしかないんだよ」
 目線はしっかりと波間に浮かぶ影に定めつつ、宇佐美さんが口端を上げる。
「今まで謎に素直に宇佐美さんに従ってましたけど、今後怪異に見舞われることがあったら、私は自分の身を最優先して脱兎の如く逃げることにします」
「馬鹿だなぁ。逃げられないって言ってんの。一度怪異に見つかったら、そいつを消すしかないんだよ。でも、お前に怪異を消す力はない。無能なお前と違って僕には怪異を殺す術がある。だからお前は僕といるしかないの」
 分かった?と小さい子に言い聞かせるように、宇佐美さんが首を傾げた。腹たつ。
「いや、だから宇佐美さんがひとりで怪異を消しに行けば良いでしょう。私が同行する意味が分かりません」
「お前時々僕に対して物凄く図々しくなるよな」
 ちらりと呆れたような視線を向けられるが、すぐに視線は影に戻る。絶対に見失わないようにしているように。
 そのまま静かに宇佐美さんの形の良い口が動く。
怪異あいつらは僕に近寄ってこない。逆に言えば、僕単体では怪異あいつらに近づけない」
「は?」
「あのねぇ、僕には怪異あいつらを殺す力があるんだよ?みすみす殺されに近寄ってくると思うか?」
 ペロリと赤い舌が唇をなぞり、ていうか自然に僕を避けるみたいなんだよねぇ、と呟いた目に一瞬狂気が滲んで、ぞくりと肌が粟だった。だがすぐにそんな気配はなりを顰めて、瞳は落ち着いた色を取り戻す。
「お前は僕といないと怪異に殺られる、僕はお前がいないと怪異を殺せない。何らかの形で怪異とエンカウントした時点で、お前が助かる方法は僕にくっついとくことなんだよ」
 淡々とそう締めくくられた説明に絶望する。前に卯月寺でされた説明を何となく飲み込んでいたが、それに更なる明確な筋がつき抗いようがないことを悟った。
 今後私がこういった不可思議な現象を避けるのは無理だと明言されている。となると、私の選択肢は宇佐美さんに助けを求める一択しかないわけで、一方宇佐美さんは私を助ける理由はなく、見捨てようと思えばいつでも見捨てられる立場であるわけだ。まぁ今回のように依頼が絡む場合は(ことそれに鶴見さんが絡むとなると)、その依頼を引き受けた宇佐美さんからしても私は必要なのだろうが。
「ああ、陽が沈んだな」
 自分の置かれた立場について想いを巡らせていると、宇佐美さんが呟いた。顔をあげたらいつの間にか太陽の代わりに月が静かに海面を照らしている。遠くに見えていたと思っていた影は、もはや実物が分かるくらい近くにきており、2人の人物がしっかりと抱き合っていることが分かった。特徴的な緩やかなウェーブのかかった髪からして、一人は恐らくちよさんだ。白装束の男性の首にしっかりと腕を巻き付けている。一方の白装束姿の男性は誰なのだろうか。
 薄っすらと月明かりに照らされた横顔をどんな人物かと目を凝らして確認できた瞬間、え、と間抜けな声が口から溢れた。隣にいる宇佐美さんが、ふぅん、と何か考えるような声を出す。その男性は、私も宇佐美さんも知る人物だった。
「月島さん?!」
 知人を呼んだ叫び声は彼には届かなかったようだ。相変わらず知人の目は虚空を見つめており、ちよさんを抱きしめる手だけが意志を持っているかのように固く引結ばれている。反応がない知人を見て動揺でおろおろと宇佐美さんの袈裟の裾を掴むと、引っ張るな、と引ったくられた。
「あの事件で暴れて停職処分になったらしいけど……こんなところに来てたとはねぇ。連絡がつかなかったのはそういうことか」
 ぶつぶつと呟きながら宇佐美さんの頭の中でだけで状況が整理されていく。私には全く分からない。
 月島さんは以前ちょっとした事件に巻き込まれた時に大変お世話になった刑事さんだ。その事件も怪異絡みだったから、私と宇佐美さんが関わることになったのだがそれはまた別の話である。
 兎も角その事件で、月島刑事は事件の容疑者とはいえ民間人に暴力を振るったということで停職という懲戒処分を受けた、というのは私も宇佐美さんから聞いて知っていた。私としては殴られて当然の人物だったと認識しているから、何だか釈然としないと思ったことを覚えている。だから私の中で月島さんは、正義漢という印象だったのだ。この状況が上手く飲み込めないが、場面だけ見たらどう考えてもー。
「月島さんがちよさんを……?」
「いや、逆」
 私の想像をあっさりと宇佐美さんが否定した。それから徐に船の上に立ち上がると、ほら、と縁から身を乗り出すようにして海を指差した。促されるままに私も身を乗り出して海底を覗き込む。
 海はすっかり落ちた帷を写して真っ暗だ。ちかちかと時折光るのは夜空に浮かぶ星だろう。通り過ぎた雲が月明かりを遮り通過していき、ゆっくりと明かりが戻ってくる。海面を覗き込む私、宇佐美さんが穏やかな水面に映り、それからその対面に映った像にひっと息を呑んだ。
 月島さんと、月島さんにしがみついているモノ。それはちよさんではなかった。
 恐ろしい程に白い肌は腐った魚の腹を思わせ、所々剥がれた皮膚から骨が突き出ている。身体は風船のように膨張し着物の裾から肉が溢れている。髪は溶け落ち、眼球ももうそこにはない。奈落のように黒い穴が空いているだけだ。そして強烈な腐敗臭。思わず込み上げる吐き気を抑える。
「うっ……月島さん……!!!月島さん!!!!!!!!!!!」
 このままではまずい。本能で分かる。水中に向かって大声で月島さんの名を呼ぶと、ゆったりとその奈落の闇を湛えた双眸が私に向いた。はっと船上に視線を戻すと、ちよさんが物凄い形相で私たちを睨んでいる。ぴくりと月島さんが動いた。
「月島さん!!こっちに来てください!!」
 手を伸ばす。月島さんの虚な目がゆったりと私に向いた。その耳元にちよさんがそっと唇を寄せて何か囁いている。ぞわぞわぞわと胃の腑から込み上げる吐き気と寒気が、体中を駆け巡った。
「やばいって……!ちょっと宇佐美さん何やって、」
 音沙汰がない宇佐美さんの方を見ると、片手に数珠を垂らして経を唱えている姿が目に入った。宇佐美さんの口端が歪に歪む。その瞬間風が吹いて腐敗臭が飛んだ。私たちの船がいる地点から吹き上げるようにして風が吹いているのに、船はぴくりとも動かない。次に宇佐美さんは手にした櫂を、月島さんに絡みつく海面の異形目掛けて突き刺した。信じられない光景だが、その櫂の先が異形を押さえつけた形になりその手が月島さんから離れた。同時に船上のちよさんが船底にひっくり返る。
「月島さん!!」
 もう一度名前を呼ぶ。月島さんの顔に意識が戻り、ぼうっと視線が彷徨い目が合った。それから徐々に驚愕した表情に変わる。
 「お、お前ら、なぜここにいる!?」
 「いいから!!早くこっちへ!!」
 当然の問いだと思うが、今は答えている暇はない。
 吹き続けている風の隙間から、早く!と叫んで手を差し出すと、月島さんが私の手を取った。船の縁に足を掛けて跳躍しようとする月島さんの足を、ちよさんが掴もうと手を伸ばした。一瞬、月島さんの目線がその手を捉え、それから海面に目線が移り恐怖の色が浮かぶ。すんでのところで月島さんの足を掴もうとした手は空を切り、月島さんの重みが私たちの船を揺らした。追いかけてくる腐敗臭に涙が滲む。
『許さぬ!!許さぬ許さぬ許さぬ許さぬ!!!約束を違えるつもりかえ?!』
 地の底から這うような女の声が響き渡り、金切り声を上げ続けている。もはや何を言っているのか分からない。それを宇佐美さんが、あは、と笑い飛ばした。
 「許されないのはお前の存在なんだよ。往生際の悪い女の勘違いはみっともない、なっ!」
 そう言った宇佐美さんが、最後の言葉と共にぐっと櫂を水底に押し込んだ。
 切り裂くような悲鳴と共に、ばしゃばしゃと水を叩く音とごぶごぶと水を飲む音が続く。ぐいぐいと櫂で異形の女が沈められている。女の手が大きく動き、どうにか浮上しようと藻搔いている。
「しぶといなぁ」
 そう言った宇佐美さんの顔を見て、身体が恐怖で強張った。爛々とした瞳、きゅっと上がった唇の両端、はぁと溢れた吐息。それは恍惚の表情。
「う、宇佐美さん……!」
 思わず宇佐美さんの手を掴む。この人にこれ以上させてはいけないと、咄嗟に身体が動いた。
「何する、」
「駄目です、宇佐美さん!」
 私の言葉に宇佐美さんの目が見開かれて、手が止まった。
『殺してやるぅぅぅぅ!!!!!月島の家の者も!!邪魔をする者も!!殺す!!』
 半狂乱で再び呪詛の言葉を吐き出したソレに、宇佐美さんが眉を寄せる。
「じゃあどうするんだよ、これ」
「俺がやる」
 困惑した私の代わりに月島さんが答えた。私と宇佐美さんの視線が月島さんへ注がれる。
 「ちよ、すまなかった。行こう、一緒に」
 月島さんがそっとちよさんが乗る船へ手を伸ばす。気がつけばいつの間にか起き上がっていたちよさんが、月島さんの手を掴もうと手を伸ばしていた。
「月島さん!」
「いや、いい。これでいいんだ。悪かったな、2人とも」
 平然とそう言う月島さんを止める間もなく、ちよさんの手が月島さんの手を掴む。月島さんが力強くちよさんを引き寄せた。月光の中、ちよさんの綺麗な髪が舞って髪に散った光の余韻を残したまま、音もなく月島さんの胸へちよさんが収まった。海面の像の異形のそれも、水の中で月島さんの胸に収まる。
『……どうして、もっと早く』
 辺りの音が消え、啜り泣く声が響く。刹那。
『ああああああ……!!!』
 啜り泣きは咽び泣く声に変わった。振り向くと、宇佐美さんが櫂を海面に突き立てている。その櫂を起点に、暗い穴がぽっかりと空き、ゆっくりと私たちの乗る船は穴へ吸い込まれて行った。




 


 伍.



 
 
 
 その昔。とある漁村にひとりの尼僧が旅の途中で立ち寄った。村では流行病が蔓延しており、見知らぬ余所者を村人たちは歓迎しなかった。それでもこの村の状況を見捨てておけぬと、尼僧は村の外れの巌窟に滞在し村人たちのために薬を調合することにした。尼僧は薬の知識があり、諸国を行脚する中で病気に関する知識もまた様々に心得ていた。村人たちの病状を見て、すぐに病の見当がついた尼僧には尚のこと見捨てられらなかったのだろう。巌窟は潮が満ちると海に浸かるような場所であったが、そんな時は水に沈まない所に寄せてやり過ごした。
 まず最初に治療されたのは、村外れの家に住む若者の両親であった。巌窟に近い場所に家があったので、興味本位で巌窟を覗きに来た若者に尼僧は薬を与えた。それから程なくして病にかかってしまった若者を、両親から離して巌窟で看病した。数日でたちどころに回復した若者は尼僧にいたく感謝し、また尼僧の村人を救いたいという優しい心に胸を打たれ、その試みに協力することにした。
 若者の協力もあり、村の者たちも少しずつ尼僧の薬を受け入れ始めた。徐々に流行病は治っていき村人たちは尼僧に感謝し、村人は彼女の為に御堂を建てた。尼僧は村人に請われてその御堂にもう暫く滞在することにした。若者は尼僧の元に足繁く通い、そして2人は恋に落ちた。
 平穏が崩れたのは、若者が年老いた両親に尼僧と一緒になるつもりだと告げたことによる。
 尼僧と共に旅に出ると言い出した若者を両親は許さなかった。若者には妹がいたが遠い村へ嫁いでいたし、両親には若者の他に子がおらず、両親の面倒を見るものは若者しかいなかったのだ。そういう現状があるにも関わらず(いやむしろ、そんな現状があったからなのか)それでも引かない若者に郷を煮やした両親は、ある噂を流した。あの尼僧は八百比丘尼で、人魚を食べた比丘尼の肉を食べれば不老長寿が手に入ると。
 村人たちは目の色を変えて尼僧を追いかけた。元々貧しい漁村である。不老不死の肉があれば高く売れるやもしれぬ。それに自分たちが食せば、病や飢えに怯えることもなくなると考えたのだろう。
 若者が魚を売りに出かけて村に居ぬ間に、尼僧はとうとう巌窟の奥へ追い込まれた。巌窟の奥には大穴が空いており、そこには流れ込む海水がいつも満ちていた。落ちれば助からぬと村人たちは近寄らないようにしている場所であった。
 じりじりと追い詰める村人たち。泣きながら、殺さないでと懇願する尼僧の声が洞内にこだまする。それも長くは続かない。
穴の水の中へ追い落とされた尼僧を、若者の父親が船の櫂で沈めた。藻がく尼僧の手を、村人たちがじっと見つめる。抵抗は長く続かず、尼僧は海の底へ沈んでいった。その形相たるや凄まじく、最初は皆尼僧の肉欲しさにやった行為であったが、恐ろしくなり誰も尼僧の遺体を引き上げようとしなかった。
 行商から戻った若者は尼僧を探し回るが、村人は誰も真実を話さない。愛おしい人を失った若者は、とうとう気が触れて巌窟で尼僧の幻を見るようになる。
 ちよを迎えに行く。
 尼僧の名は、ちよといった。ある日そう言い置いて若者は巌窟へ消え、そのまま戻ることはなかった。
 村人たちは尼僧が彼を黄泉へ連れていったのだと噂した。塚と鳥居は、どうか2人が悪さをせぬようにと祀ったものだ。その後穴は埋め立てられたのだという。
 この話がどこでどう伝わったのか、いつの間にかあの洞窟の奥は黄泉へ通じている、八百比丘尼が亡くなった人を黄泉へ連れて行ってくれるという伝承になった。
 「自分たちがした後めたいことに、理由をつけて忘れようとしたのかもしれんなぁ」
 老人はそう言って、話を締め括った。





 *




 

 夏の青すぎる空が眩しい。入道雲が大きく育っているのを、目を細めて見上げた。
「ぼけっとするな」
「痛っ」
 来た時と同じようにサングラスをかけた宇佐美さんが、背後から私の頭を叩いた。さっさと歩き出した宇佐美さんの背中にぶつぶつと文句を言いながら追いかけて、車の後部座席に乗り込もうと扉を開けるとちよさんが横にずれてくれる。
「すいません、狭いですよね」
「とんでもないです。私まで乗せて頂いて感謝しかないですから」
 ちよさんがふわりと微笑む。可憐だ……。助手席に乗る月島さんが、ちらりとこちらを見た。耳が赤くなっているのを私は見逃さない。にやにやと笑って月島さんを見ると目が合って、途端に凶悪な顔になる。不機嫌そうに前を向いて腕を組んでしまったのを、運転席に乗り込んだ宇佐美さんが怪訝な顔で見た。
 
 あの謎の空間で船ごと穴に落ちたあと、いつの間にか私たちは洞窟にいたらしい。らしい、というのは私は気を失っていて、気がついたら例のヴィラのベットに寝ていたからだ。飛び起きて居室へ駆け込むと、そこには月島さん、ちよさん、宇佐美さんが座っていた。
「宇佐美さん!月島さん!」
 名前を呼んでぼろぼろと泣き出した私を、ぎょっとした顔で2人が見た。目の前であんなことがあったのだ。そりゃあ私だって心配くらいはする。構わずに近寄って、2人の頭にそれぞれチョップを見舞った。
「いった!」
「おい、なんだ」
 突然の私の行為に対処しきれずに抗議の声を上げた2人を睨みつける。
「宇佐美さんはあんなことしちゃ駄目です!月島さんは自分をもっと大事にしてください!2人とも危なすぎます!も、ほんと!馬鹿!2人とも馬鹿だ!」
 怒りと安堵で語彙が崩壊した私はその場で号泣し、意味がわかっていないであろうちよさんが優しく宥めてくれた。私が泣き止むのを待って、その後それぞれがここに至るまでの説明をし合った。
 まず、ちよさんである。ちよさんは案の定私が金子さんに言った通り、婚約者のやばいストーカー気質に気がついてしまったのだそうだ。証拠は消したと金子さんは言っていたが、彼の大学時代のことを知る人とひょんなことから知り合い、そこから芋蔓式に色々なことが繋がったのだという。極めつけは、金子さんのパソコンの中にちよさんの秘蔵フォルダがあったらしい。その中身については、ちよさんは口をつぐんだ。余程酷い物だったのだろうか。
「とりあえず逃げようと思って、見つけられにくい場所を探したんです」
 とちよさんは語った。それがこの漁村で、彼女が予約した宿泊場所がこのヴィラだったらしい。ヴィラは3棟あり、私と宇佐美さんの宿泊先の横のヴィラにちよさんは泊まることにしていたという。
「ここについて、それから記憶が曖昧なんですよねぇ」
「恐らくもうその時点で怪異に呼ばれていたんでしょう」
 頬に手を当てて考える素振りを見せるちよさんの後を、宇佐美さんが引き取る。
「もしかして宇佐美さん、ちよさんがここに泊まってるって知ってました?」
「当たり前。当てもなくこんなとこ来ないでしょ。予約が2人になってたから、てっきり男と旅行かと思ったのはハズレたけど。来てみれば宿泊中のちよさんの気配がまるでないし、事件絡みだと困るなと思って一応月島さんに連絡入れたけど出ないし」
「いや、待って待って。まずなんでちよさんの宿泊先が分かったんですか」
 調査能力の高さが気持ち悪すぎて引いていると、それはほら色々コネがあるからね、と濁された。益々気持ち悪い。ストーカー能力は宇佐美さんも抜群に高いのでは。そんなことを思っていると、宇佐美さんがちよさんに向き直った。
「GPSの位置情報は弄ったんですね?」
「えぇ。あの人ならGPSくらい仕込むかと思って調べて位置情報を変えておきました。なぜか途中で復帰してしまって焦りましたけど」
 平然と言ってのけるちよさんに、すごい!と言うと、これでも一応そういう物を扱う勉強してたので、と笑った。
「じゃああの音声も?」
「音声?」
 私の言葉にちよさんが首を傾げ、宇佐美さんが口を開く。
「いや、あれは違った。怪異絡みだ。場所の特定もこの音声のお陰でできた」
「音聞いて分かるんですか?」
「あーまぁ僕にはね」
 宇佐美さんの言葉にそれまで黙っていた月島さんが、視えるっていうあれか、と口を挟んだ。
「前にも遺体の場所を言い当てたことがあっただろう」
「まぁそんなところですかね。それより月島さんでしょう。僕言いましたよね、海の近くには行かない方がいいって」
 宇佐美さんの言葉に月島さんが眉間に皺を寄せた。
「違う。お前は海に入るなと言ったんだ。近くに来ただけで、しかもこんなことが起こるとは思わんだろう。
それに祖父が亡くなって仕方なく来たんだ。風習かなんだかで、洞窟の奥に祖父の遺骨を持って入って……それから先の記憶がない」
「あぁ、そのお祖父さんですが、亡くなったのはもう数年前ですよ」
「は?おい、どういうことだ」
 月島さんが宇佐美さんに凄む。そのタイミングで玄関チャイムが鳴った。
「お、良いタイミング」
 宇佐美さんの双眸が三日月型に弧を描く。
「厄落としに全て話せと島の御仁を呼んでますから、その人から全て聞いてください」
 これ以上まだ聞かなければならない話があるのかと胃が重たくなった。

「すまなかった」
 老人は深々と月島さんに頭を下げた。
「どういうことなのか、説明をしてください」
 月島さんが憮然とした顔で老人に言葉を投げかける。
 玄関チャイムを押したのは、漁村で出会った老人だった。意気揚々と老人を招き入れた宇佐美さんは、月島翁が数年前に亡くなったことは伝えたので、とだけ言って月島さんの前に座らせたのだ。
「……あんたの祖父さんと祖母さんは2人して海で数年前に溺死した。祖母さんが死んで、それから次の年に同じ場所で祖父さんがな。年寄りが皆、月島の家の呪いじゃあ言うて怖がってな」
「呪い?」
「八百比丘尼の呪いよ」
 そこまで話し、老人は昔話を語って聞かせたのだった。
「……その若者っていうのが」
「月島家の人間やったということや」
 震えながら口を挟んだ私に、老人がため息をついて答える。
「嘘か本当か分からんが、村の年寄りが月島のとこの孫を呼べと比丘尼が夢枕に立ったと言い出してな。
ちょうどこの不漁が続いたり事故が続いたもんで、これは比丘尼の言う通りにせんと災いは続くいうことじゃないかという話になり、それで祖父さんが死んだと言って基くんを呼んだ……基くんが来る少し前に、そこんお嬢さんが来たんよ」
 怯えたような眼差しを老人がちよさんに向ける。老人が語るには、ちよさんは漁村に来るなり誰が話しかけても無視して洞窟に向かったのだという。ちよさんの方を見ると目があったが、困ったような顔をしているだけだ。覚えていないのだろう。
「いや、そんな状態で洞窟に行こうとしている女性がいたなら、止めるか、少なくとも警察に届けるなりするべきことはあったでしょう」
 そんな私の言葉に老人はただ首を振って、何も言わなかった。見て見ぬふりをしたのかと怒りが湧く。老人はそんな私をちらりと見て、そのまま話を続けた。
 その2日後に月島さんがこの島に着き、それから洞窟に案内したという。
「島の人間が死んだら、あの洞窟に遺骨の一部を持っていく慣わしがあるのは本当や」
「嘘はいけないでしょう、嘘は。何かしましたよね?呪いか、儀式か」
 宇佐美さんの言葉に老人は言葉を詰まらせ、それからボソリと“ビクニ送り”と呟いた。
「ビクニ送り?」
「そうや。7人1組で洞窟に入り、一番先頭の者が比丘尼に送られるいうことになっとる」
 老人の呟きを拾って私が返すと、宇佐美さんが、ああ7人岬か、と手を打った。青ざめた、を通りこして、もはや土色になった顔で月島さんが、なんだそれは、と返す。
「常に7人1組で行動する亡霊ですよ。7人岬に行き会った人は死ぬのですが、そうすると7人岬の中の1人は成仏でき、代わりに死んだ人が岬に加わるんです。この場合行き当たって魂を持っていくのは比丘尼なんでしょうけど。逆説的にいえば、7人岬は1人だけがあの世へいき、他は残るわけですからね。月島さんを比丘尼に持って行かせようとしたってことなのかな」
 軽く言ってのけた宇佐美さんを前に、月島さんが目元を手で覆って薄くため息をついた。
「……兎に角、儂らが知ることは全て話した。これで比丘尼のさわりは無くなったいうことでいいんやな?」
 重々しく言う老人に、宇佐美さんがええ勿論と返す。
「綺麗にしましたからご心配なく」
 優雅に微笑んだ宇佐美さんの顔を見て老人はほっとしたような表情を浮かべ、そそくさと立ち上がった。用は済んだので帰るのだという。疲れ果てて項垂れている月島さんに、いいんですか、と声をかけたが、もういい疲れた、とぼそりと力ない返答が返ってきた。
「いやぁ、これぞ人間の浅ましさっていう話だったなぁ。次の比丘尼が生まれる前に、ここの老人たちは早く死んだ方がいいよ」
 玄関扉が閉まる音を聞き届けて、宇佐美さんがにやりと笑って言う。いつもなら、縁起でもないことを、と咎めたと思うが今日ばかりは何も言うことがなかった。
 老人たちは自分の身可愛さに無関係な月島さんやちよさんを平然と危険に晒した。その身勝手さは昔話の村人たちと同じだ。こういう思想があったから尼僧のような可哀想な女性の怨霊ができてしまったのではないかと思うと、今後も同じことを繰り返すのではと想像してしまう。それに、尼僧は八百比丘尼ではなかったと後に分かったというのに、いまだに彼女のことを比丘尼と呼んでいる辺りに人の怖さと愚かさを感じる。ふと、あの異形の女性のことを思い出す。彼女がその尼僧だったのだろう。あの異形の尼僧はどうなって、私たちはなぜ逃げおおせたのだろうか。宇佐美さんに問うてみると、さぁ?怪異の考えなんて知らないよ、とあっさりと返された。
「最後にちよさんと比丘尼は引き離したけど。お前が止めたから殺し損ねた」
 宇佐美さんが私の目を覗き込んだ。その瞳をじっと見返す。
「だって……嫌だったんです。宇佐美さんにあんなことさせるの」
 そうだ、嫌だったのだ。私は宇佐美さんにあんなことをして欲しくなかった。最初に“怪異を殺す”と言う言葉を聞いた時には、それがどういうことなのか理解できていなかった。実際その場面を見て、やめてほしいと思った。話を全て聴いた今も思う。止めて良かったと。彼女を二度殺すようなことをさせなくて済んだ。怪異に立ち向かう術がない私が言うには、あまりに甘ったれた思考だとは分かっているが、それでも。
「あはっ。誰がなんの心配してんの?ばーか」
「痛いっ!」
 黙り込んだ私のおでこに思いっきり指を弾かれて、衝撃と痛みで悶絶する。本当に最低だ、こいつは。心配して損した。
 大きな声で文句を言おうとしたところで、案外もう気が済んだのかも、とちよさんが口を開いた。どういうことですか、と聞き返すと、言葉を探すようにちよさんが話す。
「いえ、私たちが助かった理由……。ただ若者に迎えに来てもらいたかっただけなのかもしれません」
 それからちよさんは視線を月島さんに向ける。
「あの時、私の中に確かに彼女はいました。月島さんに名前を呼ばれて、抱きしめられた時、悲しくて悲しくて堪らなかった。だけど何だか力が抜けた感じがしたんです。もしかしたら、私の中に彼女がいたように月島さんの中にも若者がいたのかもしれませんよ」
 そう締め括ったちよさんに、月島さんは何も言わなかった。



 







 
 「うわぁ、ちよさんお元気ですか?」
 「はい、お陰様で」
 電話口の向こう側で、朗らかな彼女の声が聞こえてきた。嬉しくて思わず自分の口が綻ぶのがわかる。
 彼女は現在金子さんから逃れて、新生活を始めようとしているところだ。肉親は亡くなって特に気にかける親族もいないというちよさんは、この際だから別の場所で生きていくということにしたらしい。その手伝いを事情を知る宇佐美さんや月島さんがしたようだ。
 金子さんには婚約者は見つけられなかったと告げた。相当落ち込む金子さんを目の前にしても、ちよさんのことを伝えたいという気持ちは湧かなかった。次はもう監禁でもなんでもして、ちよさんを外に出さなくなりそうな危うい気配があったからだ。
「幸い手に職がありますし、なんとか生きていけそうです」
 ちよさんの明るい笑い声がした。良かった、と思う。ふと、厳つい顔の坊主頭が浮かんだ。
「そういえば、月島さんとは連絡取ってます?」
「え、ええ。月島さんにはよくして頂いて……」
「ふふ。それは良かったです」
 少しだけちよさんの声に動揺が滲んで、思わず笑ってしまった。私が見るに、あの日月島さんはきっとちよさんに恋に落ちたに違いないと見ている。そしてきっとちよさんも憎からず想っているような様子だ。正直ちよさんの今後の安全を考えると、刑事である月島さんがついているのは心強いし安全だろうと思う。そういうことも踏まえて、勝手ながら2人がくっつけばいいのにな、と思っていたりする。
 ちよさんが、そういえば、と電話の向こうでふと口を開いた。
「あの島から帰る時に、月島さんから“どこかで会ったことがないか”と聞かれたんです」
「えぇ?!」
 ちよさんの言葉に、何その古典的文句?!月島さん大胆過ぎない?!と内心胸が躍る。そんな浮かれた私に、ちよさんは続ける。
「その時は、ないと思いますと答えたのだけど、後になって思い出したんです。子供の頃によく海でいつも同じ男の子と遊ぶ夢を見ていたことを。確か名前は“基ちゃん”」
 「え、それって、月島さんの下の名前じゃないですか」
 「そうなんです。だから」
 ちよさんが一旦言葉を切って、もしかしたら運命かなって、と感慨深げに言って、それから、なんてそれこそ夢見すぎですかね、と朗らかに笑って電話は切れた。
 

「運命ってどう思います?」
「ないね、そんなものは」
 ちよさんとの通話の後に宇佐美さんに問いかけると、片眉をあげて呆れた顔をしてばっさりと切られた。でも、と、ちよさんの言っていた夢の話を宇佐美さんにしてみる。これが運命でなく怪異じみた何かなら、こんなにも取り付く島のない話があるだろうか。どうか運命であれ。
「……いいんじゃない?運命ってことにしとけば」
 宇佐美さんは先ほど言っていた言葉を180度転換して適当なことを言う。
「なんですかそれ」
「いや、因縁も言い方変えれば縁やら運命になり得るだろうし、そういう見方が当人にとって幸せなら、それでいいんじゃないってこと」
 どこか含みのある宇佐美さんの言葉に引っ掛かりを感じるが、考えても仕方がないことを考えるなよ、と宇佐美さんに釘を刺されて、それ以上考えるのはやめることにした。
「執着も時を越えれば美談になるんだから、人間って分かんねぇ〜」
「いやもう、それ以上なんか不穏なこと言うのやめてくれません?」
 鼻の上に皺を寄せた私を見下ろして、宇佐美さんがふんと鼻を鳴らした。




<第1部−完>