壱.
時折白昼夢を見る。隙間時間や、疲れて呆っとした時なんかに、それはふと浮かぶ。
まずノイズのような音がして、それが漣の音だと悟る。
そして匂いがする。潮と生き物の死骸の混ざった匂い。
ー臭い。
そう思うと、どんよりと曇った空の色を模した海が現れる。
それは親父の郷里の海だ。
家は父子家庭で、母親は幼い頃に病気で亡くなった。親父は刑事だった。家族想いの良い父親からはかけ離れた人物だった。殴られこそすれ、微笑みかけられたことも、ましてや褒められたことなどない。何がそんなに親父を駆り立てるのか、当時の俺は知るべくもなかったが、兎に角仕事ばかりしていた。今なら何となく分からないでもない。きっと家にいるのが苦痛だったのだろう。単純に親父という人間は親に向いていなかった。その親父が、長期の休みだけは親父の郷里に俺を連れて行ってくれた。尤も親父は俺を置いてすぐに仕事に戻って行くのだが。だからそれは別に、親父との思い出の風景ではない。
祖父母は物静かな人々で、家の中にいると気が滅入るので日中は何をするでもなく外を彷徨いた。年寄りばかりの娯楽のない島である。遊び場を探して海辺や岩場を歩き回った。海岸をずっと先まで歩いた所に、絶対に立ち入るなと言われていた洞窟があった。大潮になるとそこは海に浸かり、潮が引くとその穴の中によく水死体が上がったらしい。障りのある洞窟だと地元では畏怖されていて、鎮めるつもりなのか洞窟の岩に直接地蔵の姿が掘り付けてあった。洞窟の奥は深く昏く、目視できるぎりぎりの所に小さな赤い鳥居と塚が先を塞ぐように立っていた。島の住人はそれを"ビクニさん"の塚と呼んでおり、そこからなのか、その洞窟で上がる死体も"ビクニさん"と呼称していた。
あの日は、ビクニさんを見つけるためにその洞窟へ行ったのだ。興味本位と度胸試しのつもりだった。
『こんげな所に来たら、連れていかれるよ』
そう話しかけて来たあの子を、俺はなんと呼んだか。黒々とした癖っ毛が陽に透けると、薄ら深い緑を帯びた。
『 』
俺の口が動く。多分名前を呼んだのだ。まるで昔からの友人か、幼馴染のように。
『基ちゃん』
そう俺の事を呼ぶその声だけは、はっきりと今も耳に残っている。名前も思い出せないその子のことを、俺は何故かはっきりと覚えているのだ。
中学生辺りから本格的に父親との仲が悪くなった俺は、めっきり祖父母の住む家へ行くことは無くなった。
それでもずっと彼女のことが忘れられず、高2の夏休みのある日、バイトで貯めた金を使って祖父母の家を訪ねた。
まず祖父母に彼女について尋ねた。知らぬという。2人とも70を過ぎた高齢者だから、記憶が曖昧なのかもしれないと思い、近所の顔見知りに尋ねて回った。皆一様に首を傾げるだけだった。小さな島の中の、それも数少ない子供のことだ。そんな子がいれば知らぬわけがないが、と勿論俺が思うようなことを、気のいい島民たちも言って思い出そうとしてくれるが、やはり分からぬという。
彼女の存在は俺の中に
それで高校卒業後は警察学校へ入り、その後数年を経て兼ねてより志望していた刑事になった。奇しくも憎しみすら感じる程嫌悪している親父と同じ仕事に就いたわけだが、そんな親父の姿を見ていたから知っていた。人を探すのに、最も適した職業は刑事だと。
しかし結局彼女は見つからないままで、俺はいつの間にか探すのをやめてしまった。記憶の中のやけにはっきりとした残像だけ残して、彼女はこの世から忽然と姿を消したのだ。
「基くんがこんげ立派になりなさって、じい様も鼻が高ぇやろうなぁ」
「あ……あぁ、いえ……俺なんかまだまだで……」
「そう言えるのがまた立派よ」
不意に声を掛けられて、海の残像が消える。まだ薄ぼんやりとする頭で返事をすると、満足そうな笑みが返ってきて、それからまた老人たちは自分たちの話に戻っていく。
話題を俺から他に移した(もっぱら家族と健康と人の葬式の話)喪服姿の老人たちが談笑するのを見ながら、ふと香った潮の匂いにあぁそうだ俺はここに居たのだと意識した。
祖父が亡くなった。
祖母は数年前に他界し、一人暮らしだった祖父の血縁である俺が島に呼ばれた。
本来喪主をやる筈の親父は祖母より前に死んだ。職務中の事故だった。親父の死よりも、祖父母の死の方が少しばかり堪えている。祖母は祖父が看取ったが、残された祖父を孤独死させてしまった。夏の最中で遺体が腐り、顔を見ることもできずに荼毘に付された。祖父母は唯一の血縁だったが、少しも孝行してやれず仕舞いだった。とんだ息子と孫である。それでも最後に何かしてやりたくて、久々に親父の故郷へ戻った次第だ。
幸い島民が皆良い人々で祖父の面倒もよく見てくれていたらしく、遺体を発見し俺の代わりにその後のことをやってくれたのも彼らだ。
今日はその礼を兼ねての振る舞い酒である。告別式の代わりになればと思ったのだが、老人が多いこの島では葬式が集まって酒を飲む口実になっているようで、曰く「慰労会のようなもの」らしい。酒宴の場に湿っぽさはなく、彼らはよく笑いよく話し、よく呑んだ。
亡くなる人も、送る人々も老人たちだ。亡くなった人を悼むというよりは、長い人生お疲れ様、といったところなのだろう。俺は島らしい大らかさだと好ましく思う。
「あぁ、そうや。言うとかんといかんかった。基くん」
老人の1人が思い出したように顔を上げて、空になった俺の杯を見て酒瓶を持ち上げた。大人しく杯を差し出す。
「はい」
「明日のビクニ送りまではおってくれるか?」
「ビクニ送り?」
俺の疑問形の返答を聞いて老人は、あぁそうか、と口の中で呟くように言った。
「島に古くからある風習でなぁ。ビクニ塚のある洞窟は知っとるか?」
勿論知っている。
「あの、海っぺりの」
「そうそう。そういえば、お前さん、ようあそこに入って怒られよったな」
目を細めて喉の奥で笑い、それから
「あの洞窟ん中の塚の奥に骨の一部を納めるんよ」
と静かに言った。
骨を、と呟く俺に、横で聞いてた別の老人が身を乗り出すようにして口を開く。
「昔、何百年も生きたっちゅう尼さんが放浪の末に辿り着いたのがあの洞窟やったんやと。
島の者がその尼さんに良うしてやったらしい。そんである日その尼さんが、自分はこれからこの洞窟から黄泉の国へ行く、良くしてもらった礼に島民が亡くなったらあの世まで案内するから遺骨を洞窟奥に納めるように、と言ったんやと。それから島民が亡くなると、骨の一部をあの洞窟の奥に置くようになった」
あの洞窟はあの世に繋がっとる、と締め括られた話を聞いて、あぁそうかと得心がいった。
島の人間があの洞窟へ入ることを禁じたこと、あの子が言った『連れていかれるよ』という言葉の意味、そして“ビクニ”という言葉が繋がる。
「忙しいかもしれんが、慣わしでは身内の者が骨を納めに行くもんでな」
「明後日帰るつもりだったので、問題ないですよ。行きます」
俺の仕事の心配でもしてくれたのか言いにくそうに言った相手に返すと、どこかほっとしたような表情を浮かべて、一応儀礼ではあるから準備は手伝う、と言ってくれた。
仕事を休むことに問題ないことが問題ではあるのだが、と酒を飲みながらぼんやりと思う。
本来刑事が数日のまとまった休暇を取るなどということはあり得ない。
では何故俺は3日も4日も休み、こんな所でのんびり酒が飲んでいられるのか。答えは俺が今、1週間の出勤停止命令を喰らっているからだ。追っていた
あそこへ行くのはいつ振りだろうか。
ふとあの洞窟のことを思い、芋蔓式に“あの子”が頭に浮かんだ。それから波の音、潮と生き物の死骸の混ざった匂いが順に連想される。
そもそも俺は何故躍起になって彼女を探そうとしていたのだろう。仕事まで刑事にしてーー。
「さぁ、じゃあそろそろお開きにしようか」
老人のうち1人が言った声に広がり出したイメージは途切れ、帰り支度を始める老人たちに倣って俺も立ち上がった。
*
夢を見た。
墨を流したような暗闇である。意識だけがぽかりとそこに浮かんだような感覚。
耳を澄ますまでもなく波の音が聞こえたが、それは反響していて洞窟の中にいるのだと理解する。
岩壁にちゃぷ、と水がぶつかる音がし、腕を真横に目一杯伸ばすと壁に触れた。
目をゆっくり瞬かせて、目を閉じているからではなく、空間の暗さなのだということを知る。
「……ちゃ……ど……ど……こ?」
居場所を探っているような声がする。
ここだ、俺はここにいる。
唇を湿らせて、それから大きく口を開いた。
ごぽ。
声が出ない。空気が、ない。
肺が何かで満たされていく。
水だ。ここは水の中だ。
まずい、死ぬ。このままではーー。
「見つけた」
耳元で女の声。
沈む身体に寄り添うように柔らかな肌が触れた。
それで自分が裸であることに気がつく。
豊かな乳房、柔らかな腹の肉、太ももの弾力、背に回された手。
やけにはっきりと細部まで伝わってくる。
俺の身体は動かない。まるで死んでしまったかのように。
沈む。どこまでも。そのままでー。
目が覚めて下半身に不快感を覚えて布団を剥ぐと、数十年ぶりに夢精していた。
「どうした、顔色悪ぃぞ」
「……いや、ちょっと寝過ぎて」
昨夜の妙な夢のせいで朝からずっと気分が悪い。足元に漂う浮遊感が消えない。重たい頭を振って答えると、老人が大きな口を開けて笑った。
「あらぁ、昨日飲ませ過ぎたかね」
俺に着物を着せながら顔を覗き込んできた老人から、高齢者特有の匂いがした。
夕刻15時。指定された場所に遺骨を持って出向くと、既に昨晩の老人たちが準備をしていた。
数人が白装束を着ているのを眺めていると、俺も着るのだという。
「あんたが喪主だから、1番だよ。白装束と、ほれ、裃も」
綺麗に折りたたまれた装束一式を受け取ったはいいものの着方が分からず四苦八苦してしまい、どれ貸してみな、と近寄ってきた老人に結局は着せてもらう形になった。
俺の他に白装束を身にまとっているのは6人。裃、袴まで身につけているのは俺だけだ。洞窟内には喪主を含めた7人組で入るのだという。
「喪主が先頭で骨を持って進む。先頭が“あっち”に連れて行ってもらうんやからな」
説明しながら手渡された布を見ると“一”と漢数字が書いてあり、広げたら布の両端に紐がついている。他の6人を見ると、各々その漢数字の書かれた布を顔を覆うように布についた紐で頭に結んでいるところだった。
「まぁ、儀礼やから固く考えずに、骨壷を洞窟ん奥に置いたら、皆んなで戻ってくればいいだけだから」
そう言いながら、老人は骨壷を白布で覆う。その上から筆で“御前”と書き込んだ。
「オサキ?」
「みさき、と読む。これが連れていく魂ですよという印になる」
老人は骨壷を手にしてそう言うと、ぼそりと呟いた。
「間違いなく連れて行ってもらわにゃ困るでね」
入れ替わりに顔に“二”の布を巻いた老人がやって来て俺の背を押す。
「さぁさっさと終わらせちまおうか」
俺は“一”の布を顔に巻く。ちらりと海の方を見ると、薄らと布越しに夕焼けが美しく穏やかな波を染めているのが見えた。無言で渡された骨壷は、何故か先程よりもずっしりと重量を増したように感じられる。
漣と7人分の衣擦れの音だけが静かに漂うように聞こえ、俺たち白装束の一向は洞窟の中に吸い込まれるようにして入って行った。
弐.
「申し訳ありませんが、人探しは専門外ですし」
「専門家にあれこれ頼んで駄目だったから、貴方に頼んでいるのではないですか」
「金子さん、落ち着いてください」
男が身を乗り出すと、迷惑そうに宇佐美さんが身を引いて言った。
金子と呼ばれたその男(一般的に見れば整った部類に入るのであろう好青年といった容姿だが、宇佐美さんを目の前にするとどうしても凡庸に見えてしまう。それはきっと彼の醸し出すよく言えば優しい、悪く言えば頼りなさそうな雰囲気によるところも大きいだろう)は乗り出していた身を引き、椅子に腰掛けて弱々しく口を開く。
「霊能力でもなんでもいいから、兎に角彼女を見つけて欲しい……頼む……もう手がないんだ」
肩を落とし、疲れきった様子で項垂れているその姿は痛々しい。
非難の視線を宇佐美さんに送ると、なんだよ、とでも言いたげな顔でいつもの如く片眉を上げて見せた。
可哀想な金子さん。宇佐美さんには心がないんですよ、と心の中で手を合わせて金子さんに向き直る。
「金子さん、すいません、まずどうして宇佐美にこの話を持って来られたのか、伺ってもよろしいですか?」
「はぁ?お前勝手に」
「はい、実は御社の社長の鶴見さんには良くして頂いておりまして。宇佐美さんに相談するといいとアドバイスを頂いたのです。事情を話せば協力してくれるからと」
私に対して牽制の言葉を言いかけた宇佐美さんを制すように早口でそう言うと、そう言った事情にお詳しいとお聞きしまして、と金子さんは小さな声で付け足した。
「あぁ〜なるほど、社長のご紹介ですか」
宇佐美さんが今にも中指を立てんばかりの形相で私を睨んでいることは気がついているが、はぁはぁと相槌を打ってみる。
どうせ遅かれ早かれ鶴見社長の名前が出ればその時点で、宇佐美さんはこの話を受けざるを得ないのだ。全く無駄な足掻きである。
「……詳しくお話し聞かせて頂いていいですか?」
不服さを言葉の端々に滲ませてはいるが、案の定、宇佐美さんが金子さんに向き直ったのを見て呆れてしまう。
「最初から素直に聞いてりゃいいのに……痛ぁっ!!!」
テーブルの下の太ももに激痛が走り、痛みに飛び上がって悶絶していると、ふんと宇佐美さんが鼻を鳴らした。
「煩いな、デブ」
酷すぎる。
宇佐美さんがテーブルの下で私の太ももの肉を捻りあげたのだ。極めつけのこの暴言。
この一連の行為はパワハラ、モラハラ、セクハラのアソートセットだ。
言いつけてやる!鶴見社長に!絶対に!
文句を言おうと私が息を吸い込んだのより数秒早く、金子さんが慌てたように口を挟んだ。
「探して欲しいのは、私の婚約者です」
それから徐に手帳から写真を取り出して、私たちの前に差し出す。
「彼女を探してほしい」
その真剣な目に思わず居住まいを正して座り直したら、宇佐美さんがぞんざいに写真を手に取った。
「お名前は?」
「ちよ、立脇ちよ、です」
私と宇佐美さんはしげしげとその写真に視線を落とす。
金子さんの探し人は、癖のある黒髪を風に靡かせて写真の中で幸せそうに笑っていた。
*
金子さんは取引先の会社の社長ご子息だ。今は修行中とのことで、営業職として働いているらしい。関連事業の担当者が宇佐美さんと私に変更になったので、挨拶周りで出向いたのだ。そこで、金子さんに夕食に誘われ今に至る。相手会社の社長子息ということもあり、無碍にはできないという宇佐美さんの判断だった。
「まずは、このような食事の場でいきなり不躾な頼み事を一方的にしてしまって、大変失礼致しました」
深々と頭を下げた金子さんの旋毛を見て、宇佐美さんが思いっきり眉を顰めたが見なかったことにする。代わりに、鶴見社長の名前が出てからずっと気になっていたことを言葉にしてみた。
「丁度前担当が退職したタイミングで、私たち2人が担当に指名されたのですが、それは金子さんに引き合わせるためだったのでしょうか」
「いえ、私にもその点が意図的なものなのかは分かりかねますが……ただ鶴見社長からは相談に乗ってくれる2人が会いに行くからと言われていまして。特に宇佐美さんに相談するようにと」
いやそれはどう考えても意図的だろ、と金子さんの言葉に白目を剥きそうになる。この会社に入ってからちょくちょく感じることだが、鶴見さんはどうも人を掌で転がすように使う所がある。いつの間にか気がついたら彼の駒として動いているような感覚だ。こういうことをされて宇佐美さんは不快ではないのだろうかと、ちらりと顔を見るが平然としている辺り彼にとってそこは別に問題ではないのだろう。
宇佐美さんが、で?とでも言いたげな顔で口を開いた。
「婚約者を探して欲しいという依頼をなぜ私のような者にすることになるんです?
先ほども申し上げました通り、私は人探しのプロではありませんが」
「はい……その、ちよは行方不明になっているわけですが、その行方不明のなり方が少し変なのです」
「変?」
少し俯いてぼそぼそと歯切れ悪く喋る金子さんに、宇佐美さんがやや苛々した口調で問いかける。
どうやら、この2人はあまり相性が良くないらしい。金子さんはどうも説明があまり上手な人ではないようだ。これで良く営業やってるな、と思うが、そういえば自己紹介の時に元々IT技術者だったと言っていたことを思い出して腑に落ちる。
宇佐美さんはコミュニケーションが円滑に進まない相手が嫌いである。そして宇佐美さんは不要な相手に気を使わない。2人に会話させていたら宇佐美さんの苛立ちが募っていき、態度にあからさまに出しはじめるのは明らかだ。
「あの、金子さん、順を追って話してください。まず立脇さん……ちよさんはどういった方で、どのようにお知り合いに?」
会話の先導役を買って出るべく金子さんに問いかけると、俯き加減のままちらりと視線だけを寄越して、それから机の上で組んだ手に再び視線を落とした。
「ちよとは、大学のゼミで知り合いました。彼女が1年生で僕が3年生の時です」
「へぇ。じゃあ結構長くお付き合いされたんですね」
「あ、いや……。実際に付き合ったのは仕事を始めてからです」
興味が全くない様子の宇佐美さんとは反対に、興味津々で反応した私に対して金子さんが決まり悪そうにもごもごと歯切れ悪く返す。
「大学時代の僕は根暗な、俗にいう陰キャでした。
彼女が入学してきて、初めて挨拶をした時。僕は一目惚れをした。彼女の方は多分僕に気付いてもいなかったんじゃないかな。ゼミといっても、何十人と学生がいますからね。
だけど僕はどんどん彼女に惹かれていき、大学院に進学した理由も彼女と一緒に卒業したいという気持ちだけでした」
金子さんはふっと笑う。
「僕は彼女と結婚するために、並大抵ではない努力をしました。彼女の理想の男性を徹底的に調べ、実践した。大学在学中はひたすらに努力を続けました」
金子さんは彼女の好みに合わせて身なりを整え、身体を作り、コミュニケーションスキルを磨き、趣味を変え、性格さえも意識して変えるようにしたという。
好きな人の為に努力をしてアプローチをして結ばれるなんて、ロマンチックな話だと思う。
うっとりしている私の横で、宇佐美さんがふんと鼻を鳴らした。
「いくら姿形を変えて相手好みになったところで、相手がそれに気が付かなければ無意味でしょう。
本当はどうやって、ちよさんに近づいたんです?」
「嫌な言い方しますね、宇佐美さん」
やけに突っかかるなと、うっとりとした気持ちを台無しにされてムッとする私に、金子さんが柔らかく笑った。
「実際宇佐美さんの仰る通りです。私も彼女に近づかなければ意味がないと、そう思いました」
単純接触効果って知ってしますか、と金子さんが穏やかに続ける。
「接触回数が多いほど惹かれやすくなるっていう心理学のやつですか?」
「ええ、よくご存知ですね。まぁ少し補足をするなら細かな条件があるんですけどね」
昔の知識を引っ張り出して答えた私に先生のような口調の金子さんが言うには、単純接触効果とは厳密に言うと接触回数によって印象に残りやすくなるという現象のことを指すのだという。言い換えれば、良い印象だけでなく悪い印象も残りやすいということだ。
「そして厄介なことに、ポジティブな印象は10回以上の接触になると更新されず、逆にネガティブな印象は回数制限なく更新されていくという縛りがあるんです。
要するに10回の接触内でポジティブな印象だけを残し、彼女に僕を好きになってもらう必要があったわけです。そこで僕は考えた」
嬉々として語る金子さんの頬が蒸気している。
「彼女との10回の接触も彼女好みに演出しようと。僕は綿密に計画を練った。
大学在学中は僕のことを知っている人間がいますので、万が一彼女に僕の本来の姿がバレてはまずいと思い、卒業後に彼女と出会うことにしました。
最初の3回は偶然を装いました。シンクロニシティを感じさせることは心理的に強い影響をもたらします。
いずれも彼女が好む場所や、趣味に関する場所で出会うように出会いを設定しました。人は類似性がある人物に好感を抱きやすい。
それから、デートの約束を取り付けました。1回目のデートは警戒心を抱かせない為に昼間に人が多い公の場所で、次のデートでは夕方にややプライベートなレストランで食事、2回目のデートで食事後にバーへ、というように少しずつパーソナルな距離を近づけていきました」
「ちょ、ちょっと、待ってください、金子さん」
それから、と途切れることなく喋り続ける金子さんの、心理学的知識を散りばめた恋愛スキームを聞くうちに胸焼けがしてきた。違う違うそうじゃない、とどこかで聞いた覚えのあるようなフレーズが頭を過ぎる。
「それって全部大学卒業後の話ですよね?偶然装うっていったって無理ありません?毎日見張っているわけでもあるまいし……」
自分の言った言葉に自分で、あ、と声を上げた。そのまま声を出せないでいる私の後を、淡々と宇佐美さんが引き継ぐ。
「ストーカーですね?しかも、その様子だと大学在学中からずっとしてたでしょ」
「ストーカーってそれは語弊がありますよ。ただ僕は彼女と結ばれる為に彼女のことを知ろうとしただけです。どんな人だって好きな人ができたら、その人のことを調べるでしょう?」
金子さんが何も悪びれることなく宇佐美さんにそう返す。やばい、サイコパス濃度の高さに吐きそうだ。
「……えぇっと……ちよさんが婚約者ということは、じゃあ、金子さんの恋は実ったわけですね?」
「そうなんです!出会ってから2ヶ月後、ちょうど10回目のデートでプロポーズして、彼女もOKを出してくれました。あの時は嬉しかったなぁ。僕の長年の努力が身を結んだ瞬間でした」
どうにか振り絞って出した言葉に、金子さんが被せるように歓喜の言葉をぶつけてくる。
最初に感じていた甘い高揚感は跡形もなく消え去り、ただただ目の前の金子さんが気持ち悪い。この男と結婚し人生を共にするくらいなら、ちよさんは行方不明になって良かったのでは、と思い至った所である考えが浮かんだ。
「もしかして、ちよさんは金子さんのその、色々な行為を知ってしまったのではないですか?それで行方を眩ませたのでは」
「それはないと思います」
私が口にした問いを、金子さんはあっさり否定する。
「行方不明になる当日まで僕たちは仲睦まじく生活していましたし、そもそも証拠になるものは全て抹消してますから彼女に知れる筈がありません。
それに、最初にお話した行方不明のなり方が変だという話なのですが」
金子さんはポケットからスマホを取り出して操作すると、私たちに画面を見せてきた。そこにはスクリーンショットで撮影された地図アプリの画面が表示されていて、赤い点が海沿いの岩場についている。
「この赤い点はちよの位置情報です。この場所はここから遥か800キロも先にある。
僕はこの日の夕方にいつものように彼女に帰宅の旨を連絡し、彼女のGPSを確認しました。その時はちよの声は普通でしたし、位置情報も自宅最寄りの駅でした。その5分後に携帯をGPSを開いたら、位置情報はこの場所を示し、それから消えて、今はどこにいるのか分かりません」
「えぇ?!婚約したのに、GPSで監視してるんですか?」
「勿論です。色々と心配ですから。
それに盗聴アプリもちよのスマホに入れていたのですが、GPSの位置情報がおかしくなってから盗聴器から変な音がするようになり、今は何も音を拾ってくれなくなりました」
当たり前かのようにして話を続ける金子さんの言葉に眩暈がした。
「変な音?」
すかさず飛ぶ宇佐美さんの質問に、引っかかるのそこかよ、と突っ込みたくなるが喋ると吐きそうなので黙っておく。
「えぇ。これです」
金子さんがスマホを操作し音声を流した。
微かなノイズ音の奥で、こぽこぽこぽりという音が聴こえる。そして、ざーという耳障りな音。
「水中……?」
「そう聞こえますよね」
聞いたままの感想を述べると、金子さんは困ったような顔をしてスマホをしまった。
「GPSもスマホから飛ばしているので、GPSが消えたということはスマホの電源が落ちたということです。
この盗聴アプリもスマホの電源が切れれば作動しないものなので、GPSが切れた時点でこの音も切れる筈なのですが、音だけはGPSが切れてその後3日程鳴り続けました」
今は止まってしまいましたが、と続けて項垂れる金子さんを宇佐美さんがじっと見ている。
あぁまただ、この目ー。
その横顔を盗み見て思う。時折宇佐美さんが見せる何かを見透かすような目が、私にはどうしても薄君悪く映ってしまう。
宇佐美さんがすっと目を細めて口を開いた。
「その音声データを頂けますか?」
「構いませんが……何に使うんですか?」
金子さんが訝しげに問い返すと、宇佐美さんはにこりと笑って首を傾げる。
「さぁ?今は分かりません。使えるかもしれないので、欲しいと思っただけです」
そんなわけがない。
その胡散臭い笑顔を見て内心で悪態を吐く。宇佐美さんが目論見なしに動くわけがないのだ。一体何が見えて、何が聞こえたのか。
「あぁ、それとこちらとしても色々調べるのに入り用ですし、そこは援助して頂かないと困りますが」
「その点はご心配なく。領収書を見せていただければ必要経費はお支払いしますし、もし見つけていただければ成功報酬もお支払いします」
もやもやとどこか気持ちの悪さを抱えている私とは裏腹に、2人は契約成立とばかりに笑顔を交わし合った。
*
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
私はいつ選択を間違えたのだろうか。
もう随分遠くまで来てしまった。誰も助けてはくれない所まで。
息苦しい。側にその存在がなくても、ねっとりと絡みつくような気配がこびりついて離れない。
私はただ優しい誰かに普通に愛されたかっただけなのに。
『愚かで可哀想な子。私が力になりましょうか』
美しい声の囁きと共に、こぽこぽと水中で弾ける水のような音が聞こえた。
『ちよ』
婚約者は私のことをそう呼ばない。じゃあ一体、この声は誰の。
『そうだお前は、ちよだ』
そう、私はちよだけど。
不意に私の唇が動いて、声帯が震える。
「見つけた」
何を、あるいは誰を。
私は私が発した言葉の意味が分からないまま、得体の知れない何かを胸に抱いた。
参.
「で?なんですか、これは」
「何が?」
平然とレンタカー(それもかなりグレードの良いやつ。この後金子さんにたかるつもりだ)を運転する宇佐美さんの横顔を睨みつけると、ほら海だ、と言って頭に乗っていたサングラスを目元に落とした。
金子さんからの依頼を受けて3日程何事もなく経過し、宇佐美さんが1人でどうにかするのだろうとそっとしておいたら週末の夜に急に出張命令が下った。
翌朝の土曜日出発で泊まりでの出張だと言われた先はとある島だった。勿論仕事上の先輩である宇佐美さんに同行という形である。名目は新たな旅行プラン開拓のための下見というもので、もう夏で旅行シーズンに入ってしまっているというのに意味不明な話だ。しかもだ。先日の金子さんの話もあり、行き先が海の近くだというのが引っかかる。
「前も言いましたけど、何かあるなら前もって言ってくださいよ。ちゃんと説明を」
「うるさいな、お前。指示があっただろ。下見だよ、新しい旅行プランのさ」
食い下がる私に軽く舌打ちをして面倒そうに宇佐美さんが言う。それから、まぁついでに人探しもな、とボソリと付け足した。
「やっぱちよさん捜しでしょ?!いやぁ!!降ろしてぇ!!」
「だぁから、うるさいんだよ、お前は!こうなるから言いたくなかったんだ!」
ぎゃあぎゃあと言い争う我々を乗せて、車は大きな入道雲に向かって走る。夏の空は高く、太陽を反射した海の波がきらきらと光った。まるで平和そのもののような、のどかな風景が眼下には広がっていた。
宇佐美さんが車を停めたのは、私がそろそろ観念して文句の言葉も尽きた頃だった。車は一軒の別荘風の家の前に停車した。同じような建物が3軒ほど並んで建っている。先に降りて行った宇佐美さんに続いて車から降りた。
「うわぁ素敵……」
どこもかしこも白い家の壁に反射する陽光が眩しい。波の音が近く聞こえてくる。家の横を通る脇道が海に続いているのだろう。
「一棟貸しのヴィラだってさ。管理人さんは本土の人らしい。先に来て色々用意してくれたって」
そう言いながらポストの横に設置された番号式のキーボックスを操作して鍵を取り出すと、さっさとしろと言わんばかりの視線を寄越されてぎょっと目を見張った。
「えっ、ここに泊まるんですか?宇佐美さんと2人で?」
「文句あるなら外で寝ろよ。ていうか何、一丁前に警戒してんの?勘弁してよ気持ち悪い」
なぜ私が宇佐美さんにげんなりとした顔をされなければならないのだろう。本人に直接文句を言えば数百倍の言葉で嫌味が返ってくることは明白なので、もごもごと口の中で文句を言うに留めた。荷物を持ち直して、さっさと先に行ってしまった宇佐美さんに続いて門扉をくぐる。
敷地内は管理が行き届いていて、綺麗に整えられた植物たちが気持ちよさそうに風にそよいでいる。広い玄関に足を踏み入れたら、ふんわりと潮の香りがした。視線を奥にやると開けられた大きな窓から風が入り込んで、カーテンが揺れている。窓の向こうには、ウッドテラスとその下に広がる草地、そして更に奥に海が見え、室内のリビングからその風景が眺められるようになっている。まるで映画のワンシーンのような光景に感嘆の声を吐いてしまった。この開けた景色はきっと夜に素敵な夜空も見せてくれるのだろう。カップルや夫婦のふたり旅に良さそうな宿だ。
「ふぅん。まぁ良い部屋だね。浮気旅行にもってこいじゃない?」
「ちょっと……なんてこと言うんですか」
自分が考えていたプランがそのまま宇佐美さんの下世話な一言に書き換えられてムッとする。そんなことはお構い無しに宇佐美さんが鼻で笑った。
「ここなら人に会うこともないし、寝るしかやることなさそうだし?"大人だけの静かなひと時を"なんて唱えば浮気カップルが引っかかってきそうだろ。それならある程度価格設定も高くしていいでしょ。量見込めないんだから、単価上げて客が入るプラン考えないと」
ズケズケと嫌なことを言う宇佐美さんに唖然としていたら、お前それでも本当に広告売ってたわけ?と片眉を上げた。これで仏門に入っている僧侶なのだというのだから呆れる。
「私は広告の仕事を感動と共に商品価値を伝える仕事だと思ってます。宇佐美さんみたいに下品な発想は私にはなかったですね〜。見解の相違ってやつですかね。そんなユニークな見方もあるんですね、新発見です」
にっこりと笑って返すと、宇佐美さんが一瞬呆気に取られたような顔をした。自分でもこんな嫌味が口からすらすら出た事に驚くが、それよりも宇佐美さんを黙らせたことが嬉しい。こんな風になったのはこの人と一緒に仕事をしているからだろうか。だとしたら、宇佐美さんの自業自得過ぎて笑える。そんなことを考えていたら宇佐美さんが意外にも愉快そうに喉を鳴らして笑って、我に返った。宇佐美さんは口端をゆったりと持ち上げ、見下げるように私を見て口を開く。
「あはっ。それはそれはご立派で……。お前みたいなご立派な奴に最適な仕事があるぞ。近くに漁村があっただろ。そこに取材に行ってこい」
「なんで私が」
「感動と共に商品価値を伝えるんだろ。じゃあその“価値”とやらを見つけないといけないでしょ」
さっさと部屋に上がり廊下を歩いていく宇佐美さんの背中を追いかけて抗議をすると、背を向けたまま平然とした声が返ってくる。その態度に苛々しながら、絶対に納得できる返答は返ってこないことは分かっているが質問をしてみた。
「宇佐美さんは何するんですか」
「寝る」
「はぁ?!ちょっと」
案の定どころかもっと酷い返答に、非難の言葉を言おうとした私の鼻先で個室の扉がバタンと閉まり、間髪を容れずに、絶対入るなよ、入ったら後悔させてやる、と扉に隔てられてくぐもった声が聞こえてきた。本当にクソ過ぎる。
行き場のない罵りの言葉を口だけ動かしてなんとか発散させて、宇佐美さんが入って行った部屋の向かいの個室に自分の荷物を放り込んだ。持参していたカメラだけは忘れずに取る。使うかもと思って取材用にカメラを持ってきていたことを、きっと宇佐美さんに見抜かれていたと思うとどこまでも腹立たしい。
「じゃあ宇佐美さん、私行ってきますからね!ひとりで!」
大きな声で扉に向かって声を掛けるが返答はない。私は諦めて荷物を持ち直して玄関へ向かった。
*
「いや、ちょっと待って。流石におかしいよね」
漁村に入り約1時間。私は途方に暮れて呟いた。
人がいない。というか、人の気配がするのに人の姿が見えない。時折室内のカーテンが揺れたり、窓越しに誰かが見ていて目が合いそうになると慌てて引っ込む人影が見えるから、人は存在しているようだ。家々の戸口はしっかりと閉じられて、玄関戸にはどこの家も何故だか木の
「あんた、何しに来たんね」
不意に背後から声を掛けられてびくりと肩を上げて振り返えると、老人が1人道の真ん中に立ってこちらを睨みつけていた。実体を持った人に出会えたことに些かほっとして笑いかけてみた。
「あ、こんにちは。あの」
「何しに来たと聞いとる」
こちらの挨拶を遮る咎めるような物言いに少しカチンとくる。何か目的がないと来ては行けないというのか。そんなことを他人に言われる筋合いはないと思うが。
「取材です。観光できる場所が何かないかと」
「そんなモンはない。帰れ」
取り付く島もないようなぶっきらぼうな言い様に唖然としてしまう。固まっていると、老人が眉を寄せて言いにくそうに口を開いた。
「あんたの為や。悪ぃことは言わん。早くこン村から出ろ。今こン村は」
ボソボソと急に音量が下がってしまい、うまく聞き取れない。
「え?」
「……とにかく、早く帰れ」
聞き返す私に老人はそれだけ言うと、くるりと背を向けた。なんて失礼な人なのだろうと思いつつ、ふと、何故だかちよさんのことが頭に浮かんだ。それと同時に思わず口を開く。
「あの、すいません!実は人を捜してまして」
私の言葉にぴたりと老人が立ち止まった。
「人?」
「えぇ。立脇ちよ、という人なのですが」
念の為にスマホで撮影していたちよさんの写真を、老人の正面に回り込んで見せるとその目が見開かれた。
「この人を見かけてませんか?」
「し、知らん」
わなわなと震えた声と肩で明らかに動揺しているのが分かる。そんな様子でそんなわけないだろ、と問い正そうと口を開いた。
「様子がおかしいですよ。何か隠してませんか」
「もしかして、殺しちゃいました?」
老人との会話に急な乱入者が入り、私も老人もぎょっとして横を向く。
青い真夏の空をバックに真っ黒な袈裟を纏った男がにこにこと柔和な笑みを浮かべて立っている。真夏だというのにそんな格好で汗ひとつかいていない。この場の誰よりも化け物じみたその人に、私は眉を寄せる。
「宇佐美さん」
「大丈夫ですよ〜。僕たちがどうにかしますから」
名を呼ぶ私の声など無視して宇佐美さんはスッと老人に近寄り、何かを耳打ちした。一体何を言われたのか、老人は再度宇佐美さんと視線を合わせて一瞬逡巡し、それから重たい口を開く。
「……この道をずっと抜けた先の崖に御堂がある。そン中に櫂がある。そんで、その御堂の下を降りて行った先に洞窟があるわ。その奥が入り口や。言うとくが村のモンは無関係や。何も知らんし、知ろうとも思わん。ただ風習に従うとっただけ」
「はいはい、わかりましたよ」
嫌そうに老人から身を離した宇佐美さんは、用済みと言わんばかりに老人の取り繕うような言葉をいなして、おい行くぞ、と面倒臭そうに私に声をかけてきた。
「ちょっと宇佐美さん、どういうことですか。何言ったんです?」
すでに歩き出していた宇佐美さんを追いかけて、横に並びながら問いかける。ちらりと後を振り向くと、老人は道に立ち尽くして私たちを睨みつけていた。
「え〜?お前に1から説明するのダルいんだよなぁ。まぁ、頭の悪いお前に説明するなら、助けてやるから全部吐けって言った感じかな」
「くっそ、腹立つ。ぶん殴りたい」
「ちょっと、頭悪くて理解できないのを僕に当たらないでよ」
高い位置から見下ろしてくるその表情は、いかにも小馬鹿にした態度で苛々が募る。
大体タイミングが良すぎる。私に村内を歩き回らせて、人が出てくるのを待っていたとしか思えない。宇佐美さんは私のことを釣り餌程度に思っているのだろう。本当に人を馬鹿にしているし、宇佐美さんに着いていくのは癪でしかない。しかし、この話の流れからすると、もしかしてちよさんが大変な目に遭っているのかもしれないという、薄らとした不安感が付き纏う。この場で全てを放り出して帰るのは、とても気が引けてできない。
「あ〜!もう!嫌になる!」
引くに引けない状況に苛立つ気持ちを吐き出すと、宇佐美さんが憐れむような視線を向けてきた。
「お前のそういうところが、付け入る隙になるんだろうねぇ」
「嫌なこと言わないでくれます?」
どことなく不穏な言葉に顔を顰めたが、無視されただけだった。仕方がないので遠くに視線を向けると、老人の言っていた御堂がポツンと建っているのが見えた。遠くで聞こえていた波の音がいつの間にか近くに聞こえている。夏の日はまだ高いが、あっという間に日暮れはやってくるだろう。
*
「基ちゃん」
「ちよ」
呼ばれる名に、俺も穏やかに返す。ずっと長いこと、そうして暮らしてきたように思う。海辺の小さな家と慎ましい暮らし。とても静かで平穏で幸福な。ここには何もかもがある。
夕刻になると、俺とちよは小さな船で海に漕ぎ出す。ここの海はいつも穏やかで心地良いから、日が沈む頃にそうやって2人きりの世界へ漕ぎ出すのだ。
「ずっとこうしていたい?」
そっと、彼女の小さな頭が俺の肩に寄りかかった。心地の良い重み。着物の裾から出る彼女の白く美しい足が水面をかき混ぜて波紋が広がるのを、ぼんやりと眺める。不意にふわりと舞った癖毛が鼻を掠めた。
「あぁ。ずっと、こうしていたい」
顔に触れる髪の毛がくすぐったくて、抑えるように顔をその頭に擦り付ける。くすくすと笑う声に一層愛おしさが増して、堪らない心持ちになる。俺はこの女を愛する為に生まれてきたのだと、そんな気持ちになってくる。
「ちよ」
名前を呼んで髪に口付けた。視線が上に上がって、彼女の大きな黒い瞳に俺が映る。
「基ちゃん、来て」
伸ばされた手に頬擦りをすると、そのまま抱き込まれた。潮と乾いた土の香りが微かにするが、花のような香りが掻き消す。船底に倒れ込んで暫く揺れが収まるのを待ち、身を起こすと俺に組み敷かれた形のちよが笑った。頬に手を伸ばすと、くすぐったそうにはにかんで俺がしたのと同じように頬擦りをする。ちよの手が遠慮がちに俺の着物の襟に割って入り、素肌に触れた。冷たい。お返しにと、俺は親指の腹で頬を撫でる。その肌は乾いている。潤したくて頬に口付けて、それから耳へ移動する。綺麗な形だ。
「ずっとこのままでいたいなぁ」
首筋から胸元へ口付けを落としていく最中、ぽつりとちよが呟いた。寂しげな声に俺の息がほんの僅か止まる。顔を上げて、彼女と視線を合わせる。
「ずっとこのままでいよう」
「本当に?」
「あぁ、本当に」
嬉しそうにちよが微笑んで、起き上がって俺に抱きついた。俺は座って彼女を受け止める。そこで周囲がすっかり暗いことに気がつく。もう夜の帷が下りたのだろう。陸地へ戻らなくては帰れなくなってしまう。
「そろそろ戻ろう。少し長く海にいすぎた」
耳元で優しく囁いてみる。ちよの身体がぴくりと動くのがわかった。
「戻る?戻るってどこへ?」
「え」
急に色を失った声に、体温が下がる。
いや、そもそも誰だ。今、この腕の中にいるこの女は。
俺はどうやってここへ来た。いつからここにいる。
ここは、どこだ。
「ずっとこのままでいようって言ったじゃない」
耳元で声がする。それは漣の音と合わさり、ノイズとなる。それから潮と生き物の死骸の混ざった匂い。
そうだ、ここは故郷の海。思えばいつも死の匂いが漂っていた。どうしてそれを忘れていたのか。俺はこの場所に嫌悪感すら感じていたということを。
「戻ってきてくれたんでしょう?」
そう言われれば、そのような気がする。あの不思議な幼馴染みのことがふと思い出された。
「……き……まさん!」
波の音の隙間から声がする。煩い。俺はここで、ちよと、ずっと。
「月島さん!」
聞き覚えのある声と、それから耳元で舌打ちの音が小さく聞こえた。
<続>