プラマイ0(1/2)
よりによってこんな日に。
ホワイトボードに書かれた"ノー残業デー"の文字を見て、ため息を吐く。
ホワイト企業である我が愛すべきこの会社はノー残業デーなるものが設定されていて、定時に部長と共に部署の社員が退社するという決まりがある。
部長は退社時間を上に報告でメールするというのだから、気持ちの良い徹底ぶりだ。
チラリと時計を見れば定時まであと10分。
去年の今頃は同じくらいの時間、頬が自然に緩んでいくくらいに浮かれていたことを思い出す。
頭の中がハッピーお花畑ちゃんであることほど、恐ろしいことはないと思う。
去年のクリスマスイヴ。
やめときゃいいのに、やったこともないサプライズなんてしかけて早めに帰ってみれば、半裸の婚約者と慌てて裸の身体を布団で隠した見知った女がドタバタやっている最中だった。
要するに。
寝取られたのだ、婚約者を、クリスマスイヴに。
いや、多分、その日が初めてではなく、関係はずっと前からあったのだろうと思う。
こみ上げる吐き気と頭痛に目眩を起こしながら、私がとった行動は酷く冷静だった。
固まった二人の姿を無言でスマホのカメラで収め、必要最低限の貴重品を手に持ちその場を後にした。
妙にクリアな頭で、式場の予約はまだだったことに安堵したり、家族になんというかとか色々考えながら、彼の母親へ写真とともに別れる旨と結婚式はなしになったことをメールし、彼に関係する全ての人の連絡先を削除した。
やることをやりきって、とりあえず適当なビジネスホテルをネットで検索して予約し、朦朧としながらその日の寝床を確保したところまでは覚えているが、その日の記憶はそこで途切れている。
気がついたら次の日の早朝だった。
身体に染み付いた習慣は恐ろしいもので、あんなことがあってもいつもと同じ出社時間に目が覚める自分は何なんだろうと思った。
現実感が全くなかった。
何が本当で、何が嘘だったんだろうと、いくら考えても何もまとまらないのに、身体だけはプログラミングされた通りに動く機械のように稼働する。
実のところあれから1年経った今でも現実感はないままだ。
陰鬱とした気持ちだけは確かだけれど。
「―オイ」
「ぁ、うん、なに、ごめん」
断片的に浮かぶ記憶がふいにかけられた声で途切れる。
同期の荒北がパソコン越しに視線を投げかけていた。
「顔、真っ青じゃねェか」
大丈夫ゥ?と、いつもより少し険しい顔でこちらを見るその顔を見返して、いつの間にか意識が飛んでいたことを自覚する。
「ちょっとボーッとしてた。年末疲れかな」
なんとか笑って見せる。
大丈夫、ちゃんと笑えてる筈。
そう信じて。
「…あ、そォ」
一瞬、躊躇うような素振りを見せた後、また視線をパソコンに戻した。
荒北は優しい。
彼は同じ部署に唯一残っている同期だ。
多分、色々誤魔化してることを気がついてて、見て見ぬ振りをしてくれている。
去年まではもうひとり同期がいた。
あの日、婚約者と部屋にいた、あの女だ。
間抜けな私は、未来の浮気相手を笑顔で自分の彼氏に親友として紹介したのだ。
あれ以来彼女は仕事を急に辞めてしまい、顔を合わせていない。
あの部屋にもあれ以来行っていない。
幸い口座関係は別にしていたから、貯金もそこそこあったし全てを新調した。
生きていくのに必要最低限のものは身につけて生活もしていたから、あの部屋に再び戻る必要はなかったのだ。
あの部屋での、あの暮らしはなんだったんだろうと思う。
全て、捨てられる物だったのに、何があんなに大切だったんだろう。
そして今、私は、彼女が辞めていった職場を意地と惰性で続けている。
なんなんだ一体。
タン、と押したバックスペースキーが今まで書いていた文章を綺麗に削除していった。
「はぁい、お疲れさーん。帰るぞー」
部長の声にハッと顔を上げて見れば終業時間丁度を指していた。
名札を外してノロノロと席を立つ。
ロッカー室では他部署の女の子達が今日の予定を楽しそうに話していて、私は話しを振られる前に急いで上着を掴んで逃げるように部屋を出る。
廊下でコートを着てマフラーを巻きつけて、鞄を肩にかけた。
帰ろう。
心の中で決心を呟いて、出口に向かって歩き出す。
フラつく足をなんとか動かして。