君にさよならを(2/2)


「名前、来ていたのか」
「あー、尽八だぁ」

尽八も帰ってたんだねぇ、と言いながらふわふわと近づいてきた彼女の頬をそっと撫でる。

彼女は俺の実家である東堂庵で働く仲居の苗字さんの一人娘だった。
小学生の頃母親に連れられて東堂庵にやって来た頃からの付き合いだ。
俺より4歳年上の彼女は俺の姉によく懐いていて、昔からよく家に遊びに来ていた。
幼い頃から俺のことを、尽八みたいな弟私も欲しいなぁ、なんて言いながらよく遊んでくれていたものだ。


「今日も綺麗だな」
「もー尽八に言われても嬉しくないよー」

そう言いながらも、ほんのりと熱くなる体温が愛おしいと思うようになったのはもう随分前のこと。
俺は高1、彼女は地元の短大に通う2年生になっていた。
昔は見上げていた彼女を、俺が見下ろすようになってもう久しい。

俺はこの想いを秘めるつもりは毛頭なく全てぶつけているが、名前は本気にしようとしない。
いつの間にかこの恋人のようなやりとりが、当たり前になってしまっていた。
年下の男子のお遊びに付き合ってあげている、というようなところなのだろう。
それでも、いつか絶対にこれを本物にしてみせるという自負が俺にはあった。

「こんなに可愛くて美しいから俺は心配だ」
「はいはい。まったくもう」

ぎゅうと後ろから抱き締め、ふわふわの柔らかな髪に鼻を近づけて存分に名前の香りを堪能して、クスクスと笑って身を捩る彼女を捕まえる。
こうなってくるともう俺たち付き合ってるんじゃないかと錯覚してくる。

「でも、確かにモテ期かも…」
「…なんだと…?」

わぁ尽八、怖い顔!

そう言って思わず真顔になった俺の頬を、名前の華奢な指が伸ばす。

「ラブレター貰っちゃった」

嬉しそうにポケットから彼女が取り出したのは、ブルーの封筒。

「見せてくれ!」
「あぁっ!」

パッとその手から封筒を奪い取って彼女には届かない頭上で封筒を開けて便箋を取り出して見れば、そこには拙い文字で辿々しく紡がれた短い文章が便箋いっぱいに書かれている。

"せんせい だいすき
けつこん してください"

「なんだこれは!」
「もう!返してよぉ!」

油断したところで名前に便箋をひったくられてしまった。
大切そうに胸に抱き抱えて、この上なく優しい笑顔でその便箋に再度目を落としている。

「実習今日までだったから、お別れにってクラスの男の子がくれたの」

名前は短期大で保育を学んでいる。
2年に上がってすぐに幼稚園で実習がはじまると言っていたことを思い出す。

「むぅ。幼稚園児からの手紙か。しかし生意気な」
「尽八に似て可愛い子なのよー」
「俺は可愛くない!」
「えー?可愛いよ?今も昔も」
「なっ…!嬉しくないぞ、名前!」
「なんでよぉ」

ある一定から一向に縮まらない距離。
それはいつまで経っても俺を男として見ようとしない、名前のこの俺への見方だ。

「名前ー?なにやってるの?」
「あっはーい!今行くー!」

姉が遠くから名前を呼んだ。

「出掛けるのか?」
「うん、ちょっとお姉ちゃん借りるよ」
「俺も行く」
「だーめ!女同士で大事な話なの!」

じゃあね!
そう言って楽しそうに振り返って走っていく背中を見送る。

久しぶりに会えたというのに。

ため息と一緒にやるせない思いを吐き出す。
最近中々会えなくなっていて、久しぶりの逢瀬だった。

俺はロード、彼女は短大。
俺たちにはそれぞれの生活があった。
彼女の知らない俺の生活。
俺の知らない彼女の生活。

この時俺はまだ分かっていなかったんだ。
俺の知らない彼女の世界が、少しずつつ俺たちを引き離していたことに。



その年の夏は高校最初のインターハイということもあって、物凄いスピードで過ぎ去った。
あっという間に3年の先輩が引退して、高校1年目の秋を迎えていた。
ヒルクライムレースも終え、秋は深みを増している。

「東堂!」
「はい」

部活終わりに更衣室で汗を拭いていると、先輩に呼ばれた。

「なんか、お前のこと呼んでる女の人がいるぞ」
「女?」
「おぅ、なんかギャルっぽい感じの」

お前があんなタイプと知り合いって意外だな、と言われますます検討がつかない。
背中に冷やかしを受けながら校門の所で待つと言っていたという、その女の元へ向かう。

門柱に寄りかかっている女性が見えてきて、誰だ?と首を傾げて目を見開いた。
一瞬誰か分からなかったが、それは見知った横顔だ。

「名前…か?」
「尽八」

振り向いて向けてくる笑顔を見て驚く。
俺の知っている彼女と違う。
跳ね上げたアイライン、天を向く長いまつ毛、ぽってりと塗られたグロス、美しく巻かれた髪、丈の短いスカートにピンヒール。

こんなに派手な化粧や格好をする人ではなかったはずだ。

「どうした、名前」

雰囲気変わったな、と言いかけてやめる。
その変化がどういう類のものなのか分からないのに、そこに触れるのは無粋な気がして。

「急にごめんね」

ふわりと揺れる栗色の髪が風になびいて、華奢な手がそっとその揺れる髪を抑える。
知っている声、表情、仕草の筈なのに。
まるで別人のようで、不安になる。

少し歩かない?とふわっと笑って俺を覗き込んだ彼女を、戸惑いの気持ちで見た。
先に歩き出した彼女に数歩遅れて俺も歩き出す。

「忙しかった?」
「いや…今、練習終わったところだったから」

見て金木犀、と名前が視線を向けた方向を見ると、道路側にせり出した木からオレンジの小さな花がひらひらと落ちた。

「名前好きだったよな、金木犀」
「うん」

彼女は目を細めて金木犀を眺めたあと、すうっと息を吸い込む。

「いい匂い」
「あぁ」

その表情は俺の知っている彼女だった。

思わず手を伸ばして、その細い手首を捕まえて腕の中に閉じ込める。
どこか俺の知らない所に行ってしまいそうで怖くなって、安心したくて、夢中で彼女を捕まえた。

「…尽八…苦しい」
「嫌だ」
「…仕方ないなぁ」

俺の背中に彼女の華奢な手が回る。
あやすようにトントンと軽く背中を叩かれながら、俺は唐突に気づく。
今彼女はどこかへ行こうとしている。
気づいた時にはもう遅かったんだ、と。


「尽八、私、短大卒業したら結婚するの」

聞きたくない。

「明日から彼と一緒に住むの」

やめてくれ。

「そしたらもう多分、地元にはあまり帰って来られなくなるから」

だから…、そう言い淀んだ彼女の言葉の続きを聞く前に、唇に噛み付くようにキスをした。

こんなに近くにいるのに。
確かに君の温もりは俺の腕の中にあるのに。
たった季節2つ分だ。
たったそれだけの時間で、俺たちの今まではどこの誰とも分からない男に奪われてしまうのか。
そんな、無理した化粧とか格好なんか、やめちまえよ。
そんなことさせる奴となんか、一緒になるな。

トン、と胸を押される力はとても弱い。
だけどそれは決定的な彼女からの拒否。
俺はそれに逆らえない。
こんなにも近くにいるのに、泣きたくなるほど遠い。

「…ダメだよ、尽八」

悲しそうに笑った名前の顔が苦しくて、俺は、すまない、と謝ってしまう。
謝るようなことではないのに。

「…名前は幸せなのか?」
「幸せだよ」

強い秋風が吹き抜けて、彼女の髪が宙を舞う。
この上なく幸せそうに笑って、彼女は行ってしまった。
むせかえるような金木犀の香りだけを残して。




「そろそろ帰ンぞ」
「…あぁ」

話しかけられて我にかえった。
荒北が伸びをして欠伸をしながら、次々に鞄に物を放り込んでいる。

あれからもう2年か。
彼女はどうしているだろう。
籍は入れたようだが結婚式はしなかったらしい。
姉から聞いた話では、相手の男は会社経営者で派手な男らしく周囲は随分反対したようだ。
姉としては、それでも本人が幸せならと背中を押したものの、地元には帰ってこなくなってしまい連絡も途絶えてしまった彼女が心配だとよく零していた。

図書館の外に出ると、茜色の空にあの懐かしい香りが漂っていた。

「会いたいな…」
「あぁ?」
「あ、いや、なんでもない」

思わず呟いてしまったその小さな願いが、思わぬ形で叶うのはまた少し先の話。

歯車はまた、再び動き出す。

fin
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