ちょうちょ結び(1/3)
トモダチ
が、できた。
それも1度に2人も。
『鳴子翔子:元気?』
『うん。そっちは?』
『鳴子翔子:まぁまぁ。今度合同練習で京都行くよ』
『へぇ。どこと練習?』
『鳴子翔子:○○大学。うちのOBがいるから』
陸上有名大学の名前をサラッと出す鳴子に、さすが…と思いながら返信を考える。
彼女が私のところへ突然やって来たあの日から、時折こうしてメッセージのやり取りをしていた。
もう1人は
「名前」
「光太郎先輩」
笑顔で手を振る爽やかな男子が、こちらに向かってくる。
3年の石垣光太郎先輩だ。
こちらはなぜこういう流れになったのか、自分でもよく分からない。
ただ、とにかく優しい人だということだけは確かだ。
名前、大丈夫か?
せんぱ…い?
顔色悪いな。荷物持ってきたで。
あ、すいません…。でも、どうして…?
御堂筋から預かってきたんや。
帰れるか?
そう言って差し伸べられた手が暖かかったことを思い出す。
優しいといえば…。
ふと、あの不機嫌そうな顔が浮かぶ。
この前保健室に行くのに声を掛けてくれたのも御堂筋くんだったし、荷物を用意してくれたのも御堂筋くんだったらしいし…。
そういう彼とは、あの保健室の時以来話していない。
格好悪いところを、見られてしまった。
それに、その前から少し疎遠になっていて、いつもの昼の階段に彼が現れなくなってから、ひと月ほどが経っていた。
やっぱり私が何かやらかしたんだろうか。
「…ほんでな、…って名前?」
聞いとる?
先輩が困った顔で、顔を覗き込んでくる。
「あっ、すいません…ちょっと考え事してて…」
期末試験の勉強をするのに図書館に寄ったところ、たまたまそこで会った先輩と帰りが一緒になったという流れで、いつもなら1人の帰り道を2人で歩いている。
「大丈夫か?調子悪いとかやないんか?」
「全然、それは大丈夫です」
安心させようと笑顔をつくると、そうか、と意図した通り光太郎先輩は安堵したように笑った。
この人はとても素直で健全な人だと思う。
付き合いは間もないが心底私のことを心配してくれていることを感じるし、私の言うことをそのまま受け取って信じる。
「名前て、自転車乗るんやな」
「これで通学してるんですよ」
ポンポンとサドルを叩いてみせる。
そういえば似たような会話、御堂筋くんと最初に会った時したな。
こんなに穏やかな雰囲気じゃなかったけど。
「どないしたん?」
思わず、思い出して笑ってしまっていたようで、不思議そうに先輩がこちらを見ている。
「あ、いや、ちょっと思い出し笑いです」
「そうか。あ、そや、渡そうと思っとったもんがあったんや」
こんな道の真ん中ですまんけど、そう言いながら先輩はゴソゴソと鞄を探って、1冊の本を取り出して差し出してきた。
「これって」
「この写真家好きや言うてたやろ?
俺はただ橋が好きなだけなんやけど、たまたまこの人の写真集が家にあってな」
確かにそこには見覚えのある写真家の名前と、《タテモノ と ソラ》というタイトルが書いてある。
本当は教室に持っていこうか思たんやけど、御堂筋に来るなて言われとるからな。
後輩に言われたことを律儀に守るとは、なんて真面目な…。
先輩をまじまじと見て、はたと思い当たる。
…いや、それはちょっと自意識過剰か。
あの状況を見ていて、あれ以上拗(こじ)れないようにと気を配ってくれた、とか。
「…あ、名前?」
穴、あきそうや…。
光太郎先輩が顔を背けている。
「あ、わ、すいません…。
本、ありがとうございます」
私は慌てて目を逸らす。
「ほな、俺こっちやから」
「はい。ありがとうございました」
本はいつでもええからな、そう言いながらニコッと最後に微笑みを残して光太郎先輩は帰っていった。
土手の上に自転車を停めて、陽の沈む方向を見る。
日が落ちるのが随分早くなってきた。
土手の草原に降りてその場に座ると、あの夏の暑さが嘘のように涼しい風が吹き抜けていく。
夜と夕方の合間。
空に藍色と緋色が混ざり合う。
帰りがこの時間に重なることを予測して、今日はカメラを持ってきた。
そっと鞄から愛機を取り出して撫でると、ひんやりと冷たい感触が手に伝わる。
私にはまだ荷が重い一眼レフのフィルムカメラだが、その分1枚1枚を丁寧に撮っていく。
ファインダー越しに覗く空は実際に私が見てるものとは少し違う。
記憶の中美しく残る瞬間を、切り取る。
そんな感じだ。
まだ…まだ、もう少し、我慢…。
夕暮れから夜に変わる境を収めたい。
シャッターのタイミングを待つ。
もう、そろそろ。
カメラを構えてファインダーを覗く。
今からはファインダー越しに見た色でシャッターのタイミングを決める。
まだ。まだよ、我慢…。
辛抱強くレンズ越しに空を見る。
きたっ…!
カシャッ。
丁寧にシャッターを押す。
私はいつもあらかじめ、撮る枚数を決めている。
今日はこれでおしまい。
もうちょっと、まだ綺麗な色が出せそう、と欲張って撮っていっても、結局パッとしない出来のものが量産されるだけだったりする。
まだ撮りたいなぁという気持ちを、次の写真にとっておくのだ。
夕日の朱色がすっかり藍色に沈み、夜空が広がっていく光景を眺める。
いつ見ても綺麗だ。
綺麗で、でも、思い出したくもないものを思い出させたりもする。
そろそろ2年か。
あの大会からあっという間に時間が過ぎている。
それでいて、もう大昔のような不思議な感覚。
まるで他人事のようだ。
これは、乗り越えているということなんだろうか。
「ヤバ」
携帯を見て時間を確認すると、思ったより随分時間が経っていた。
急いで土手を駆け上り、自転車に跨る。
そういえば、こんなふうに日が沈むのを見届けて、2人で帰ったりしてたな。
ふっとデジャブが降りてきて、あれから一度も外せずにいる首元のネックレスをそっと触る。
夕焼けの中の硬い表情とか、ぎこちない手つき、近づいてきた時の匂い、温度とか、そういうものがいっぺんに戻ってきて苦しい。
やっぱりこの季節のこの時間帯、この空気感は、嫌なことを思い出させる。
高々中学生の淡い恋愛話だ。
自分に言い聞かせて、振り切るようにペダルを強く踏み込んで風を切った。
困ったことに最近よくあの子のことを思い出す。
多分、思いがけず過去の知り合いと繋がったことも影響しているんだろう。
“従兄弟が千葉の総北高校におるんやけど、あんたのこと探しとる子がおるみたいよ。名前が…あかんわ、アホのつけたあだ名しか分からんわ”
名前を聞かなくてもわかる。
鳴子からきいた私を探しているという男の子のこと。
何度も聞いた進む道の通過点である、その高校の名前を聞いて確信する。
“ごめん、私、もう中学の時の人とは”
“わかった。うまく誤魔化しとくから”
鳴子はそれ以上詮索せずにいてくれた。
優しい子だなと思う。
結局私は逃げて、逃げ続けているだけ。
やるだけやってどうにもならなかったんだから、向き合ってどうにかなるものでもないし、誰かにぶつけられるものでもない。
じゃあ見てみぬ振りして、少しでも苦しくない方へ行くしかないじゃないか。
抱えて、行き場のなくなってしまった色んな気持ちや想いを、深く深く押し込めて殺すしか。
「ただいま」
お父さんはまだ帰っていない。
洗面所に行って手を洗い、鏡を見る。
ひどい顔だ。
よかった、こんな顔していたらまた心配させてしまうところだった。
顔を洗って、部屋に荷物を置いて、夕飯作りにとりかかる。