回想(1/4)
音が遠のいていく。
静かに静かに。
いつもより空の色が濃ゆい。
視界が狭くなって、超えるべきハードルだけが浮かぶ。
スパイクは軽やかに地面を蹴って、身体がふわりふわりと上へ上へ浮かんで、しなやかに、跳ぶ。
落ちてく瞬間、スローモーションのようにゆっくりと、近かった空が遠のいていく。
私は手を伸ばす。
あの空を掴むように。
ドサッ。
「…ふぅ」
ワァッ!
マットに身体が沈み込んだ瞬間息を吐くと、一気に音が戻ってきた。
監督が遠くでガッツポーズをしているのが目に入る。
起き上がって歩いていくと、肩を叩かれて、大会記録更新だぞ!と興奮したように声をかけられた。
はい、ありがとうございます、とぼんやりする頭で答える。
高めた集中力を切った後は、頭がぼーっとする。
それにしてもすこぶる調子が良い。
日焼けできずに赤くなる肌が、ヒリヒリと夏の日差しを受けて疼いた。
中2の夏。
私は関東の公式戦に出場して、順調に結果を積み重ねていた。
「苗字、流石だね」
「先輩」
汗を拭いていると声を掛けられて、顔を上げるとキャプテンが目の前に立っていた。
試合は無事に終わり、各々帰り支度を始めている。
先輩が横に座るのを横目で見ながら、スパイクの紐を緩めた。
「来年はあんたが部をまとめるんだよ」
「私には無理ですって」
ここ最近この話ばかりだ。
「私自分のことしか考えらんないですもん。
あと、部員に嫌われてますし」
同期や先輩からコソコソ悪口を言われていることを知っている。
私はどうも人が不快に思う空気感を纏っているらしい。
きっとこの物言いや、人に興味が無いところが良くないんだろうなと思うが、どうしようもない。
「あんたはもっと」
「先輩、今日もうこのまま解散で良かったですよね?」
「まぁ、いいけど…打ち上げは?」
いつもの小言が始まる前に先輩の言葉を遮った後で、今日打ち上げするって言ってたっけ、と思い出す。
いつものように私は参加しない。
「私は…帰ります」
お疲れ様でした。
そう言って立ち上がると、じゃあね、と諦めたように手を振られた。
「すいません、この百合をお願いします」
「あら、部活帰り?暑いのに頑張るわねぇ」
何本にする?と馴染みの花屋のおばさんが人懐っこい笑顔を向けてきた。
今日は命日。
お母さんが突然の事故で亡くなって5年が経つ。
あっという間に時間が過ぎていく。
つい最近の事のようなのに、もうなんだかお母さんの記憶が薄れていってしまう部分もあって怖い。
命日には欠かさず、お母さんが好きだった百合の花を仏前に飾るようにしている。
いつまでも忘れないための儀式のように。
ありがとうございます、とお花を受け取って自転車に跨りペダルを踏み込んだ。
「俊輔」
「あぁ」
家の前に見慣れたシルエットを見つけて声を掛けると、おかえり、と相変わらず表情の乏しい顔がこちらを向いた。
ジャージにレーパン姿でロードバイクの横で壁にもたれている。
「来てたんだ」
「練習帰りに寄った。お前、連絡取れないと不便だから携帯買えよ」
「今泉家の坊ちゃんは携帯も簡単に持てるだろうけど、私のような一般家庭の小娘には中学生で携帯は早いの」
上がってくでしょ、と声を掛けると頷いて自転車を引っ張った。
俊輔は必ずお母さんの命日には線香をあげにくる。
この今泉家の一人息子と私は幼なじみだ。
「もう5年か…」
「早いよね」
ジャージから部屋着に着替えて居間に戻ると、仏壇の前でお母さんの写真を眺めている俊輔の背中がある。
ポツリと呟いた声に返事をしながら、台所で麦茶を2人分用意した。
数本でも強く香る百合と、線香の香りを吸い込む。
命日の匂い。
「お茶」
「あぁ」
くるりと振り向いた俊輔の顔はどこか寂しげだ。
「おじさん、今日も仕事?」
「うん」
お父さんにとって命日にこの家の中にいることは苦痛だろうと思う。
平日でも、妻の命日に休みをとるくらい何も言われないと思うが、お父さんは命日にこそ仕事をした。
お父さんは思い出したくないのかもしれない。
でも私は忘れたくないから、命日にはお母さんの好きだった花を飾る。
風が吹いて軒先に吊るした風鈴が涼しい音を響かせた。
「お母さんの作ったドーナツ覚えてる?」
「あぁ、美味いんだよな、あれ」
「そういえば、はじめて俊輔に会った時もドーナツ食べたよね」
「一言も喋らずドーナツ食ったよな」
「あはは懐かしいー。あの頃の俊輔、すっごい可愛くなかったよね。いつもつまんなそうな顔してさ」
「うるさいな。お前だってオドオドオドオドして友達いなかっただろ」
「残念でした、友達いないのは今もだよ」
「…言ってて気づいたけど、俺も人のこと言えねぇ」
「あはは。でもいいんじゃない、お互いがいれば」
「…まぁな…」
懐かしい思い出が蘇る。
"俊輔くんよ、ほら、挨拶しなさい"
"こ、こんにちは…"
"…こんにちは…"
"おやつはね、ドーナツよ"
緊張で大好物のはずのドーナツの味がしなかったことを思い出す。
俊輔と引き合わせたのはお母さんだった。
今泉家で家政婦として働いていたお母さんにくっついて、私は時折今泉家にお邪魔していたのだ。
友達のいない俊輔に、同年代の友達ができればというおば様の密かな狙いもあったらしい。
実際お母さんについて行った日は、習い事で忙しいはずなのに俊輔は必ず家にいた。
当時の私は気弱で、表情の分かりにくい俊輔が苦手だった。
話しかけても無視されることもあったし、2人でいても別々に何かして過ごすといったように、ただ空間を共有しているだけだった。
それが、私が陸上をはじめて、同じくらいのタイミングで俊輔がロードバイクを始めて変わった。
"あのね、跳ん出る時音が全部なくなるの"
"レースの1番前もすげぇ静かなんだ"
"静かなのってすっごく気持ちいいよね"
"あぁ、最高だ"
はじめて跳んだ時の感動をたどたどしく言葉にすると、珍しく目をキラキラさせてロードレースについて語ってくれた俊輔の幼い顔が思い出される。
その時から私と俊輔は無二の親友になったのだ。
「ドーナツ作ろうかな。食べる?」
それぞれ物思いに耽けった沈黙を破るように声を掛けると、ふっと俊輔が笑う。
「お前作れるのか?」
「まぁお母さんのようにとはいかないかもだけど」
「じゃあ、俺一旦家帰って着替えてくる」
「うん、じゃまた後でね」
「あぁ」
玄関先で私よりも随分高くなった背を見送る。
扉が閉まり一気に静かになった廊下を振り返った。
こんな日に1人で家にいないですんでよかった。
この日に俊輔が来てくれるのは、私にとって救いだ。
もっとも、そのことを承知で来てくれている節はあるけれど。