回想(2/4)



これ以上悪いことは起こらないと思っていた。

ようやく喪失の悲しみに慣れてきた頃。
大切に思える一握りの色々を感じられるようになってきて、私にはまだ残されたものがあると思えるようになってきた頃だった。

浅はかにも、その一握りさえあれば生きていけると思っていたのだ。






呼吸を整えて、真っ直ぐ前を見る。
しなやかに身体を揺らして…。

「…?」

足に妙な違和感を感じて立ち止まった。

「苗字?どうかしたか?」
「いえ…」

エースなんだから怪我には気をつけるように、と言い置いて監督がマネージャーを呼ぶ。

「先輩、脚、触りますね?」
「あぁ、うん」

1年後輩のそのマネージャーは丁寧に私の脚を触っていく。

「…っつ…」
「あっ、すいません、痛いですか?」

やっぱりおかしい。
随分気を使って触ってくれていたが、一瞬ほんの少し緊張が足首にはしる。

「ううん、大丈夫。
でも一応テーピングしとくから手伝ってくれる?」

は、はい…と慌てたように、サポートバックからテープやコールドスプレーを取り出す後輩に、ありがとうと声を掛ける。

まぁでも、たまに調子が悪くて痛みがくることも今までにもあったし、心配するほどじゃないかな、と自分に言い聞かせて、手際よく用意されていくテーピングセットを見ていた。

「名前先輩は私たちの憧れですから。
こんな風に先輩と話せるのちょっと嬉しいです」
「憧れ?私が?」

突拍子のない言葉に面食らう。

「はい!後輩は皆先輩を応援してますよ!
監督も先輩がゆくゆくはオリンピックに出られるくらいの選手になるんじゃないかって言ってました」
「あー…うん。ありがとう…」

そういう期待とか、応援とか、正直言うと苦手だ。
私は私の為に跳んでいるのに、そこに色々なものを乗せられてしまうと居心地が悪い。
それに勝つとか負けるとか、そういうのもよく分からない。
ライバルだと名指ししてくる子もいたりするけど、私の中で高跳は誰かと競うものではなかった。
それでも、こんな私にでも、想いを託してくれる人達がいるのなら、頑張りたいとか思う私は少し変わったのかもしれない。

「そっちのをこっちに持ってきて…よし」
「いいですか?」
「うん、いいと思う」

トントンとテーピングした脚のつま先を地面に当ててみる。
その勢いのまま足を前に出すと、後ろから、頑張ってください…!とマネージャーの声が追いかけてきて、私は背を向けたままヒラリと手を振った。

空はどこまでも高くて、秋はすぐそこで、気持ちが上がる。
秋は好き。
身体が凄く軽くなる。


腕時計を見て、そろそろ練習を終えようかと息を吸い込んだ。

「練習終わるよー」

グラウンドに私の声が響く。

結局先輩から土下座までする勢いで、どうしても!と頼み込まれ、断りきれずにキャプテンを引き受けてしまった。
部をまとめはじめて、もう早1年が経つ。
キャプテンになっても私は同期には嫌われたままだ。
同期はよほど私のことが気に食わないらしい。
皆表には出さないようにしているが、態度や雰囲気でそれがよく分かる。
こんな状態の私でキャプテンをやっていてもいいのか、正直今も自信がないまま引退間近まできてしまった。
私達の学校の陸上部の引退は、人にもよるが、最後が秋季大会となっていて他の部活よりも少し遅い。
今はその秋季大会に向けて最終調整に入っている時期だ。

「お疲れ様ー」
「おつかれー」

口々に挨拶をして、1人また1人と解散していく。
最後に皆が部室を出たのを確認して鍵を閉める。

もう随分陽が落ちるのが早くなり、自転車のペダルに足をかけた頃には、辺り一面茜色に染まっていた。
いつもの帰り道を鼻歌を歌いながら、流れていく景色を見送る。
遠目に見慣れた黒髪がさらりと揺れているのが見えた。

あ、今日はいた。

いつもの土手で自転車を止めると、首を後ろに倒して俊輔がこちらを見る。

「よぉ、キャプテン」
「やめてよ」

苦笑いすると、悪い、と言いながらも楽しそうに笑う俊輔の顔が夕日に照らされている。

「今日高橋さんは?」
「今日は自転車で学校行ったから」
「それがいいよ、中学生なんだし」
「うるせー」

お互いの通学路であるこの土手にどちらかがいる時は、話して帰るのが慣例になっていた。

さわさわと風が草を揺らして、秋風の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
沈黙も穏やかな時間。
この時間がいつまでも続けばいいのに、と思う。

「お前」
「うん?」
「今週誕生日だったよな」

え、と横を向くと何か言いにくそうに口篭る横顔。
私の誕生日を気にしたことなんて、今までなかったのに。
そもそも覚えていたことに驚いた。

「そう、だけど…」
「……あー!くそっ…」

前髪をくしゃっと掴んだかと思うと、ぶっきらぼうに小さな袋が投げられた。

「う、わ」

我ながら間抜けな声だなと思う。

「これ…」
「やる」

そっと盗み見たその頬が赤いのは、夕日のせいなんかじゃなくて。
私にまで伝染ってしまう。

包を開けて掌に中身を落とすと、サラリと落ちてきたのは小ぶりなネックレスだった。

「わぁ…!綺麗」

陽に翳すとブルーの石がキラキラと光を反射して光る。

「好きな色とか、分かんねぇから…俺の好きな色にした」
「ありがとう…!大事にする」

嬉しくて綻ぶ口元を一生懸命制服の袖で隠すけど、多分隠しきれてない。
そんな私の前にすっと手が差し出された。

「貸せよ」
「え?」
「つけてやる」

恥ずかしさと嬉しさで心臓がきゅっと音をたてる。
小さい声でお礼を言って俊輔の手にネックレスを落とすと、すぐに背後から手が伸びてきた。
手の体温が耳元を掠めて、俊輔の匂いがふんわりと香る。

よし。

声がして、下を向くと首元でブルーの石が揺れた。

「うん、似合ってる」

ふっと微笑んだ俊輔の顔が大人っぽくて、私は思わず目を反らしてしまう。
俊輔は最近、見たことのないような表情をする。
暖かくて強い、そういう表情。
その表情は私にだけ向けられるものだということも、気づいていた。
多分、私も、彼にしか向けない表情があると思う。


「今週の日曜、レースあるんだ」

どんな顔をしたらいいかわからなくて下を向いていると、俊輔の声が横から聞こえた。

見に来れば。

唐突にそんなことを言う俊輔を見る。

「いいの?」
「いいと言ってる」

珍しい、と驚いて目を開いた。
気が散るから来るなと随分前に言われていたから、一度も俊輔のレースを見たことはなかった。

「母さんも来る。寒咲さんも」
「てことは、みきちゃんも?」
「かもな」

みきちゃんも俊輔の幼馴染だ。
小さい頃何度か3人で遊んだことがある。
彼女と私は地元の同じ公立中学校に通っていて、たまに会えば会話もする。
珍しく裏表のないいい子だ。

「名前」

いつもは呼ばない名前を呼ぶ俊輔に視線を戻すと、切れ長の目がこちらを真っ直ぐ見ていた。

「優勝するとこ、見せてやるよ」

有無を言わせない雰囲気に、うん、と頷くと俊輔は満足そうな顔をしてどこか遠くを見た。
気持ちよさそうに秋風に髪をなびかせている。
私はうるさい心臓の音を聞きながら、幸せに胸が潰されないように息を吸い込んだ。



帰り道、2人並んで歩きながら他愛のない話をする。

「そういえば最近自転車のチェーンが外れたんだよね」
「どうしたんだよその時」
「なんか、たまたま通りかかったお兄さんがなおしてくれた」
「…今度やり方教えてやるから、自分で直せるようになれ」
「えー」
「ちょうどいいから、自転車も見てやるよ」
「ありがとう、助かる」

交わす一言一言に好きが溢れてた。
このまま、ずっと当たり前のように、一緒にいるんだと思ってた。

知ってたはずなんだ。
積み上げてきたものとか、大切なものが壊れてしまうのは一瞬で。
悪いことは重なって起きることも。
信じてしまった。
期待してしまった。
少しずつ狂っていく歯車に気が付かないまま。