回想(4/4)
あのレースの日から、俊輔とは会ってない。
「…っつぅ…」
脚の調子は日に日に悪くなっていた。
「先輩?」
大丈夫ですか?と、後ろにいた後輩に心配そうに声を掛けられた。
「あ…うん、大丈夫、気にしないで」
脚の調子は最悪のまま、秋季大会を迎えてしまった。
キャプテンでエースで、周りの期待とか色んなものに気圧されて、誰にも相談できずにいた。
相談したくても相談する相手が、もう私の側にはいない。
ここまできたら意地でも跳んでやると、馬鹿なことも思っていた。
もう自分には、高跳びしか残っていない、なんて。
「苗字」
「鳴子」
「どう、調子は?」
「まぁまぁかな」
足首を擦りながら、鳴子を下から見上げた。
ポニーテールが風にさらりと揺れる。
「お互いがんばろな」
「ん」
わざわざチームから離れて話しかけに来てくれた鳴子の遠ざかって行く背中を見送った。
イヤホンを耳に入れて周りの音を消す。
頭も心も空っぽにして、軽く軽く。
目を閉じて、瞼を透ける光を見た。
空は高い、どこまでも。
秋の風が涼しい。
いつになく身体が軽い。
大会が終わる頃、脚はもう限界だった。
鳴子となんとか最後の言葉を交わして、誰も見ていない所まで歩いてしゃがみんこんだ。
帰りにお父さんが迎えに来てくれて、乗り込んだ後部座席で声を殺して泣いた。
なんとなく、もう跳べないんだろうなということは自分でも分かっていた。
大会明け、久しぶりに顔を出した部活は最悪だった。
ロッカーはぐちゃぐちゃ、私物はゴミ箱に押し込まれている。
「自己管理できてないから怪我なんかするんじゃん」
「自分のこと特別とでも思ってるんじゃないの」
「名前ちゃんって言葉キツいしね」
「何言ってもいいって思ってんじゃない」
クスクスと笑う同期の声が聞こえる。
ここぞとばかりに馬鹿にしようとする空気。
的確に私の弱いところを突くその言葉は、嫌でも俊輔のことを思い出させる。
そんなこと、言われなくても分かっている。
1人でどれだけ考えたことか、この人たちは知らない。
「日誌はここで…あと、部費とかのお金関係はここね」
こんなもんかな、と時期キャプテンへの引き継ぎを終える。
「あの、名前先輩…」
「んー?」
「ほんとに辞めちゃうんですか?」
「いや、だって引退だしさ。そりゃ辞めるよ」
「そうじゃなくて…陸上…」
泣きそうな顔で私を見る後輩の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「そんな大したことじゃないって」
「私…私、先輩の跳んでるとこ、ほんとに好きで」
パタパタッと引き継ぎ資料に染みができて、私はそれをただ眺める。
「すいま、せん…」
「…ううん、ありがとね」
罪悪感がじわりと胸を濡らした。
大会を見送れば、病院に行っていれば、あの時誰かに相談してれば。
素直に、謝っていれば。
しても遅い後悔が次々に襲う。
大会以降もなんとか跳べないかと奮闘してみたが、やっぱり難しかった。
もう以前のようには跳べない。
それでも、跳び続けろというのか。
無理だ。
こんな、無様な姿。
重い足を引きずって、玄関の扉を開ける。
「ただいま…」
「おかえり」
珍しくお父さんが私より先に帰って来ていた。
「ご飯は?」
「ごめん、いらない」
「そうか…」
短い会話。
今日はこれでお終いにして欲しい。
そう願ったところに、更にお父さんが言葉を発する。
「お父さんな、転勤の話が出てるんだ」
「え、」
「いい機会かと思ってな。受けようかと思ってる。お前はどうしたいか、考えてみてくれ」
ここに残りたいなら一人暮らしにはなるけれど色々手配はすると、お父さんは言ってくれた。
私も行くというなら、この家は手放すのだと。
新しく知らないところで、やり直そうとお父さんはそう言いたいんだろうなと思う。
でもお父さん、と私は思う。
場所が変わったところで、人が変わらなきゃ何も変わらないんだよ。
「行くよ」
「もう少し1人で考えなくていいのか?」
「うん」
もう私には何も無い。
ここに残る意味も。
拘る相手も、物事も。
逃げてしまいたかった。
何もかもから、一目散に。
決めてしまってからは早かった。
行先は京都らしい。
転入手続きも全て整った。
家は売りに出すが、買い手がつくかは分からない。
どんどん片付いていく家財道具を見る。
私の部屋も空っぽになった。
くるりと見渡して積み上げられた段ボールに目を止める。
目線の先にある段ボールから、シューズの紐がたらりと垂れ下がっていた。
そっと首元のブルーを触る。
結局、最後の最後捨てきれない中途半端な奴、と心の中で自分をなじってため息をついた。
「名前!業者さん来たぞ!」
「はぁい」
お父さんの声と複数の男の人の声を聞いて、私は階下に駆け下りた。
「よし、俺達も行くか」
荷物が詰まったトラックを見送って、お父さんが言葉を発する。
カチャリと鍵が閉まる音がした。
リュックを背負って、車に乗り込もうとした時だった。
「名前!」
「俊輔…」
ハァハァと息をきらしていても、真っ直ぐに前を見る目に囚われる。
「なん、で」
信じられない気持ちで俊輔を見た。
会わずに行くつもりだった。
そして私も、彼も、お互いを忘れられればと思っていた。
「寒咲から、聞いて…」
「…そっか」
ふと、最後の登校日たまたま廊下で会ったみきちゃんには、転校のことを話したことを思い出す。
「…俺は…」
ポツリと呟きが俊輔の口から零れる。
そして、意を決したようにキュッと口端が結ばれて、再び開かれた。
「俺は走り続けるから!だから…!」
そう言ったきり後が続かない。
だから、なんだろう。
分からないよ、俊輔。
「ごめんね、ありがとう」
俊輔。
最後に名前を呼んで、車に乗り込んだ。
俯いてる横を車がすり抜けると、見慣れた黒髪がサラサラと揺れて俊輔の表情を隠した。
それが、私と俊輔の最後だった。
fin