傷口に雨(1/3)



ボクはほんまに、彼女の何を見とったんやろ。

自分の甘さに腹が立つ。

何が自由や。

いつか彼女に言った自分の言葉を思い出して、自己嫌悪が襲う。

自由と引き換えに、どれ程の傷を負ってここにいるのか。
そういうもののことを、ボクはよく知っていたはずなのに。

自由に見えていただけだった。
ただの解離だったのだ。
独りで抱えるには余りにも深くて重いモノを、奥底に閉じ込めて、疲れ、諦めていた彼女にボクは。



「御堂筋くん」
「…ん」

ポツリと呼ばれた名前に短い相槌を打つ。
隣を見ると俯いた彼女の横顔にかかる髪が揺れた。
白い指がそっとその髪を耳にかけて、長い睫毛がキラキラと街灯に照らされる。

「ありがと…」
「…別にィ」

ふと微笑んで、下から見上げてくるその顔があまりに綺麗で、苦しい。

「…そろそろ帰ろか」

フラリと立ち上がると、そうだね、と苗字さんもゆっくりと腰を上げた。


薄暗がりに2人分の車輪の音がカラカラと響く。
送っていくと言うと、慌てたように、これ以上迷惑かけられないからいい、と言う彼女を無視して先に進んだ。
彼女の家は以前送っていった時に知っている。
結局彼女が帰る方向にボクが進むから、彼女は着いてくるしかない。
渋々といった様子で横を歩いている。

チラリと後ろに目をやると、苗字さんの自転車の後輪がぺしゃんこにへこんでいる。

「パンクしたん」
「へ、あぁ、」

うん、と言いながら彼女の視線が後方に下がった。

「…直したるから、明日17時頃家の前おって」
「そ、そんな、悪いよ」
「親切断られるほうが気ィ悪いわ」
「や、でも…」
「ほなら、前言うてたバンドの曲、入れてくれたらええわ。
ボクはその為にキミの家へ行く、これであいこやろ」

苗字さんは少し考えて、まぁそれなら…とすっきりしない顔で呟く。

さっき聞いた話。
彼女とその幼馴染の色々。
言葉にこそしなかったが、大切な相手だったのであろうことは想像に難くない。

そいつの代わりにはなれへんけど。
自転車の整備くらいなら、ボクにもできるから。

これはエゴだろうか。
いや、きっとそうなのだろう。
こんなに誰かに固執したことはない。
勝手な共感や同情からくる親切心。
そういう見方もあるかもしれない。
恋愛感情に突き動かされているのかも。
そういう側面もないことはない。

もうどうでもいい、そう思った。

この子を放っておきたくない気持ちや、心から他人の幸せを願うという初めての気持ちに、別に名前をつけなくてもいい。
感情につけた名前に縛られるのも、馬鹿馬鹿しい。
どうしたいとか、どうなりたいとか、考えたところで答えはでないのだから。

「ほなね」
「ありがとう」

マンションのエントランスにつくと、苗字さんかがふわっと微笑んで手を振った。
ボクは肩越しにその微笑みを見て、自転車に跨る。
ふと蘇る鮮やかな記憶。

そういえば、母さんもあんなふうに笑てた。

随分と冷たくなった風が頬を掠めていく。
あの頃と同じように、ボクはなんだかその微笑みをずっと見ていられなくて目を逸らした。




あの公園での一件以降、一時の間疎遠になっていたボクと苗字さんの距離は、前よりも少しだけ近くなった。

季節は冬入口。

彼女とはあの人気の少ない階段で都合が合えば昼を一緒に過ごしたり、たまに彼女が学校まで走りに来た時に一緒に帰ったり、朝一緒に登校することもあった。

色々な話をした。
音楽のこと、高跳びのこと、ロードのこと、好きなモノ、嫌いなモノ、色々。
そして、時折零れる昔話をボクは黙って聞いた。
昔の話をして辛くならないのかと1度尋ねたことがある。
彼女は苦しそうに笑って、今まで辛さに向き合ってこなかったから、と噛み締めるように言っていた。
話すことで懸命に向き合って、受け止めようとしているのだろう。

ボク自身も彼女に引っ張られるように少しずつ、自分の話をしていった。
元来自分のことを人に話すことが苦手なボクにしては、よく話している。
彼女の前で素直になれるのは、苗字さんの持つ独特な雰囲気と距離感の心地良さのせいだと思う。

苗字さんといると、言葉にしなくてもどこか根底の部分で話せているような気持ちになれた。
彼女との時間がロードと勉強以外の数少ない時間の1つになった。

しかし全てが順調とはいかないものだ。
ボクは未だにスランプから抜け出せずにいる。



「なァ、キミィは何のために跳んでたん?」

何かの話の折にふと、疑問に思ったことを聞いてみた。

苗字さんは難しい顔をして暫く考えたあと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「自分を越えていくため、かな」
「自分を越える」
「そう。数分前の私より高く、って」

選手時代の彼女はさそがし強かったのだろうと思う。
自分自身と戦える人は強い。
それはロードでも同じ。
ただしロードはあくまでレース。
他人との削り合う勝負の中でこそ、究極に自分に向き合うことができる。
必要だ。
削り合う勝負ができる相手が。