傷口に雨(2/3)



私はいつも早めに家を出て学校へ行く。
早朝のすっきりとした空気の中、のんびりと自転車を漕ぐのが好きだった。
そして御堂筋くんとその空気の中話をすることが、最近の私の密かな楽しみだ。

「髪、切ったん」
「うん」

ずっと重たいなって思ってたんだ、と言いながら短くなった後ろ髪を触る。
御堂筋くんは、ほうか、と一言言って目を細めただけだった。

彼の何も詮索しない、ただ、私が話したいことだけを話させてくれるその空気感に今とても救われている。



あの日、あの公園で、顔を覆った私の手を剥ぎ取ってくれた冷たい手。
ぐちゃぐちゃに泣いて、一度溢れ出したら止まらない後悔や自分への侮辱の言葉を吐きに吐き出した。
言葉にして初めて、私は自分で自分を責め続けていたことに気がついた。
誰かに責められていたわけではないんだ。
お母さんの変わりにはなれない私、かけられた期待に応えられなかった私、あの時かけてほしかっただろう言葉を掛けられなかった私、してもらったことを返せなかった私。
心の中で“できなかった私”を作り出しては責めた。

そんな自分でも、私は私だし。抱えて進むしかないじゃん。

泣きながら、いつか自分で言った言葉を思い出していた。
あれは、そんな自分でも仕方ない、という諦めの言葉だった。
“できなかった自分”を荷物のように抱えて生きていくしかないという諦め。

でも、“できなかった自分”は“やりたかった自分”でもあるから。
それは過去じゃなくて、未来に繋がる自分。

滲んで見えたその世界は、前より少しだけ色鮮やかになっていた。



結局家に帰ったのは21時過ぎで、携帯を開くと怒涛のようにお父さんからの着信が入っていた。
電話を掛けると本当に久しぶりにこっぴどく叱られてしまった。
心配させてごめん、ありがとう、と素直に今まで言えなかったことを言ってみたら、分かってるならいい、とお父さんの声が少し揺れた。

キミィが思てるより、世界はもう少し優しい思うで。

歩き出した街頭の中で御堂筋くんがぽつりと言った一言は、本当のことのように思えた。
いや、黙って横に居てくれたその肩の温もりを感じた時から、本当は自分で気づいていたことなのかもしれない。

あの公園での出来事以降、御堂筋くんと一緒にいることが多くなった。
教室の中で話すことはほとんどないが、目が合えば視線で会話することもでてきたりして、なぜか御堂筋くんに避けられていた時期の前よりも距離が近くなったような気がする。

色々と話をする中で御堂筋くんと同じ中学だったことも知った。
中学校区が一緒だったということは、当然、学校への登下校の道も重なる。
朝、登校時に時々彼に無言で追い越されていたことに気がついていたが、今は声を掛けてくれるようになり一緒に登校したりもする。
下校時は彼は部活がある為時間が合うことは少ないが、夕方私が軽いジョギングで学校まで行くと私の帰りに合わせて彼も帰るなんてこともあった。
私としては家もそう遠くないところにあるということが分かり、時折家まで送ってもらうことへの申し訳無さが少しだけ和らいでほっとしたりなんかもした。



冷たい空気の中レッグウォーマーに口元をすっぽりと埋めて寒そうに目を細める御堂筋くんが、小さく欠伸をした。

「寒いねぇ」
「そらもう12月やからね」

まだ覚醒しきっていない様子で適当に返事をする御堂筋くんの表情を見る。
この表情が私は結構好きなのだ。

「頭軽くなったのはええけど、風邪ひかんようにね」
「そんな髪切って風邪ひくなんてマヌケなこと」
「せやから言うてるんよ、風邪に気ィつけやって」
「人をマヌケみたいに」
「え、違うたん?」

プップーと巫山戯て笑って見せる御堂筋くんを見て、思わず私も文句を言いながら笑ってしまう。
最近ちゃんと笑えることが増えたのも、きっとこの人のこの飄々とした雰囲気のお陰だと思う。

学校に着くと、ほなボク部室行くから、と御堂筋くんは別方向へ自転車を走らせて行った。
私は駐輪場へと向かい、自転車に鍵をかけて教室へと歩き出した。




異変に気がついたのは昼休みに入る前だった。
嫌に教室や廊下が騒がしいし、視線を感じる。
さて昼ごはんを食べようか、とリュックを持ち上げたところで、教室と廊下を隔てる窓からやたらと人がこちらを見ているのに気がついた。
何事…?、と思いながらこちらに向けられた視線にこちらも視線を返すと、男の子たちがニヤニヤしながらつつき合う。
よく分からないがなぜか注目されていることだけは理解した私は、その場から早急に立ち去ろうと席を立って教室を出た。

「あ、苗字さん!」
「…はい?」

後ろから呼び止められて振り向くと、顔を赤くした男の子が背後から冷やかしを受けながら立っている。

「髪…切ったんやね」
「あぁ、うん」

何が言いたい、と私が身構えると同時に、意を決したように見知らぬその男子が口を開いた。

「あの、めちゃくちゃ似合うてる…可愛ええと思う!」

不意をつかれて驚いたが、なるほどと納得する。
いつも目立たない女子の急なイメチェンを笑いにでもきたのだろうと。
なんとでも言えばいい。

「ありがとう」

内心イライラしながら余裕の表情でニコリと笑ってやった。
こういう冷やかしに傷ついた素振りを見せようものなら、行為がエスカレートすることを知っているから、余裕な様子を見せてあとは無視をする。
全然何も気にしてませんよ、という雰囲気を出すことが大事なのだ。

背後で、お前やるやん!とか、ほぼ告白やんけ!とか騒いでいる声が聞こえる。

馬鹿馬鹿しい、暇か。

廊下をいつもより早足で歩きながらいつもの階段へ行く。



「あぁ、ダルかった」

独り言を言って、リュックからストールを取り出した。
さすがにこの場所も冬は寒い。
でもだからといって教室でお昼食べたくないなぁ、と思いながら膝の上でお弁当を開ける。
今日のお弁当はそぼろご飯。
茶色に緑に黄色、良い色合いだ。

「なんや、えらい騒がれようやったね」
「御堂筋くん」

後ろから聞き慣れた声が聞こえて、振り返ると制服の黒が長いシルエットを作っている。

「見てたんだ」
「あんだけ騒がしかったら嫌でも目に入るわ」

ふらりと階段を音もなく降りると、私の座る段の2段下に座る。
初めてここで御堂筋くんとお昼を食べた時の坊主頭はもう随分と伸びている。
ひんやりとした風が吹くと、そよそよと柔らかそうな髪がなびいた。

「髪切ったくらいで、あんなふうに馬鹿にしなくてもいいんじゃないって思うんだけど。罰ゲームかなんかだったのかな」
「キミィ…」

御堂筋くんが目を見開いて後ろを振り向く。
視線がかち合って一瞬沈黙ができるが、ふぅん、とだけ言って御堂筋くんはまた前を向いてしまった。

「それであないに怒っとったんか」
「え、分かった?」
「そらもう、引くぐらいええ笑顔しとったからねェ」
「そんなに顔に出てたかな…」
「いや?別に顔には出てへんよ」

怒っとること多分誰も気ィついてへんのちゃう、そう言って御堂筋くんは綺麗な所作でお弁当を食べ始めた。

わからない。
そう思いながら、私もスプーンで卵をすくって口に入れる。

なんで御堂筋くんにはバレてしまうんだろう。
私が今まで隠してこられた色々を。
私は御堂筋くんの考えてること、よく分からないのに。
御堂筋くんって何考えてるんだろう。

「知りたいなぁ」
「は?」
「へ…?」

口元に持っていっていたスプーンから卵の黄色と一緒に、無意識に言葉がこぼれ落ちた。
御堂筋くんが訝しげな顔で私の顔を見ている。

「こぼれとるけど」
「わぁ」

御堂筋くんの視線を追って膝に掛けたストールを見ると、卵が散らばっている。

今、私なんて言った?

ちまちまと卵を拾い集めて、腑に落ちない気持ちでお弁当の蓋にその小さな黄色を落とす。

「ほんで、何が知りたいん?」
「え?」
「いや、キミが知りたいなぁて言うたんやろ」
「言ったかな」
「言うた」

大丈夫かキミィ、と呆れたような表情でため息をつかれたが、興味をなくしたようでそのままお弁当を食べる作業に戻っていく。

知りたいなんて、思うかな私が。

自分で自分がよく分からない。
自然と知っていくことはあっても、自分から人を知りたいと求めたことなんてなかったような気がする。
俊輔にも、だ。
知ろうとしなかった結果が、あのレースでのやり取りになってしまったのだけど。

うーんと考えてみるが、結局答えは出そうにない。
考えるのを諦めて、私もお弁当を食べる作業に戻った。

それに、と零れないように丁寧にそぼろを口へ運びながら思う。

どんな感情であれ、特別なものを向け過ぎてはいけない。
また何時なくなるか分からないのだから。
いつ離れて行っても大丈夫なように、心を保っておかないと。
だけど、少しでいい。
もう少し、この空気の中にいさせて欲しい。
そしたら、私、未来に向けて足を踏み出せそうな気がしてる。
助走が始まれば、あとは走っていくだけだから。
だからそれまでは。
君が許してくれる間は。