春は待ちぼうけ(1/3)
電話を切って、頭を抱えた。
いや、もっとマシな言い方あったやろ。
ハァ―と長い溜息を吐いて、布団に身体を投げ打つ。
眩しい白熱球の灯りを腕で遮った。
ていうか、なんやねん、石垣クンのアホゥ…。
あれだけ釘をさして、ちゃんとした経路で繋ぐなら繋げと言ったのに。
あのアホには通じなかったらしい。
腹立たしいことこの上ない。
今しがた、苗字さんと交わした会話を頭の中で反芻して考える。
気がついていた。
彼女があの場にいたこと。
やけに響く彼女の声が自分の名前を呼んで、ボクはその声を聞いた。
振り絞るような、必死な。
勝利を確信していた頭の片隅で、なんでキミィがそないな顔すんのや、と思ったことを思い出す。
そんな、ボクの勝利を祈るような。
本当のところ、自転車の領域にあの子を入れたくなかった。
不要な物が混ざって、今までの自分の在り方でいられなくなるんじゃないかと怖い。
彼女を切り離さなくてはいけなくなるのではないかと。
それやのに、なんで。
あの時過ぎった色は、何色だったか。
レースが終わって、帰り支度をしているボクに石垣クンが話しかけてきて、一緒に帰ろうやと同じ電車に乗り込むことになった。
自転車はバラして珍しく電車移動だから、行きの道中も石垣くんと一緒で正直少しうんざりしている。
でも結局方向は同じだし、断るのも面倒でそのまま放っておいた。
石垣くんは楽しそうに喋っている。
「今日なぁ、実は名前来てたんやで」
一方的に嬉しそうに話す石垣くんの言葉に、やっぱりあれは聞き間違いでも見間違いでもなかったか、と自分の記憶が正しかったことを知る。
「ふぅん」
「ふぅんて、お前、驚かへんのか?」
「別にィ。どォでもええ」
「でも、今お前、はじめて相槌打ったな」
「…ハァ?」
「いや、なんでもないわ。すまん」
図星を突かれて全力の不機嫌顔で睨み返して誤魔化すと、石垣くんが引いた。
「そういえば、名前レースの写真撮った言うてたわ」
「…」
「名前の撮る写真、めちゃめちゃ綺麗なんやで。
一度俺に空の写真くれたんやけど、それがええ写真でなぁ」
止めどなく話す石垣くんが鬱陶しい。
どこかで話を切らないとどこまでも続くと判断したボクは、重い口を開く。
「…苗字さん、人は撮らんて言うてはったけど」
ボクの言葉にいよいよ阿呆みたいな顔で、口をあけて石垣くんがボクを見つめた。
「…何?」
「…あ、いや、御堂筋がそないに名前と色々話しとると思わんくて」
「悪いん?」
「いや、悪くはないよ。驚いただけや…すまんな」
石垣くんがなにか考え込んで、長い長いため息を吐いた。
ボクはその横顔を不可解な気持ちで見つめる。
「名前、えらい応援してくれたみたいやけど、その、礼とか言わんでええんか?」
「礼ィ?なんでやねん。応援なんか誰も頼んでへんわ」
「いや、せやけど」
「どうせ、ナルゥコォの付添いかなんかであっこにおっただけやろ」
「まぁそうなんやけど…それでも、御堂筋走っとるって知って応援してくれはったのは事実やろ?」
急に何を言い出すんだ、とイライラして舌打ちをすると、なにか覚悟を決めたような顔をして石垣くんがボクの顔を見つめてきっぱりと言い放った。
「やっぱりそういうの、ちゃんとしたほうがええと思う!」
こうなると、石垣くんは頑固だ。
どんなにうんざりした顔をしようと、邪険に扱おうと自分のしたいように行動する。
そういうところが、ボクは心底。
「…嫌いやわァ」
「ハハ!そやろなぁ。よう知っとる」
何にもおもんないわ、と睨みつけるが大して効果はないのは見れば分かる。
苗字さんの連絡先は知っているのかと聞かれ、知らん、と答えると、やっぱりなと苦笑された。
「とりあえず、名前の連絡先送るわ」
「いや、先に向こうに許可とってからにしィや」
「お、そやな」
「あと、ボクゥの連絡先も向こうに伝えといて。
急に知らん番号から連絡きたらびっくりしはるやろ」
「御堂筋て…案外、自転車以外では常識的なんやな」
失礼なことを言う石垣くんを見て、あんなァ、と呆れた。
「キミィ、ボクをなんやと思ってるん?」
「すまん、すまん」
ヘラヘラと笑う石垣くんを横目に、今日何度目かの舌打ちをして遠くに視線を飛ばす。
“人を撮りたいって思えなくて”
写真が趣味だという彼女と、よく分からないカメラの話をしていた時にした会話をボクはよく覚えていた。
“写真ってやっぱり、これを切り取りたい!って強い気持ちがあって撮るもんだと思うんだけどさ。
人相手ってそのうえ更に、その人の内面にもっと踏み込むようなところがあると思うんだよね。それはちょっと…”
“…恐い?”
“…代わりにぴったりくる言葉をありがとう”
皮肉っぽく笑った苗字さんの少し冷たい笑顔を見て、やってしまった、と少し後悔したことを思い出す。
観察して、相手の心の内を読み解いて、動揺させるのは、道の上での常套手段だが、あくまで手段であって目的ではないのに。
ボクは何がしたかったのか、今となってはもうよく分からない。
でも、あの苗字さんが、人を撮ったんや。
どういう心境の変化なんやろか。
口元を掌で覆って、不思議なスピードで過ぎていく窓の外の景色を目で追った。