花霞(1/2)
こんなところがあったんだ。
そんなことを思いながら、ゆっくりと階段を登る。
そよそよと頬を掠めていく風が、暖かい春の香りを運んでいった。
耳元ではイヤホンがランニング用に作ったプレイリストを流している。
冬はどうしても筋肉が強張って負傷した箇所が疼くけど、春になると暖かくなって走りやすくなる。
通院している整形外科の医者からはもう随分前に、無理しないこと、定期的に通院することを条件に、軽く走る程度は許可をもらっている。
陸上に復帰するつもりはないが、それでもやっぱり走るのは好きでやめられないのだ。
そんなわけで、冬の間短くしていたランニングコースの距離を少し伸ばして暫く経っている。
そろそろお馴染みのコースに飽きてきて、今日はいつもとコースを替えて走ってみたところ、良さそうな公園を見つけて寄り道をしている。
登りきった階段の先に広々とした広場が広がっていた。
桜が満開で、人はまばらで、気持ちの良いところだ。
イヤホンを外すと自然の音が聞こえてくる。
暖かい空気の中、のんびり公園内を散歩すると自由な気持ちになれて心地が良い。
遠くを見て、あれ?と気が付く。
公園の端だと思っていたところは、そこから先が斜面になっているようでその先に何かあるようだ。
興味が向いて近寄って、見えたものに反応して思わず芝生の斜面を駆け下りた。
これがまずかった。
「いって、てて…」
下に辿り着いて膝をつき、足首を抑える。
つい無茶な足の使い方をして、痛みで熱を持ってしまっていた。
やっちゃったな…、と後悔して痛みが引くのを待つ。
「大丈夫ですか?」
ふと聞こえた声に顔を上げた。
日に透けると青みがかって見える綺麗な髪が揺れて、優しげな言葉とは裏腹に、冷ややかな切れ長の瞳がこちらを見ている。
「…あ、…はい」
急なことに驚いて上手く言葉が続かない。
その不思議な空気を纏う少年が、フェンス越しに私を見ている。
まるで、観察するように。
「ちょっと、待っててください」
暫く私と目を合わせた後、彼は一言そう言ってその場を離れた。
「お待たせしました」
小さなバックを片手にその彼が現れるまで、私はその場を動けずにいた。
結構酷くやってしまったようだ。
彼が脇に抱えているのはトレーナーバックで、陸上時代よく目にしたものと同じものだ。
ということは、あのバックの中には怪我に対応するためのグッズが色々入っているはず。
「すいません」
「いえ、構いません」
触ってもよろしいですか?と丁寧な口調で聞かれ、はい、と答えると、では失礼します、と綺麗な指が私の足首を触る。
「自転車に興味がおありですか」
私の足首を触りながら、スプレーをしたり手際よく的確な箇所にテーピングをしながら目も合わせずに聞いてくる。
「え?」
普通こういう処置をする時は、ここ痛む?とか聞きながらやっていくものだが、目の前の彼はそういうことは何も聞かず、全く関係のない質問をされて戸惑ってしまう。
「いえ、ロード見て駆け下りて来られたように見えたので」
見られていたのか、と自分の間抜けな行動を思い返して顔が熱くなる。
そうだ。
この子の言う通り、思わぬところでロードレース場を見つけてしまってテンションがあがってしまったのだ。
「知ってる人がロードレースをやってて、それで…」
なんと説明していいかわからず言葉を濁すが、へぇそれは珍しい、と尚も手を動かしながらなんの感情も伴っていなような声音で返される。
「もしかして、京都伏見高校の方ですか?」
「…そうですけど」
そこで初めて彼の表情が変化して、視線がすぅっと上にあがってきた。
薄い唇が美しい半円を描く。
「やっぱり」
できましたよ、その笑顔のままそう言われて下を向くと、綺麗にテーピングが施された自分の足があった。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
応急処置ですからかかりつけのお医者さんにちゃんと見せてくださいね、と言いながら美しい所作で散らばったグッズをバックに片付けていく。
「あの」
「なんですか?」
チラリと戸惑っている私を見て彼が再び笑う。
「あぁ…なるほど。
僕、今年京都伏見に入学して自転車部に入部するんです。
ロードレースはマイナースポーツですからやってる人の数は少なくて、この辺りでロードをやる中学生は大体京都伏見を目指すんですよ。
貴方のお知り合いの方がロードレースをされていて高校生なら、恐らく京都伏見だろうと思ったというだけです」
ニコリと綺麗に微笑んで彼は更に続ける。
「僕、岸神小鞠と言います」
また学校でお会いできるかもしれませんね、先輩、と去り際に言い置いて岸神くんはその場を離れていった。
なんというか、本当にこれ現実?と言いたくなるような、現実味のない不思議な時間だった。
そんな不思議な空気感を纏う岸神くんの予言通り、本当に学校でこの彼に関わることになるとは夢にも思わず、その時の私は狐に抓まれたような気持ちでその場を後にした。