薄氷(1/4)
本当はずっと前から気がついていた。
ボクらの関係は、酷く曖昧で、不安定で、それはまるで少しでも体重をかければ、ピシリとヒビが入るような氷の膜のような物であることを。
遠目に、苗字さんが廊下を歩く姿が見える。
学年が上がってからクラスが離れ、いつも見ていた彼女の姿は偶然見かける程度のものになった。
つい、見慣れていたあの姿を探して視線を動かしている自分がいて、それが酷く自分には似つかわしくない行為に思えて狼狽した。
それでも、気持ちは自動的に、ごく自然に動くから。
結局ボクは今日も、廊下を歩くたびに彼女の姿を探していたりする。
昨日も偶然見かけた彼女を追いかけてしまったことを思い出して、顔が歪む。
彼女の背後から複数の女子が追いついてきて、気がついた彼女が楽しそうに話す様子に目を見開いた。
トモダチ、できたんか。
談笑しながら歩いていく彼女を目で追いながら、驚いている間に視界から消えていった。
ここ最近は昼休みに小鞠に捕まってしまい、あの階段に行けずにいる。
あんなふうに笑う彼女の顔を、久しぶりに見た気がした。
ほんの少し会わないだけで、人は変わるものだ。
今日も今日とて、昼休みに図書館で用事があるという小鞠に合わせて、練習メニューについて打ち合わせるため、図書館前の広場で昼を食べることになった。
今年のインハイに小鞠を連れて行くと決めてから、準備をすすめているところだ。
再び目の前のメニューが書かれたノートに視線を戻す。
「苗字先輩遅いな」
聞き慣れた名前が、無関係の筈の目の前の後輩から発せられて思わず視線を上げると、いつもの笑みを貼り付けた小鞠がこちらを見ていた。
「あれ、御堂筋さん、苗字先輩ご存知なんですか?」
「…いや、別にィ」
「へぇ…」
なんで、キミがその名を呼ぶんや。
その問いは腹に沈める。
彼女とボクのこの関係は、あまり人に知られたくなかった。
そう思って、いたのに。
「岸神くん…、と…御堂筋…くん?」
なんで。
苗字先輩こんにちは、と再度笑みを作る小鞠を見て、舌打ちしたくなる気持ちをぐっと堪えながら振り向いた。
「なんやの」
背中越しにチラリと寄越したボクの眼差しはきっと、とてもキツいものだったんじゃないかと思う。
「何でもないけど…あ、岸神くん、私、先に視聴覚室に行ってるね」
「はい。僕もすぐに行きます」
1年前より随分と短くなった襟足から覗く、白い項の残像をひっそりと目で追いかける。
なんや、この気持ちは。
「じゃあ、御堂筋さん、僕も行きます」
「ちょォ、待ちィ」
立ち上がりかけた小鞠の手首を思わず掴んで、見下ろしてくる視線に自分の視線をぶつけた。
たじろぎもせず、じっとこちらを見ている。
「なんです?」
小鞠が口元をもう片方の手で隠して、可笑しそうに笑った。
「キミィ…何隠してるん」
「嫌だなぁ、御堂筋さん。僕は貴方には何も隠せませんよ」
それとも、と小鞠の口がゆっくりと動く。
「御堂筋さんの隠したいモノに、僕が触れちゃいましたか?」
こいつ、この男。
知っていてやっている。
ぱっと手を離すと、小鞠の手がパタリと落ちた。
「…この数週間で、なんや生意気になったなぁキミ」
「そんな、とんでもない」
「まぁ、なんでもええよ、レースに支障なければ」
はよ行き、と手をひらひらと振ると、では失礼します、と荷物をまとめて立ち去っていく。
チラリと2階の窓に視線を向ければ、苗字さんの横顔が目に入った。
一瞬、目が合った気がしたが気の所為だったようだ。
ボクもすぐに視線を外して、頬杖をついて遠くを見る。
流石小鞠というところか。
しかしあの外側(ガワ)にしか興味のない小鞠が、人の内面に触れようとしてくるとは。
そうなると小鞠は、他のザク共のように誤魔化せる相手でも、気がついても放っておいてくれるほど我慢が利く相手でもない。
"レースに支障なければ"
自分の言った言葉が頭の中で繰り返される。
今までだって支障はなかった。
けど、今よりもっと飛躍するためには、捨てられる物捨てていかんと。
ノートに書いた自分の文字が目に入る。
「軽量化…」
ポツリと口に出してみれば、その言葉はじわりと腹に広がっていった。
ボクはさっき何を思った?
トモダチらしき人らと楽しそうに笑うあの子に。
小鞠クンと言葉を交わすあの子に。
ボクの知らないところで世界を広げていこうとしているあの子に。
執着は勝利にだけでええ。
その他にその感情を向けても、消耗するだけや。
それに、と胸中で呟いてゴシゴシと顔をこすった。
ボクが荷物になったらあかんやろ。
指の隙間から練習ノートに目を落とす。
彼女が広げていこうとしている世界を、ボクが邪魔しているのではないか。
ボクがいることで彼女を縛っているのだとしたら。
ボクといることで何か彼女に迷惑がかかる恐れがあるとしたら。
彼女にとっても、ボクはいらない物なのではないか。
「そうや。それがええ」
自分を納得させるための独り言を呟いて、再度ペンをとって今日のメニューを練り直していく。
考えていたメニューをよりハードなものに書き換えていくために。