薄氷(2/4)



なにか怒らせるようなことしたかな。

暮れかけた空を仰いでため息を吐く。

あの昼休みの御堂筋くんの視線がずっと引っかかっている。
気まずくて岸神くんにだけ声を掛けただけになってしまったけど。

リズミカルに足を動かして見慣れた道を走れば、既に散ってしまって青桜になった桜の葉が揺れた。
この川辺は春は桜が目一杯に咲き乱れる。
今年もそれは見事だった。
この並木を通って、春風に誘われるようにして行った公園で岸神くんと会ったのだ。

"御堂筋くん、なんか怒ってなかった…?"
"さぁどうでしょう。
まぁだとしても、苗字先輩へ怒ってるわけではないと思いますよ"

あの均衡のとれた笑みを平然と浮かべてそう言った岸神くんの顔を思い出す。

岸神くんは御堂筋くんとはまた違った分からなさだなと思う。
分からないというよりも、得体が知れないといったほうがいいだろうか。
苦手というほどではないが、付き合いにくいことこの上ない。
これから1年間はあの不思議な1年生と委員会で関わっていくことになると思うと、少々気が重たい。

いいことばかりじゃないな、と再びため息をついて最後の曲がり角を曲がったところで、疑問符を浮かべる。

あれ?

見えてきた自宅マンションを目指して走りながら目を凝らした。
夕闇の中エントランスの灯りに照らされた猫背のシルエットが、段に腰掛けているのが見える。

「…ハァ…ハァ、みどう、すじ、くん?」

切れる息を整えながらその名を呼べば携帯に向かって俯いていた顔がゆっくりと上ってきて、大きく見開かれた瞳が私を捕えた。

「…家に、おるんやなかったん?」

携帯を持っていた手がぶらりと身体の横に降ろされる。

「や、ちょっと気晴らしに走ってきたところだった」

走ってきたからじゃない心臓の早さを隠しながら平静を装って笑ってみせると、ふぅん、と見開いていた目が細められる。

「どうしたの?」
「…自転車のギア」
「へ?」
「ギア、調子悪い言うてたやろ」

どことなく歯切れ悪く言う御堂筋くんを変だなと思いながら、あぁうん、と相槌を打つと、とりあえず自転車持って来て、と目を合わせずに御堂筋くんが言う。

「わ、わかった」

まさかその為に来てくれたのかな?、なんてドキドキしながら急いでエレベーターに乗り込んで緩んでくる頬を触った。
こんなふうに気にかけてくれることが、たまらなく嬉しかった。

玄関を開けると人の気配がなくて、そうか今日お父さんいないんだっけと思い出す。
お茶くらい出せるかなと考えながら、廊下に置いてある自転車を家から出した。

下に降りると、長い脚を放り出して段に腰掛けていた御堂筋くんが顔を上げる。

「ごめん、お待たせ」
「おん」

エントランスの灯りを頼りに、御堂筋くんが自転車のチェーン部分を覗き込んだ。
私は携帯の灯りで御堂筋くんの手元を照らして、手際よく工具を動かしたり部品を触っていく長い指を見つめる。

カチャカチャと自転車を触る音だけが2人の間を流れていく。
不思議と御堂筋くんとの沈黙は苦しくない。
そっと御堂筋くんの手元に落としていた視線を、上にあげて白いその顔を見た。

「なァんか、ついとる?」

ボクゥの顔にィ、と視線は手元から逸らさずに御堂筋くんが言うものだから、私は慌てて目を逸らして誤魔化す。

「直りそう?」
「当たり前やろ」

苦し紛れの私の一言に、事も無げに御堂筋くんが返した。
こういうやり取りいつぶりだろうと思ってつい笑うと、御堂筋くんお決まりの、キモ、という呟きが返ってきて、私はそれが嬉しくてまた笑ってしまう。

よし、と一言御堂筋くんが言って立ち上がる。

「これでええやろ」
「ありがとう」

べェつにィ、と言いながら持ってきた工具を鞄に入れるその仕草を目で追いながら、あ、そうだと、先程家を出るときに考えていたことを口に出した。

「良かったら、ちょっと上がっていかない?」

何気なく言った言葉に返事がなくて御堂筋くんの顔を見ると、目をまん丸にして私を凝視している。
その顔を見て、自分が何を言ったのかを再認識して、一気に我に返った。

「え、あ、いや!今日お父さんいないから、気にせずに!」

て、もっと駄目じゃん!と墓穴を掘るような自分の言葉に更に慌てる。
そういうなんか、変な意味じゃなくて…と自分の中で言い訳を探して、はたと思い出す。

「あ、そう、ご飯!
ご飯をね!お父さんいないの忘れてて2人分作っちゃったから、その、お礼に」

食べて行かない?

私の言った一言が、宙に浮いて沈黙が落ちてくる。
しまった、普通家の人が準備して待ってるか、と自分の不躾な誘いを後悔しはじめたところで、御堂筋くんがそっと口を開いた。

「…ほな、ご馳走になるわ」

こちらを見もせず、案内してや、と先に自分の自転車を押して歩き出した御堂筋くんの背を慌てて追いかける。
こんなことになるとは、と自分のした誘いが今更ながら大それたことだったと思い知って、乗り込んだエレベーターの中で俯いた。