新緑(2/2)



週に1度の図書委員の仕事を淡々とこなしながら、ため息を吐く。
折角本が読めると喜んで買った、様々な写真家の合作写真集も全く前に進んでいない。

廊下で御堂筋くんとすれ違ったあの日から、すでに1ヶ月が過ぎ去っていた。

相変わらず気がつけば御堂筋くんを探しているような有様だ。
見つけても眺めるだけで声は掛けられないし、目が合いそうになると逸らすといった始末。
何となくあのお昼の階段にも行けていない。
自分でも、こじらせてるなぁ、と思う。

「お願いします」
「あ、はい」

本を受け取りバーコードをリーダーで読み取る間に、岸神くんが返却期限のスタンプを図書カードに押して、借りに来た生徒に本を渡す。

「あの」

本を渡せばカウンターの前から去るはずの生徒が立ち止まっているから、違和感で顔を上げると、緊張した面持ちで今しがた手渡した本を握りしめた男子生徒がこちらを見つめている。
一瞬の間の後、意を決したように彼が口を開き、図書館には相応しくない大きな声が響いた。

「これ、読んでください!」

返事はいいんで、そう言い残して、折り畳んだルーズリーフをカウンターに置くやいなやバタバタと走り去っていく後ろ姿を見送る。

「またですか」
「・・・」

岸神くんが、興味なさそうに隣で自分の本のページを捲りながら言う。
ルーズリーフを開いてみれば、そこには案の定、こちらが恥ずかしくなるような思いの丈が綴られていた。
ため息をついて制服のポケットにその手紙を仕舞う。

学年が上がって3度目だ。
全く話したこともない、名前すら知らない男の子から告白されることが続いている。
しかもこの委員会の時間に。
その度に、岸神くんから白けた視線を送られるのだ。


「苗字先輩モテるのに、嬉しそうじゃないですね」

読んでいた本から顔を上げてニコリと微笑んで首を傾げる岸神くんの言葉に、私はため息を返した。

「モテてるなんて思ってないし、嬉しくもないよ」
「それ本気で言ってます?」

聞く人が聞けば物凄い嫌味ですよ、それ、とクスクスと笑う岸神くんを見て、ぐぅっと言葉が詰まる。

「…嬉しくないのは本当だよ」

ぼそりと呟くと、へぇ、と岸神くんの好奇心が見え隠れする視線が向けられた。

確かになんの間違いか、どうやらモテているのは間違いないらしいけれど。
どんなに誰かに好きだと言われても、私が好きな人はただ1人なのだ。
御堂筋くんに見てもらえないならなんの意味もない。
でも御堂筋くんに手を伸ばすのは、今の私にはあまりにも烏滸がましいように感じてしまう。
今の、なにもない、空っぽの私では。

「こんなの多分ブームみたいなもので、そのうち皆騒ぐ程の人間じゃないって気がつくと思うよ。こんな空っぽな人間」

机に突っ伏したまま伸びをして、そのまま体重を預ける。
岸神くんの顔は見えないけど、その視線がまだこちらに向いているのは空気でわかる。

「どうしてそう、苗字先輩は卑屈なんです?」
「いや、言い方よ。謙虚って言ってくれない?」
「謙虚と卑屈は全く別物ですよ」

少し顔をずらして彼の顔を見ると、真っ直ぐな瞳がこちらを見下ろしていた。
岸神くんの長いまつ毛がゆっくりと上下に動くのを見て、私は思う。

彼は正しい。
私なんかよりもずっと。
1年の差なんて、人の精神で見ればとるに足らないものだと思わされる。
私は何も分かっていないという気持ちにさせられる。
あぁこの思考回路が、もう既に彼の言う卑屈なのだろう。

「…岸神くん」
「なんです?」
「ムカつく」
「おや、苗字先輩でもそんなこと面と向かって人に言われるんですね」
「岸神くんだからいいかなぁって」
「酷いなぁ」

面白そうにクスクス笑って岸神くんは再び本に視線を戻した。
平然と何事もなかったかのようにページを捲る岸神くんの横顔を見ていると、ふいにその視線が考えるように上へ向けられて口が開く。

「空っぽって悪いことですか?」

唐突に岸神くんから思わぬ質問が飛んできて、私は驚いて目を見開いた。

「なに、急に」
「いや、そのようなことを先程言われていたので」

思わず出ていた胸の奥底の本音を拾われたことにバツの悪さを感じて、岸神くんから視線を逸して今度は私が手元の本に視線を落とす。

「そりゃ、やりたいことが明確で、やるべきことが分かってる方がいいんじゃないの?」

何も定まらずフラフラしてる私なんかより、ずっと。

「やるべきことが明確な人というのは、きっと、“やりたい”という欲に忠実で、包まずにその欲を出している人ではないかと思うんです」
「どういうこと?」

岸神くんの言わんとすることが分からず、聞き返して再びその横顔を見た。
考えを形にする言葉を探るように、岸神くんがゆっくりと言葉を繋げていく。

「見えているものが重要ではないということです。
欲が満たされれば、別に方法はなんでも良いんですよ。
勝ちたい、認められたい…そういう欲を持っていない人間はいない。
欲があるから、不満が生まれ誰かと比べて卑屈にもなるのでしょう。
苗字先輩は空っぽであることを悪いことのように言いますが、空っぽを“埋めたい”という欲は、立派な原動力になるのではないですか?
その欲がなければ、なにも始まりませんから」
「欲…」

岸神くんの言葉をゆっくりと自分の中で反芻する。

考えてみれば、心から何かをしたいとか、欲しいとか、そういう強い欲求を感じたことはなかったように思う。
皮肉なことに、空っぽになって初めて、私はその感覚を得たのかもしれない。
常に感じている渇望を、潤したいという欲求を。

傍に居たい、もっと知りたい、見ているだけじゃ嫌。
こういう気持ちの行き先をずっと考えていた。
じゃあどうしたいのかと聞かれると、やっぱり身が竦んでしまうのだ。
恋人になるだとか、友達になるだとか、御堂筋くんにも同意を得ないといけないようなことを、私の気持ちだけを押し付けて求めることはとても失礼なことのような気がして。
だから、あの日思わず御堂筋くんに言ってしまったことをずっと後悔していた。
でも別に、それだけが私のその欲求を叶える手段じゃない筈だ。

手元で何となく捲っていたページを眺める。
少しずつ頭の中で気持ちが整理されていくのを感じながら、あの冬の大阪で撮った写真のことを思い出していた。

fin